アトラスの重力

アトラスの重力

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第一章 鉛の靴と砂の時計

一歩。

たったそれだけの動作に、全身の筋肉が悲鳴を上げる。

大気にセメントでも混ぜられたかのような抵抗。

足首には見えない鎖が絡みつき、地面へと私を引きずり込もうとしていた。

「……おい、顔色が悪いぞ」

男の声がした。

距離にして三メートル。

彼はそれ以上、近づいてこない。

彼が履いている革靴の爪先が、わずかに内側へ向く。

踏み出そうとして、本能的な恐怖に足がすくんでいるのだ。

その証拠に、私たちの間にある水たまりの水面が、微細な振動で波紋を描き続けている。

二つの質量が不用意に接近した際に生じる、空間の軋み。

これ以上近づけば、互いの内臓が圧迫され、鼻から血が噴き出すことになる。

「問題ない」

私は短く答え、額の汗を拭う。

指先が冷たい。

血流が滞っている。

ポケットの中で、硬質なガラスの感触を確かめる。

『アトラスの砂時計』。

真鍮の枠は私の体温を吸って生温かい。

「依頼の件だ。……見えたのか?」

男の声には、焦燥と、私という異物に対する嫌悪が混じっていた。

私は瞼を閉じる。

脳の奥にある海馬を、他人の泥足で踏み荒らされたような不快感。

舌の上に、鉄錆と古い油の味が広がる。

これが、この男の記憶の味だ。

視界がノイズに覆われる。

ざらついた砂嵐の向こうに、映像が浮かび上がる。

路地裏特有の、腐った生ゴミとアンモニアの臭気。

雨に濡れたアスファルトの冷たさが、私の皮膚を直接刺激する。

背後からの足音。

右足を引きずる独特のリズム。

カツ、ズルッ。カツ、ズルッ。

私は目を開けた。

網膜に焼き付いた残像が、現実の風景に二重写しになる。

「……犯人の身長は百八十前後。右足を引きずっている。靴の裏に金属片が挟まったような音がした」

私は乾いた喉を鳴らし、言葉を吐き出す。

「お前の知っている顔じゃない。だが、その足音……港湾地区の作業員が履く、底の厚い安全靴だ」

男が息を呑む気配がした。

「港湾地区……そうか、あの辺りのゴロツキか」

男は端末を取り出し、報酬を振り込む操作をした。

その指が微かに震えているのは、犯人への怒りか、それとも目の前の私から発せられる重力波への生理的な拒絶か。

「助かった。……あんた、腕は確かだが、その体じゃ長くはないな」

男は捨て台詞のように言い残し、逃げるように背を向けた。

彼が十メートルほど離れたところで、ようやく私の肩にのしかかっていた不可視の圧力が、わずかに緩んだ。

肺が酸素を求めて喘ぐ。

私は路地の壁に手をつき、アスファルトに唾を吐いた。

赤い血が混じっていた。

(……限界か)

