第一章 誰かの匂い、僕の孤独
僕の鼻は、時々嘘をつく。
調香師見習いの僕、水野蒼(みずの あおい)にとって、それは致命的な欠陥だった。アトリエに満ちるジャスミンとベルガモットの清澄な香りの中に、ある瞬間、全く異質な匂いが割り込んでくるのだ。
今もそうだ。ムエット(試香紙)に染み込ませた新しい試作品の香りを確かめようと、そっと鼻に近づけた瞬間――ふわりと、潮の香りがした。それも、ただの海の香りではない。錆びた鉄の匂い、船の燃料油の微かな刺激臭、そして遠くで干物を焼いているかのような、香ばしくも物悲しい匂い。それは、僕がいる都心のアトリエから何十キロも離れた、寂れた港町の風景を想起させた。
「キミは、今日も海辺にいるんだな」
僕は心の中で、その匂いの主に語りかける。顔も名前も知らない、見えざる友人。物心ついた頃から、僕の嗅覚は時折、この世界に存在しないはずの誰かの嗅覚とリンクした。それは日に数回、数秒から数分間だけ訪れる奇妙な現象だった。医者はそれを幻嗅症の一種だと診断したが、僕には分かっていた。これは病気などではない。僕以外の誰かが、どこかで本当に嗅いでいる匂いなのだと。
「蒼くん、集中力が散漫になっているぞ」
背後から、師匠である古賀仁(こが じん)の低く、厳しい声が飛んできた。振り返ると、銀縁眼鏡の奥の鋭い目が僕を射抜いていた。
「すみません。少し、別の匂いが……」
「またそれか」古賀師匠は深い溜息をついた。「調香師の鼻は、ただ匂いを嗅ぎ分けるだけでは足りん。無数の香りの中から、創造すべき一つの世界だけを嗅ぎ取る『意思』が必要だ。お前の鼻は、あまりに不安定すぎる」
その言葉は、硝子の破片のように僕の胸に突き刺さった。師匠の言う通りだった。僕の嗅覚は僕のものでありながら、僕のものではなかった。見えざる「キミ」が僕の感覚を支配する時、僕は自分の世界を見失う。
僕は「キミ」の存在を誰にも話したことはない。話したところで、信じてもらえるはずもなかった。だから「キミ」は僕だけの秘密であり、唯一の友人だった。雨の日の土の匂い、古い図書館の紙とインクの匂い、夏祭りの綿菓子の甘い匂い。「キミ」が送ってくる断片的な香りの情報から、僕は「キミ」の人生を想像した。きっと僕と同じくらいの歳で、感受性が豊かで、少しだけ寂しがり屋なのだろう、と。その想像は、僕自身の孤独を慰めるための、ささやかな儀式だった。
その夜、自室のベッドで眠りにつこうとしていた僕の鼻腔を、今まで感じたことのない匂いが唐突に貫いた。
それは、焦げ付いた砂糖のような甘さと、何か薬品が燃えるようなツンとした刺激臭が混じり合った、不快で危険な匂いだった。一瞬息が詰まり、僕は激しく咳き込んだ。匂いはすぐに消えたが、胸の中に得体の知れない不安が黒い染みのように広がっていく。
「キミ……?」
僕は暗闇に向かって呟いた。
「今のは、何の匂いなんだ?」
返事は、ない。ただ、部屋の窓から流れ込む夜風が、僕の頬を冷たく撫でていくだけだった。その日から、僕の世界は静かに、だが確実に軋み始めた。
第二章 焦げ付いたシグナルを追って
焦げ付くような危険な匂いは、日を追うごとに頻度と強度を増していった。時には、甘く腐った果物のような匂いや、シンナーに似た有機溶剤の匂いも混じるようになった。それは明らかに、平穏な日常から発せられる香りではなかった。
「キミ」は、何か良くないことに関わっているのではないか。
その疑念は、僕の中で確信に変わっていった。僕が調合するフローラルノートの繊細な香りは、不意に現れる「キミ」の危険な匂いによって何度も台無しにされた。集中できず、ミスを繰り返す僕に、古賀師匠の叱責が飛ぶ。
「もう一度やり直せ。これではただの芳香剤だ」
「……はい」
