恥ずかしがり屋の食堂と、踊る動物の街
第一章 恥の味は、いつもほろ苦い
橘蓮(たちばな れん)の営む小さな食堂「めしや蓮」の昼下がりは、いつだって動物園さながらの賑わいだった。カウンターの向こうで、蓮は豚汁の鍋をかき混ぜながら、深いため息をついた。目の前で生姜焼き定食を頬張っているサラリーマンの鼻は、見事な豚のそれに変わっている。どうやら彼は、午後の会議をサボるために「急な腹痛で」と上司に嘘をついたらしい。
蓮には、生まれつきの厄介な才能があった。他人の「恥ずかしい記憶」を、その人が口にする食べ物の味として感じ取ってしまうのだ。そして今、豚鼻の男が咀嚼する生姜焼きからは、鉄錆と汗が入り混じったような、強烈に気まずい味が立ち上ってくる。
(ああ、まただ……)
蓮の脳裏に、男のものであろう記憶がフラッシュバックする。高校の卒業式、好きな女の子に第二ボタンを渡そうとした瞬間、盛大なくしゃみと共に鼻から飛び出した情けない何か。その記憶の鮮明さに、蓮は思わず顔をしかめた。味が濃いほど、記憶は鮮明になる。蓮にとって食事とは、他人の黒歴史を味わう苦行に他ならなかった。大食いなのに、常に他人の恥で胃もたれしている。
最近、この街は特におかしかった。誰も彼もが嘘をつき、体のどこかしらを動物に変えていた。指先が鶏の羽になった主婦、耳がウサギのように長くなった学生。そして今日、全身が灰色のでっぷりとした象になってしまった郵便配達員が、器用に鼻で郵便受けに手紙を入れながら、奇妙なステップを踏んでいるのを見た。街中が、巨大な嘘と、へんてこなダンスで溢れかえっている。蓮は豚汁の味見をしながら、この街全体を覆う巨大な胃もたれの正体に、ただただうんざりしていた。
第二章 踊るペンギンと、困惑の依頼人
カラン、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。スーツ姿の、いかにも真面目そうな女性だ。だが、彼女が緊張した面持ちでメニューを眺めるたび、その両手の指先が黒く艶やかなペンギンの翼に変わり、小さくパタパタと震えている。
「あの、店主さん、いらっしゃいますか?」
「俺ですが」
蓮がぶっきらぼうに答えると、女性――笹川渚(ささがわ なぎさ)と名乗った――は、この街の異常事態を調査してほしいと切り出した。彼女は街の長の秘書で、原因不明の動物化現象と謎のダンスに頭を悩ませているらしかった。
「報酬は、はずみます。どうか、この街を元に戻す手伝いを……!」
真剣な眼差しだった。蓮は乗り気ではなかったが、彼女が注文したオムライスにスプーンを入れた瞬間、決意を固めざるを得なかった。
口の中に広がったのは、焦げ付いたコーヒーの苦味と、生クリームのパニック的な甘さが暴力的に混ざり合った、とんでもなく濃厚な「恥の味」。新人秘書だった彼女が、大事な会議中、高田市長のつるりとした頭頂部に熱々のコーヒーをぶちまけてしまった記憶。渚の真っ青な顔と、市長の頭から立ち上る湯気。そのあまりの鮮烈さに、蓮はむせ返りそうになった。これほど濃い味を持つ人間が、嘘をつけるはずがない。彼女の依頼は、本物だ。
「……わかった。引き受けましょう」
蓮が言うと、渚の指の動きがほんの少しだけ、穏やかになった気がした。
第三章 動物たちの奇妙な舞踏会
翌日から、蓮と渚の調査が始まった。街の光景は、シュールレアリスムの絵画そのものだった。交通整理をしている警官は首の長いキリンになり、長い首を揺らしながら信号機よろしく手旗を振っている。パン屋の店主はカバになり、巨大な口で客にパンを渡していた。そして誰もが、老いも若きも、象もキリンもカバも、まるで何かに取り憑かれたように、両手を奇妙に波打たせ、片足でぴょんぴょんと跳ねる、あの「へんてこダンス」を踊り続けているのだ。
「一体、何なんでしょう、このダンスは……」
渚が眉をひそめる。人々の表情は、決して苦しそうではない。むしろ、どこか陶然としているようにも見える。街には様々な動物の鳴き声と、どこからともなく流れてくる単調なリズムの音楽、そして獣たちの匂いが混じり合い、むせ返るような混沌を生み出していた。
