第一章 予言のスケッチブック
古びた紙とインクの匂いが満ちる空間で、僕、海斗(カイト)は生きていた。街の片隅に佇む『海馬古書店』の店主兼、唯一の店員。高く積まれた本の壁に囲まれたこの場所は、僕にとって世界のすべてだった。人付き合いが苦手な僕が、唯一心を開ける相手、それがアキだった。
「カイト、また難しい顔してる。眉間のシワ、本の背表紙みたいになってるぞ」
不意に背後から聞こえた声に、僕は肩を揺らした。振り返ると、アキがカウンターの向こうで悪戯っぽく笑っている。陽光を弾く色素の薄い髪、好奇心に満ちた大きな瞳。僕とは正反対の、光の中にいるような男だ。彼は何の脈絡もなく現れては、コーヒーを飲み、僕が読んでいる本を覗き込み、他愛のない話をして帰っていく。彼が来る時間は、僕のモノクロームの日常に唯一、色彩が灯る瞬間だった。
「別に。入荷した本の整理を考えてただけだ」
「ふーん。それより、面白いもの見つけたんだ。見てくれよ」
そう言ってアキが広げたのは、いつも彼が持ち歩いている革張りのスケッチブックだった。彼は風景や人物を驚くほど繊細なタッチで描く。しかし、その日彼が見せたページは、いつもと少し違っていた。
「これ…」
そこに描かれていたのは、僕の店だった。だが、カウンターには見慣れない、銀髪の老婆が立っている。手には、僕が長年探し続けていた幻の詩集『月光の滴』が握られていた。
「どうだ? なかなか良く描けてるだろ」
「ああ…。でも、こんなお客さん、来たことないけど」
「未来予想図ってやつさ」
アキはそう言って笑い、その日は「急用ができた」と慌ただしく帰っていった。彼の座っていた椅子には、あの革張りのスケッチブックが置き忘れられていた。
手に取ると、ずしりと重い。まるで誰かの人生が詰まっているかのような重みだった。好奇心に抗えず、僕はパラパラとページをめくった。アキが描いた美しい風景、街角の人々。そして、数ページ進んだところで、僕は息を呑んだ。
そこには、僕が描かれていた。古書店の窓から雨に濡れた紫陽花を眺めている僕。次のページには、店の棚から落ちた本を拾おうとして、知らない女性と手が触れ合う僕。さらに次のページには、今まで見たこともない、穏やかな笑顔で誰かと話している僕の姿があった。
これらはすべて、まだ起きていない出来事だ。なのに、まるでアキがその瞬間をすぐ側で見てきたかのように、克明に描かれている。背筋を冷たいものが走り抜けた。これはただのスケッチブックではない。アキは一体何者なんだ? 僕たちの友情は、僕が思っているような、単純で温かいものなのだろうか。
古書のインクの匂いに混じって、未知のインクの香りが立ち上る。僕の日常を覆していた静寂の薄皮が、音を立てて破れ始めた瞬間だった。
第二章 色褪せるインク
翌日から、スケッチブックに描かれた出来事が、まるで脚本をなぞるように現実になり始めた。
まず、あの銀髪の老婆が本当に現れたのだ。彼女は店の奥で埃を被っていた木箱から、まるで導かれたかのように詩集『月光の滴』を見つけ出し、静かに微笑んで買っていった。僕はカウンターに立ち尽くし、老婆の去ったドアを呆然と見つめるしかなかった。
雨の日には、スケッチブックの絵と寸分違わず、僕は窓辺で紫陽花を眺めていた。店の棚から本が滑り落ち、それを拾おうとした女性と指先が触れ合った。彼女は「すみません」と小さく会釈し、すぐに去っていったが、僕の心臓は気味の悪いほど正確な偶然の一致に、氷水で冷やされたように縮こまった。
アキが店に顔を出すたび、僕は彼を直視できなくなっていた。僕たちの間にあったはずの、気兼ねない空気は消え失せ、代わりに疑念と畏怖が澱のように溜まっていく。