俯く僕の鼻先を、またあの腐った甘い匂いが掠める。僕はムエットを取り落としそうになるのを必死でこらえた。「キミ」が感じる匂いが、僕の現実を侵食していく。このままでは、調香師の夢も、僕自身の感覚さえも、何もかもが壊れてしまうかもしれない。
だが、恐怖と同時に、奇妙な使命感が芽生え始めていたのも事実だった。僕だけが「キミ」の危険を知ることができる。僕が何もしなければ、「キミ」は取り返しのつかないことになるかもしれない。僕と「キミ」を繋ぐこの見えない糸は、呪いではなく、助けを求めるシグナルなのではないか。
僕は決心した。「キミ」を探し出そう、と。
手がかりは、匂いだけ。あまりにも無謀で、途方もない試みだった。僕は、これまで感じてきた「キミ」の匂いをノートに書き出し、分類し始めた。
『基本の匂い:潮、錆びた鉄、魚』――海沿いの町だ。
『時々混じる植物の匂い:ハマナス、月見草』――おそらく、砂浜に近い場所に自生している植物だ。
『最近の匂い:焦げ付き、薬品臭、腐敗臭』――これは異常事態の匂い。
そして、もう一つ、常に微かに感じられる匂いがあった。それは特定の工業地帯で感じられる、オイルと金属粉が混じったような独特の排気の匂い。
「港があって、砂浜があって、近くに工場がある……」
地図を広げ、僕は可能性のある地域を一つずつ塗りつぶしていった。周囲からは、僕の奇行が訝しがられた。アトリエの仕事も休みがちになり、古賀師匠との溝は深まるばかりだった。
「一体何を調べている。そんなものに時間を費やす暇があるなら、一本でも多く試作を作れ」
「師匠には、分かりません」
僕は、初めて師匠に反抗的な言葉を口にした。師匠の失望したような、それでいて何かを憂うような複雑な表情が、僕の胸を締め付けた。それでも、僕は止まれなかった。これは僕が僕であるために、そして、見えざる友人を救うために、成し遂げなければならないことなのだ。
数週間後、僕はついに、全ての条件が合致する一つの場所に辿り着いた。県境に近い、寂れた工業港。そこから漂ってくる空気は、まさしく僕が「キミ」を通じて感じてきた匂いそのものだった。
心臓が激しく鼓動する。僕は、あの危険な匂いが最も強くなる場所――港の隅に打ち捨てられたように建っている、巨大な廃倉庫へと、震える足で向かっていった。
第三章 共感覚の果て
錆びて赤茶けた鉄の扉は、軋みながらも簡単に開いた。中に足を踏み入れた瞬間、僕は息を呑んだ。充満する、あの匂い。焦げ付いた甘さと薬品の刺激臭が凝縮された空気が、肺を焼くように侵入してくる。倉庫の中は薄暗く、得体の知れない機械や薬品の入ったドラム缶が乱雑に置かれていた。明らかに、まともな場所ではない。
「キミは、こんな場所に……」
倉庫の奥から、微かに人の声が聞こえた。僕は息を潜め、物陰に隠れながら慎重に進む。声は、二人の男が言い争っているようだった。
「……もうやめろと言っているんだ!こんなことをして、お前の人生はどうなる!」
その声に、僕は全身が凍りついた。聞き間違えるはずがない。僕を幾度となく叱責してきた、あの低く、厳しい声。
古賀師匠だった。
「うるさい!あんたに何が分かる!」
甲高い若者の声が、師匠の言葉を遮る。
「親父はいつだってそうだ!俺のことなんて何も見ようとせず、自分の価値観ばかり押し付けて……!」
物陰からそっと覗き見ると、そこには信じられない光景が広がっていた。床に散らばる怪しげな薬品。そして、その中心で対峙する、古賀師匠と、痩せこけた若い男。男の腕には痛々しい注射の跡が見えた。
なぜ、師匠がここに? この男は誰だ? 僕が感じていた匂いは、この男のものだったのか?
混乱する僕の頭を、師匠の悲痛な叫びが揺さぶった。
「お前がどこで何をしているか、私には分かるんだ!お前の嗅ぐ匂いが、私にも届くのだから……!」
――お前の嗅ぐ匂いが、私にも届く。
その言葉は、雷鳴となって僕の脳天を撃ち抜いた。まさか。そんなはずはない。匂いを共有しているのは、僕と「キミ」じゃなかったのか?
