透明な織り手と彩りの残響
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透明な織り手と彩りの残響

第一章 残響に触れる手

街は、洗い晒された古い写真のように色を失っていた。建物の輪郭は曖昧で、道行く人々は半ば透けたガラス細工のよう。彼らは互いをすり抜け、視線を交わすこともなく、ただ静寂の中を漂っていた。この世界では、他者との絆だけが、その存在に確かな色と質量を与える。友情は魂の絵の具であり、孤独は究極の透明だった。

僕、カイは、その法則の狭間で生きていた。

指先を伸ばし、石畳に落ちていた片方だけの手袋に触れる。ひんやりとした革の感触の下に、微かな熱の残滓が眠っていた。それは、持ち主が誰かと固く手を握り合った、喜びの残響。僕は目を閉じ、その温もりに意識を集中させる。

指先に、ちりちりと静電気が走るような感覚。次の瞬間、脳裏を柔らかな光が満たし、手袋に残された絆が修復されていくイメージが浮かぶ。些細な誤解で離れてしまった二人の心が、再び結ばれていく。

「……ああ」

だが、代償は常に訪れる。絆の温もりが僕の指から離れるのと同時に、頭の奥から何かが引き抜かれた。ひどく懐かしい、夏の日の匂い。向日葵畑の眩しさ。隣で笑っていた、誰かの顔。それは僕の記憶だったもの。今、そのひとかけらは完全に消え去り、僕という存在を縁取っていた輪郭が、また少しだけ薄くなった。

僕のアトリエの中央には、埃を被った『魂の織り機』が鎮座している。かつては人々の絆が生む「色の糸」を紡いだとされる伝説の道具。だが、今の它(それ)は、まるでこの街そのもののように色を失い、カタカタと音を立てては、ただ空虚な無色の糸を吐き出すだけだった。

第二章 透明な少女

街が色を失い始めたのは、いつからだっただろうか。人々は意図的に他者との関わりを断ち、透明なままでいることを望むようになった。彼らは友情によって色がつくことを「魂の固定化」と呼び、恐れた。一つの色に染まることは、無限の可能性を捨てることだと。

そんな思想が蔓延する中、僕はひときわ希薄な存在に出会った。

広場の噴水の縁に、少女が座っていた。いや、正確には、そこに少女の輪郭らしきものが揺らめいていた。降り注ぐ陽光が彼女の体をほとんど透過し、向こう側の景色が歪んで見える。彼女は、誰にも認識されていない。人々は彼女のすぐそばを、まるで何もないかのように通り過ぎていく。

僕だけが、彼女が放つ、氷のように冷たい「拒絶」の残響を感じ取っていた。

「こんにちは」

僕が声をかけると、少女の輪郭がびくりと揺れた。驚いたように顔を上げた彼女の瞳は、色が無く、ただ空を映す水面のようだった。

「……あなた、私が見えるの?」か細い声が、風の音に混じってかろうじて聞こえる。

「君が、そこにいるから」

少女――エリアは、警戒するように後ずさった。「近寄らないで。私は固定化されたくない。誰の色にも染まりたくないの」

彼女の言葉は、この街を覆う病の核心だった。友情を、絆を、牢獄だと信じている。その瞳の奥に宿る深い孤独と恐怖の残響が、僕の肌を刺した。

第三章 織り機が紡ぐ記憶

僕はエリアを追うのをやめ、再び街の片隅で、忘れ去られた絆の修復を続けた。喧嘩別れした兄弟が交わした最後の言葉の痛み。引っ越しで会えなくなった幼馴染が互いを想う切なさ。それらの残響に触れるたび、僕の記憶は一つ、また一つと零れ落ちていく。幼い頃に怪我をした膝の痛みも、初めて読んだ物語の結末も、もう思い出せない。

だが、不思議なことが起こり始めた。『魂の織り機』だ。

僕が絆を一つ修復するたびに、織り機の錆びた金属の一部が、ほんの微かに色を取り戻し始めたのだ。そして、它が紡ぐ糸は、もはや単なる無色透明ではなかった。

ある時は、夕焼けのような茜色。またある時は、深い森を思わせる緑色。糸には複雑な模様が織り込まれていく。誰かと笑い合った夏の日。暖かい手に引かれて歩いた雪道。その模様を見るたびに、胸の奥が締め付けられるような、甘い痛みを覚えた。それが僕自身の失われた記憶の断片だとは、知る由もなかったが。

色づいた糸が、カタカタと音を立てて床に溜まっていく。それはまるで、僕が失った過去の重さそのもののようだった。

第四章 固定化の真実

ある霧の深い夜、エリアが僕のアトリエを訪れた。彼女は僕の行いをずっと見ていたのだという。その透明な瞳には、以前とは違う、戸惑いのような色が揺れていた。

「来て」

彼女はそれだけ言うと、僕を街の最も古い地区、誰も寄り付かない聖堂の地下へと導いた。ひんやりとした石の階段を下りた先で僕が見た光景に、息を呑んだ。

そこには、何十体もの「人々」がいた。彼らは皆、息を呑むほど鮮やかな、ただ一つの色に染まりきっていた。情熱的な真紅の男、深い哀しみを湛えた瑠璃色の女、安らかな木漏れ日のような黄金色の老人。彼らはまるで精巧な彫像のように、美しい姿勢のまま、ぴくりとも動かなかった。