「カイト、元気ないな。何かあったのか?」
「……別に」
僕はスケッチブックのことを言い出せなかった。あれはアキの領域だ。僕が踏み込んではいけない、聖域のような気がした。あるいは、その逆か。触れれば呪われる、禁断の果実か。
友情は、脆いガラス細工のようだった。今まで当たり前だと思っていたアキとの時間が、彼の描いた設計図の上で踊らされているだけのような気がして、息苦しかった。僕の感情も、僕の行動も、すべてはあのスケッチブックの鉛筆の線に支配されているのではないか。
ある晩、僕は一人、店でスケッチブックをめくっていた。ページを追うごとに、僕の知らない「僕」が増えていく。常連客と談笑する僕。近所の子供に本の読み聞かせをする僕。どれも、内向的で人嫌いの僕からは想像もつかない姿だった。まるでアキは、僕を別の人間──彼が理想とする「友達」に作り替えようとしているかのようだった。
「やめろ……」
僕は呟き、スケッチブックを強く閉じた。革の表紙が軋む音が、僕の悲鳴のように店内に響いた。アキ、君は僕の友達じゃなかったのか? なぜ僕の未来を勝手に描くんだ? 君にとって僕は、君の作品の一つに過ぎないのか?
信頼のインクは色褪せ、友情のページは滲んでいく。僕の孤独は、アキと出会う前よりもずっと深く、暗いものになっていた。唯一の光だと思っていた存在が、僕を縛る最も精巧な檻だったのかもしれないという絶望が、じわじわと心を侵食していった。
第三章 孤独が描いた君
アキが次に現れた時、僕は決意を固めていた。カウンターにスケッチブックを叩きつけるように置く。乾いた音が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「説明してくれ、アキ。これは一体何なんだ!」
僕の剣幕に、アキは一瞬だけ悲しそうに目を伏せたが、すぐにいつものように、しかしどこか儚げに微笑んだ。
「……バレちゃったか」
「ふざけるな! 僕の人生を、未来を、お前のおもちゃみたいに!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。孤独、恐怖、裏切られたという思い。それらをぶつけると、アキはただ静かに首を横に振った。
「違うよ、カイト。これは予言なんかじゃない。僕が未来を見通せるわけでもない」
「じゃあ、何なんだ!」
アキはカウンターに置かれた自分の手を、じっと見つめた。その指先が、陽光の中でわずかに透けているように見えたのは、気のせいだろうか。
「僕はね、カイト。人間じゃないんだ」
彼の告白は、雷鳴のように僕の頭蓋に響いた。言葉の意味を理解するのに、長い時間が必要だった。
「僕は……君の孤独が生み出した、概念みたいなものなんだ」
アキは続けた。彼の言葉は、まるで遠い場所から聞こえてくるようだった。
僕がこの古書店で一人、誰にも心を開かず、本の世界に閉じこもっていた時。友情というものを、喉が張り裂けるほど渇望していた時。その強い思いが、形を持ったのだという。それがアキだった。
「僕の力は、君の願いを叶えること。君が心の奥底で望む『未来』を、現実にすることだ。銀髪の老婆も、本を落とした女性も、僕が描いたから現れたんじゃない。君が『誰かと関わるきっかけ』を無意識に望んだから、僕がそれをスケッチブックに描き、現実化しただけなんだ」
衝撃で、僕は立っていられなかった。椅子に崩れ落ちる。僕の、友達。唯一の親友だと思っていたアキが、僕の孤独が生み出した幻……? 僕の渇望が生んだ、都合のいい存在?