アトラスが消えてから一週間。

私の世界は、鉛色に塗りつぶされたままだ。

本来、関係性が希薄になれば、互いを縛る重力は消失する。

それが物理法則だ。

アトラスが私を拒絶し、私の前から姿を消したのなら、私は羽が生えたように軽くなっていなければならない。

なのに、なぜだ。

まるで惑星を一つ背負わされたかのように、体が重い。

ポケットから砂時計を取り出す。

くすんだガラスの中で、金色の砂が落ちている。

その速度は、明らかに異常だった。

砂粒が生き物のように身をよじり、下の空間へとなだれ込んでいく。

私の寿命をカウントダウンするかのような、猛烈な落下。

「……どこへ行った、アトラス」

私の問いかけは、重力に押し潰され、地面へと吸い込まれて消えた。

第二章 拒絶された記憶

海岸沿いのアパートメント。

潮風がコンクリートの塩害を加速させている、古びた建物。

錆びた鉄階段を上るだけで、心臓が破裂しそうだった。

三〇五号室。

ドアノブに手をかけた瞬間、視界が歪んだ。

空間そのものが、私を拒絶して収縮したような感覚。

「ぐっ……!」

全身の骨がきしむ音を聞いた。

ここは、私とアトラスが数え切れないほどの時間を共有した場所。

壁にも、床にも、空気中にさえ、二人の「記憶」が高密度で残留している。

主を失った記憶たちは、行き場をなくして淀み、侵入者に対して牙を剥く重力場と化していた。

私は歯を食いしばり、重力の泥沼をかきわけるようにしてドアを開けた。

部屋の中は、時間が凍結していた。

飲みかけのコーヒーカップには、カビの膜が張っている。

読みかけのハードカバーの本が、ページを開いたまま伏せられていた。

私は這うようにして部屋の中央へ進み、ソファに崩れ落ちた。

ここが震源地だ。

アトラスがいつも座っていた場所。

テーブルの上には、あの日、彼が書き残したメモがあった場所の痕跡だけが、埃の白さの中でくっきりと四角く残っている。

『お前はもう、俺の重荷になるな』

その言葉が、呪いのように私の内臓を締め上げる。

だが、本当にそうか?

アトラスは、そんな単純な拒絶のために、姿を消したのか?

私は震える手を伸ばした。

空間に残る残留思念。

目に見えない「時間の澱」を、指先で掬い取るイメージ。

「……見せろ」

能力を発動する。

神経が焼き切れるような熱さが、指先から脳幹へと駆け上がる。

他人の記憶を覗くのではない。

この場所に染み付いた、過去そのものを再構成する。

視界が明滅する。

セピア色のノイズが走り、部屋の風景がダブり始める。

夕暮れの光。

長く伸びる影。

窓辺に立つ、アトラスの背中。

(いた……)

私の意識が、過去のアトラスに触れようとする。

その瞬間だった。

『見るな!』

脳内に直接、轟音のような拒絶が響いた。

物理的な衝撃波となって、私の体をソファごと後方へ弾き飛ばす。

「がはっ……!」

背中を壁に打ち付け、肺の中の空気が強制的に排出された。

眼球の裏側で火花が散る。

強烈なガード。

アトラス自身が、無意識下で張った防壁か。

それとも、私自身の「真実を知りたくない」という恐怖が、ブレーキをかけたのか。

床に転がりながら、私は激しく咳き込んだ。

掌に、どす黒い血の塊が吐き出される。

痛い。

痛くて、苦しくて、たまらない。

このまま意識を手放せば、どんなに楽だろう。

だが、その時。

床に転がった砂時計が、微かな光を放った気がした。

這い寄って、それを拾い上げる。

砂が、止まっていた。

いや、違う。

一粒の砂が、重力に逆らい、下から上へと舞い上がった。

続いてもう一粒。

さらさらと、金色の粒子が逆流を始める。

「……なんだ、これは」

重力崩壊の前兆か?

それとも、この場所の時間が狂っているのか?