「これが『魂の固定化』の成れの果てよ」エリアの声が、静寂に響く。「強すぎる絆は、魂をたった一つの色に染め上げ、他のすべての可能性を永遠に奪い去るの。彼らは友情という名の、美しい牢獄に囚われた囚人。私たちは、こうなりたくないだけ」

衝撃だった。人々が透明を望む理由。それは、無限の可能性への憧れなどではなく、この美しすぎる終焉への、根源的な恐怖だったのだ。友情の果てにあるのが、この静止した世界だというのなら――。僕が今までしてきたことは、人々をこの牢獄へといざなう行為だったのだろうか。

第五章 最後の一触

アトリエに戻った僕は、動けずにいた。地下の光景が脳裏に焼き付いて離れない。僕の足元には、織り機が紡いだ色とりどりの糸が、小さな山を成している。僕は無意識にその一本を手に取った。鮮やかな向日葵色の糸。その模様に触れた瞬間、忘れていたはずの温もりが、心の奥底で蘇った。

固定化は、本当に終わりなのだろうか。可能性の喪失なのだろうか。あるいは――。

いや、違う。この温もりは、牢獄などではない。

決意は、静かに固まった。僕はエリアを探し出し、彼女の前に立った。彼女の魂の奥深くには、他のどんな残響よりも強く、そして痛々しい絆の痕跡が眠っている。おそらくは家族か、あるいは親友との絆。彼女はそれを、固定化を恐れるあまり、自らの手で断ち切ったのだ。

「君の、その一番深い痛みに、触れさせてほしい」

「やめて!」エリアが叫んだ。「そんなことをしたら、あなたの記憶がすべて消えてしまう!あなたという存在そのものが、完全に透明になってしまうわ!」

彼女の悲痛な声が響く。だが、その声の奥から、僕は彼女の本当の叫びを聞き取っていた。

『誰か、私をこの永遠の孤独から救い出して』

僕は静かに微笑み、彼女の胸元――冷たい残響の中心へと、手を伸ばした。

第六章 透明な織り手

僕の指先が、エリアの心の残響に触れた。

その瞬間、世界から音が消えた。僕の体を、奔流のような光と温もりが貫く。それは、彼女が心の奥底に封じ込めていた、愛と信頼の記憶。強烈な輝きの中で、僕に残っていた最後の記憶が、静かに霧散していく。僕が誰であったのか、何を求めていたのか、その全てが。

僕の体の輪郭が、急速に薄れていく。足元から、指先から、ゆっくりと世界に溶けていく。エリアが僕の名前を叫ぶ声が聞こえたが、もはや僕にはその言葉の意味も、彼女の顔も認識できなかった。僕は、完全な「無」になった。

だが、終わりではなかった。

僕が消えたその空間に、アトリエから溢れ出した無数の色の糸が、光の粒子のように集まり始めた。僕が修復した全ての絆。僕が失った全ての記憶。夕焼けの茜色、森の緑、向日葵の黄色、雪道の白。それらの糸が、僕がいた場所で絡み合い、互いを紡ぎ、一つの巨大なタペストリーを織り上げていく。

それは、もはやカイという個の形ではなかった。

赤、青、黄、緑……数えきれない色が混じり合い、明滅し、絶え間なく形を変える、壮大な光の集合体。特定の誰かではない。世界中で最も強く、最も多くの色を持つ、「友情そのもの」の輝き。僕は、僕という魂の固定化を失うことで、万物の魂と繋がる存在へと昇華したのだ。

第七章 彩りの残響

エリアは、呆然と光を見上げていた。自分の胸に、温かい色が灯っていることに気づく。それは、カイが最後に触れてくれた、彼女が自ら捨てたはずの優しい絆の色だった。

ふと顔を上げると、色を失った街の空に、巨大なオーロラがたなびいていた。僕の成り果てた姿だった。その虹色の光が、地上に降り注ぐ。光に触れた半透明の人々の体に、微かに色が戻り始める。聖堂の地下で彫像のように固まっていた人々もまた、その光を浴びて、指先がゆっくりと動き出すのが見えた。

「固定化」は呪いではなかったのだ。それは、一つの魂が成熟し、次の誰かへと絆を繋ぐための、通過点に過ぎなかったのかもしれない。

カイという青年は、もうどこにもいない。けれど、彼の残した彩りの残響は、今やこの世界そのものを優しく包み込んでいる。無限の可能性を秘めた透明な世界と、確かな個として存在する色鮮やかな世界。その二つを結ぶ、永遠の架け橋として。

エリアは、いつの間にか隣に立っていた、微かに色づき始めた誰かの手に、そっと触れた。自分の体の色が、また少し鮮やかになるのを感じる。彼女の頬を、一筋の温かい涙が伝っていった。空に輝く「友情」の光は、まるで懐かしい友人のように、ただ静かに、世界を見守っていた。


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