「じゃあ……君は、実在しないのか?」
「実在の定義によるかな。君には見えて、触れるだろう? でも、他の人には僕の姿は見えない。僕が飲んでるコーヒーも、君が入れてくれた時だけ、そこに存在するんだ」
アキの体が、また少し、透明になった気がした。
「でも、その力にも代償がある。君が僕との友情を通して、少しずつ現実の世界と繋がり始めたから……僕という『孤独の産物』は、役目を終えつつある。君が孤独じゃなくなればなるほど、僕の存在は希薄になっていく。もうすぐ、消えるんだ」
スケッチブックは、消えゆく彼が僕に残す、最後の贈り物だった。僕が一人になっても道に迷わないように、未来への繋がり方を示した、道標だったのだ。僕を操っていたのではなく、僕が自らの足で歩けるように、手を引いてくれていただけだった。
価値観が、世界が、音を立てて崩れ落ち、そして再構築されていく。僕が感じていたのは、友情ではなかったのか? 僕が彼と交わした言葉も、笑い合った時間も、すべては僕の一人芝居だったというのか?
「違う……」僕はか細い声で呟いた。「君は、幻なんかじゃない。僕の……友達だ」
僕の頬を、熱い雫が伝った。それは、僕自身の孤独が生み出した友が、僕自身の成長によって消えゆくという、残酷で、あまりにも優しい真実に対する涙だった。
第四章 最後のページ
その日から、アキの姿は目に見えて薄くなっていった。輪郭は陽炎のように揺らぎ、声は風の音に混じってかき消されそうになる。僕は必死だった。彼を繋ぎ止めたくて、以前のように店に閉じこもり、誰とも話さず、孤独になろうとさえした。だが、それは無意味だった。僕の内面は、もう元には戻れなかったのだ。
「無駄だよ、カイト」アキが透き通るような声で言った。「君はもう、一人で本の壁の中にいなくても、大丈夫になったんだ。それが、僕の望みだったんだから」
彼の言葉は真実だった。僕は知らず知らずのうちに、あのスケッチブックの絵のように、常連客の顔と名前を覚え、彼らの好きな作家の話に耳を傾けるようになっていた。近所の子供たちが店の前で騒いでいても、昔のように眉をひそめるのではなく、微笑ましく思うようになっていた。アキという「架空の友情」は、僕に「本物の関係」を築く勇気を与えてくれたのだ。
最後の夜が来た。もうアキの姿は、夕暮れの光の中ではほとんど見分けがつかないほどだった。僕たちはいつものようにカウンターに向かい合って座った。僕が淹れたコーヒーのカップを、アキの透けた指がそっと包み込む。
「ありがとう、アキ」
僕は、心の底から言った。
「君が、僕の最初の友達だ。実在しようがしまいが、そんなことはもうどうでもいい。僕が君と過ごした時間、君と笑い合った記憶は、本物だ。君は、僕の中にずっと生き続ける」
アキは、満足そうに、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。その笑顔は、僕が今まで見た彼のどんな表情よりも、美しく、実体を伴って見えた。
「僕もだよ、カイト。君と友達になれて、本当に楽しかった」
それが、僕が聞いた彼のはっきりとした最後の言葉だった。
翌朝、店には僕一人しかいなかった。アキが座っていた椅子は空っぽで、そこにはもう、温もりは残っていなかった。静寂が戻ってきた。しかし、それはかつての息が詰まるような孤独な静寂ではなく、誰かの気配を内包した、温かい静寂だった。
カウンターの上には、あの革張りのスケッチブックだけが残されていた。僕はそっとそれを開く。最後の、まだ見ていないページがあった。
そこには、僕が描かれていた。数人の新しい友人たちと、この古書店の前で、満面の笑みで写真に収まっている僕の姿が。それは予言ではない。アキが僕に託した、心からの「願い」だった。
僕はスケッチブックを強く胸に抱きしめた。涙が止めどなく溢れ、古い本のページを濡らすように、僕の心を潤していく。それは絶望の涙ではなかった。僕を孤独から救い出してくれた、たった一人の親友への感謝と、彼が描いてくれた未来へ踏み出すための、温かい決意の涙だった。
僕は一人になった。けれど、もう孤独ではなかった。アキという「友情」そのものが、僕の心に根付き、これから出会う誰かへと繋がる、確かな光になっていたからだ。僕は顔を上げ、朝の光が差し込む店のドアを、ゆっくりと開けた。