私は砂時計を握りしめた。

ガラス越しに伝わる微振動が、私の鼓動とシンクロする。

ドクン、ドクン、と脈打つたびに、砂が舞う。

これは、アトラスの意思だ。

科学的な根拠などない。

だが、私の魂がそう告げていた。

彼が何かを隠している。

私に見せまいとして、命を削って隠した「何か」がここにある。

「……逃げていたのは、俺の方か」

私は血の混じった唾を飲み込み、よろめきながら立ち上がった。

恐怖が足を掴む。

真実を知れば、今度こそ私は壊れるかもしれない。

それでも。

「こじ開けてやる」

私は両手で空間を掴むように構えた。

全身の毛細血管が破裂するのを覚悟で、意識のピントを極限まで絞り込む。

第三章 透明な鎖

「ぐ、あぁぁぁ……!」

絶叫は、声にならなかった。

脳を万力で締め上げられ、眼球に焼き火箸を突っ込まれたような激痛。

鼻から、目から、血が溢れ出すのがわかる。

視界が赤く染まり、世界が溶解していく。

それでも私は、記憶の中のアトラスから目を離さなかった。

ノイズの嵐を突破する。

歪んだ時空の皮膜を引き裂く。

そこには、窓辺で崩れ落ちる男の姿があった。

アトラスは、立ってなどいなかった。

床に這いつくばり、激しく嘔吐していた。

吐瀉物には大量の血が混じっている。

『……はぁ、はぁ……』

彼は震える手で、必死にペンを握ろうとしていた。

指が痙攣し、何度もペンを取り落とす。

その顔は、死人のように白く、皮膚の下の血管がどす黒く浮き上がっている。

重力病の末期。

親密すぎる魂が引き起こす、共振による身体崩壊。

私と一緒にいるだけで、彼の細胞は重力に耐えきれず、自壊を始めていたのだ。

『カイ……すまない』

アトラスが独り言つ。

その視線の先にあるのは、私への憎しみではない。

身を焦がすような、痛ましいほどの愛情だった。

『俺がそばにいると、お前はいつまでも過去に縛られたままだ。……俺という避難所に、逃げ込んでしまう』

彼は喘ぎながら、紙に文字を走らせた。

『お前はもう、俺の重荷になるな』

書き終えた瞬間、彼は力尽きたように床に突っ伏した。

その目から、一筋の涙がこぼれ落ちるのを、私は見た。

あぁ、そうか。

重かったのは、私だ。

私の依存心が、私の弱さが、彼を殺しかけていたのだ。

彼はそれを知りながら、最後まで私を傷つけまいと、悪役を演じて去った。

視界がぼやける。

涙で滲んでいるのか、出血のせいなのかわからない。

「……アトラス、お前って奴は」

私は記憶の中の彼に手を伸ばす。

触れることはできない。

だが、彼が最後に何を見ていたのか、それを突き止めなければならない。

這いつくばったアトラスの視線。

彼は薄れゆく意識の中で、必死に顔を上げ、机の隅にある一点を見つめていた。

そこには、乱雑に積まれた古雑誌の山があった。

一番上の雑誌。

その表紙ではない。

雑誌の下に半分隠れた、一枚のパンフレット。

私は記憶の映像を拡大する。

網膜が悲鳴を上げ、左目から温かい液体が頬を伝う。

構うものか。

解像度を上げろ。

もっと鮮明に。

パンフレットの端に写っている写真。

断崖絶壁に立つ、白亜の塔。

そして、その横にある航路図に、アトラスが震える手で赤ペンを入れた痕跡が見えた。

円で囲まれた場所。

日付と、時刻。

『最果ての岬』

『満潮時、潮流が止まる刻』

アトラスはそこへ向かったのだ。

そこが、彼が選んだ「終わりの場所」であり、あるいは……私を待つ場所。

砂時計の砂が、全て落ちきった。

私の体から、憑き物が落ちたように力が抜ける。

同時に、地面に叩きつけられるような現世の重力が戻ってきた。

私は床に大の字になり、荒い息を吐いた。

天井が回っている。

だが、胸のつかえは取れていた。

不思議なほど、頭は冴え渡っている。

「……待ってろ」

私は血まみれの顔を袖で乱暴に拭い、立ち上がった。

足取りは重い。

だが、それは心地よい重さだった。

借り物ではない、私自身の体重が、しっかりと地球を踏みしめている感覚。

私は部屋を出た。

扉を閉める音だけが、静寂の中に響いた。

第四章 自立する魂たち

岬への道は、暴風が吹き荒れていた。

海鳴りが轟き、波しぶきが霧となって視界を塞ぐ。

最果ての灯台。

廃墟となって久しいその塔は、墓標のように灰色の空へ突き刺さっていた。

螺旋階段を上る。

一段上るごとに、空気が密度を増していく。

質量を持った風が、私を押し戻そうとする。

これは自然現象ではない。

頂上にいる「彼」から漏れ出る、強大な重力波だ。

鉄の扉を蹴り開ける。

展望台。

吹きさらしのコンクリートの上に、彼はいた。

手すりにもたれかかることすらできず、壁際に崩れるように座り込んでいる。

その姿は、記憶の中で見たよりもさらに小さく、儚げだった。