「お前がこの薬に手を出した時の、あの胸が焼けるような甘い腐臭も!仲間と隠れるこの倉庫の、錆とカビの匂いも!全て、私の鼻に流れ込んでくる!お前が道を踏み外していく様を、私は毎日、この鼻で感じさせられてきたんだ……!」
師匠の告白に、僕は全てを理解した。
僕が感じていた匂いは、「キミ」のものではなかった。僕が「キミ」だと思っていた人物は、存在しなかったのだ。
嗅覚を共有していたのは、古賀師匠と、彼の息子だった。
そして僕は、その二人の間で交わされる痛切なシグナルを、ただ一方的に、混線したラジオのように受信していたに過ぎなかったのだ。僕が感じていた潮の香りは、息子を案じる師匠が、昔二人でよく行った海を思い出していた匂い。僕が感じていた危険な匂いは、師匠が息子の嗅覚を通じて感じていた絶望の匂い。
僕が「友情」だと思っていた繋がりは、ある親子の、悲痛な絆の断片だった。
「うるさい!」息子が叫び、近くにあった薬品の瓶を師匠に投げつけた。瓶は壁に当たって砕け散り、中の液体が漏れ出す。その瞬間、近くにあった機材から火花が散り、液体に引火した。
「危ない!」
炎は一瞬で燃え広がり、黒い煙が倉庫を満たし始めた。
第四章 きみと僕のシンフォニー
猛烈な煙が視界を奪い、呼吸を困難にさせた。咳き込む師匠と、恐怖に竦む彼の息子。僕の頭はまだ混乱していた。僕の信じていた世界が、音を立てて崩れていく。孤独を埋めてくれたはずの「キミ」は、僕の幻想だった。
だが、僕の鼻は、この極限状況の中で驚くほど冷静に機能していた。煙の中に混じる、いくつもの匂いを正確に嗅ぎ分けていた。燃える薬品の刺激臭、熱せられた鉄骨の匂い、そして――外へと続く隙間から流れ込む、湿った土と僅かな潮の香り。
「こっちです!」
僕は叫んでいた。コンプレックスの塊で、呪いだと思っていたこの嗅覚が、今、唯一の道標になっていた。
「この匂いを辿れば、外に出られる!」
僕は師匠の手を掴み、彼の息子を促した。一瞬、僕を訝しげに見た師匠だったが、僕の真剣な目に何かを感じ取ったのか、無言で頷いた。僕たちは、僕の鼻だけを頼りに、煙の中を突き進んだ。熱と闇の中、僕はかつて「キミ」が送ってくれた様々な匂いを思い出していた。雨上がりのアスファルトの匂い、キンモクセイの甘い香り、冬の朝の澄み切った空気の匂い。それらは幻想なんかじゃなかった。苦しみながらも息子を想う、一人の父親の心象風景そのものだったのだ。
僕たちは、倉庫の裏手にある小さな換気口から、間一髪で外へ転がり出た。背後で、倉庫が轟音と共に炎に包まれる。三人は地面に倒れ込み、激しく咳き込みながら、新鮮な空気を貪るように吸い込んだ。
事件の後、師匠の息子は保護され、更生の道を歩み始めた。師匠は、僕に全てを話してくれた。彼の一族に稀に現れるという、血縁者との感覚共有の能力のこと。そして、行方知れずだった息子を、その能力だけを頼りに探し続けていたこと。
「君が感じていたのは、私の苦悩そのものだったのだな。すまなかった」
深く頭を下げる師匠に、僕は静かに首を振った。
「いいえ。僕は……孤独じゃありませんでした。師匠の痛みを通じて、僕は初めて、誰かと繋がっていると感じられたんです」
僕の見えざる友人「キミ」は、いなくなった。しかし、僕の世界から色が消えることはなかった。むしろ、これまで以上に鮮やかに、豊かに感じられるようになった。他人の痛みを、喜びを、本当の意味で想像できるようになったからだ。不安定だと揶揄された僕の鼻は、他人の心に寄り添うための、特別なアンテナだったのだ。
数ヶ月後。アトリエの窓から、柔らかな陽光が差し込んでいた。僕は、新しい香水の仕上げに取り掛かっていた。
それは、僕が感じてきた全ての匂いを束ねたような、複雑で、それでいて調和の取れた香りだった。ベースには、寂れた港を思わせる潮の香り。ミドルには、再生を感じさせる若葉のグリーンノート。そしてトップには、古賀師匠が長年愛用している、白檀の香りをほんの少しだけ。
ムエットを手に取った師匠は、ゆっくりと目を閉じ、その香りを吸い込んだ。やがて、その厳しい口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「……優しい、香りだな」
「『ソリチュード』と名付けました」と僕は言った。「孤独、という意味です。でも、これは独りぼっちの香りじゃありません。孤独を知る全ての人が、見えない誰かと繋がっていることを思い出せるような……そんな香りです」
師匠は何も言わず、ただもう一度、深く香りを吸い込んだ。
僕ともう一人の「キミ」、つまり師匠との間には、もう奇妙な嗅覚のリンクはない。けれど、僕たちの間には、言葉や香りを超えた、確かな絆が生まれていた。それは、誰かの痛みを分かち合った者だけが築ける、静かで、強い友情だった。
僕は窓の外に目をやる。空はどこまでも青く、世界は無数の香りに満ちあふれていた。もう僕の鼻は、嘘をつかない。