着ているコートはボロボロで、潮風に晒された肌は陶器のようにひび割れているように見えた。

「……遅いぞ、カイ」

アトラスが顔を上げた。

その声は、波音にかき消されそうなほど掠れている。

目は窪み、焦点が定まっていない。

それでも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。

私は彼に歩み寄ろうとして、五メートル手前で足を止めた。

そこが限界だった。

これ以上近づけば、互いの重力が共鳴し、彼の残された生命を粉々に砕いてしまうだろう。

「お前がわかりにくい場所に隠れるからだ」

私は強風に声を張り上げる。

肺が痛い。

「推理小説の読みすぎだ、馬鹿野郎」

アトラスは喉の奥でくっくと笑い、激しく咳き込んだ。

血の飛沫がコンクリートに散る。

「……来たのか。ここまで」

「ああ。お前が忘れていったものを届けにな」

私はポケットから砂時計を取り出した。

アトラスの目が、わずかに見開かれる。

私はそれを、彼に向かって放り投げた。

放物線を描いた砂時計は、彼の足元に転がり、カツンと乾いた音を立てた。

アトラスは震える手でそれを拾い上げる。

「……止まったな」

彼が呟く。

砂時計の中の砂は、もう動いていない。

上にも、下にも行かず、静止している。

「俺とお前の時間は、もう同期しない」

私は彼を見据えて言った。

足を踏ん張る。

強風と、彼から発せられる引力に抗いながら、私は自分の足だけで立っていた。

「俺はもう、お前に寄りかからない。お前も、俺を背負わなくていい」

アトラスは砂時計を握りしめ、ゆっくりと私を見上げた。

その瞳に、かつての光が戻っている。

「……そうか。立てるんだな、一人で」

「ああ。重いがな」

「生きるってのは、重いもんだ」

アトラスは壁を背に、ずるずると体を起こそうとした。

私は反射的に駆け寄ろうとして、踏みとどまる。

拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで衝動を殺す。

手を貸してはいけない。

それが、今の私たちに残された唯一の誠実さだ。

アトラスは数分かけて、ようやく立ち上がった。

膝が笑っている。

風が吹けば飛びそうなほど危うい均衡。

だが、彼は立っている。

私たちは、五メートルの距離を挟んで対峙した。

触れることはできない。

抱き合うことも、肩を叩き合うこともできない。

その距離こそが、私たちが互いに生きていくために必要な「断絶」であり、同時に「絆」の証だった。

二人の間の空間が、熱を帯びて揺らぐ。

言葉はいらなかった。

ただ、そこに互いが存在しているという質量だけで十分だった。

「……行こう」

アトラスが、灯台の出口とは逆の、海の方を向いて言った。

私もまた、彼とは違う方角、街の方を向く。

「ああ」

私たちは背を向け合った。

「死ぬなよ、カイ」

背中越しに、風に乗って声が届く。

「お前こそな。……また、遠くから見ている」

私は歩き出した。

一歩踏み出すたびに、背中の気配が遠ざかる。

重力が軽くなるわけではない。

むしろ、一人分の人生の重みが、ずしりと肩にのしかかってくる。

だが、不思議と足取りは確かだった。

空を見上げると、厚い雲の切れ間から、一筋の光が海面に突き刺さっているのが見えた。

私は振り返らなかった。

彼もまた、振り返らないだろう。

私たちは、それぞれの重力を抱きしめて、別々の地平へと歩き出した。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
アトラスは重力病で死に瀕しながら、カイの依存からの自立を促すため、愛ゆえの偽りの拒絶を装った。彼の「重荷になるな」という言葉は、カイの依存と自らの病、二つの「重荷」からの解放を意味する。カイは当初、アトラスに捨てられたと絶望するが、真実を知ることで自らの依存心と向き合い、自立へと踏み出す。

**伏線の解説**
「アトラスの砂時計」の砂の逆流は、アトラスの言葉の真意が「逆」であること、すなわちカイへの深い愛情の裏返しを示唆する伏線。また、カイが感じる全身の「重さ」は、物理的な重力だけでなく、アトラスへの依存心や彼を失うことへの精神的な「重荷」を表現している。記憶の重力と砂時計の逆流が、物語の真実へと導く。

**テーマ**
本作は、愛と依存からの「自立」というテーマを深く掘り下げる。真の愛は相手を縛るのではなく、個としての成長を促す献身であることを、物理的な「重力」と精神的な「重荷」という二重の意味で描き出す。最終的に、カイはアトラスが与えた試練を通して内面の重荷から解放され、魂の自立を果たす。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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