蓮は道端の屋台で売られていたたこ焼きを一つ、口に放り込んだ。ソースの香ばしさと共に流れ込んできたのは、屋台の店主(今はアルマジロになっている)が「昔、応援団で学ランの第二ボタンまで全部ちぎり取られた」という、ほんのり甘酸っぱい武勇伝の味だった。人々は嘘をついている。しかし、その嘘には悪意が感じられない。まるで、嘘をつくこと、動物になること自体を楽しんでいるかのようだ。
「みんな、何かを『演じて』いるみたいだ」
蓮の呟きに、渚は首を傾げた。謎は深まるばかりだった。
第四章 真実のタバスコ
調査は完全に行き詰まった。手がかり一つ掴めないまま、街を踊る動物の数は増えていくばかりだ。食堂に戻った蓮は、厨房の棚の奥で埃をかぶっていた小さな小瓶を手に取った。祖父の代から伝わる、禍々しいほどの赤色をした液体が入った瓶。「真実のタバスコ」と書かれたラベルが貼ってある。
祖父の遺言を思い出す。『どうしようもなくなった時にだけ使え。だがな、蓮。真実はいつだって、とんでもなく辛い味なんだ』。
このタバスコは、どんな料理にかけても、作り手が隠していた「秘密」を、激辛の悲鳴として食べる者の脳内に直接響かせるという代物だった。
蓮は一つの仮説に思い至った。街の人々が共通して口にしているもの。それは、街の中心にある給食センターから毎日配給される食事だ。あのシチュー、あのパン、あのサラダ……もし、元凶がそこにあるとしたら。
「渚さん、今夜、給食センターに忍び込みます」
蓮の決意に満ちた目に、渚は息を呑んで頷いた。
第五章 絶叫するシチュー
深夜の給食センターは、不気味なほど静まり返っていた。巨大な寸胴鍋の中には、明日の朝配られる予定のクリームシチューがなみなみと満たされている。蓮は覚悟を決め、真実のタバスコの小瓶の蓋を開けた。そして、乳白色の海に、たった一滴、深紅の雫を落とした。
その瞬間だった。
『ああああああ!市長のストレス発散プログラムの実行スイッチ、昨日スマホゲームしながら操作してたら、間違って『毎日』に設定しちゃったぁぁぁ!しかもオプションの『嘘つき推奨モード』もオンのままぁぁ!ごめんなさぁぁぁい!怒られるぅぅぅ!』
激辛の衝撃と共に、若い男の咽び泣くような悲鳴が、蓮の脳髄を直接揺さぶった。それは料理人が隠していた「調理中にちょっとつまみ食いした」といった些細な秘密などではなかった。街全体を巻き込んだ、あまりにも間抜けで、壮大なミス。その絶叫は、シチューの温かさとは裏腹に、背筋が凍るほど鮮明だった。
原因は、市長の企画したイベント。嘘つき推奨モード。毎日設定。へんてこダンスは、おそらくその準備体操か何かだろう。全てのピースが、最悪な形で一つに繋がった。隣で息を殺していた渚が、呆然と蓮の顔を見つめていた。
第六章 フェスティバルの終わり
市庁舎に駆け込むと、高田市長は困惑した顔で二人を迎えた。彼は数日前に「市民のストレスを発散させよう!」と思い立ち、「ストレス発散!全員動物になって踊ろうフェスティバル」という一日限りのイベントを企画し、街の統合管理システムにプログラムを登録したのだという。
蓮が給食センターの料理人の告白を伝えると、市長は顔面蒼白になり、慌ててシステムを操作した。
「あ……本当だ。『毎日』『実行』になってる……」
市長がエンターキーを押すと、街にあれほど鳴り響いていた奇妙な音楽が、ぴたりと止んだ。蓮と渚が窓の外を見ると、あれほど溢れていた動物たちの姿が消え、人々が人間の姿に戻り、きょとんとした顔で立ち尽くしているのが見えた。キリンだった警官が、伸びすぎた首の感覚を確かめるようにさすっている。長く続いた奇妙な祭りが、あっけなく幕を閉じた瞬間だった。
全てが解決した後、渚は蓮の食堂を訪れた。彼女の指は、もうペンギンではなかった。彼女は深々と頭を下げ、手作だという塩むすびを蓮に差し出した。
「ありがとうございました」
蓮がそのおにぎりを一口食べると、口の中に広がったのは、ふっくらとした米の甘みと、ほんのり甘酸っぱい、柔らかな味だった。それは「あなたに感謝している」という、少しだけ照れくさい、でも、とても心地の良い「恥」の味だった。
第七章 それでも味は続いていく
日常が戻った街は、以前より少しだけ静かになった。けれど、どこか空気が違う。人々は少しだけ正直になり、そして、少しだけ互いに優しくなった気がした。
ある日の昼下がり、元・象の郵便配達員が「めしや蓮」にやってきた。
「いやあ、まいったよ。でも正直に言うとさ」と彼は笑った。「あのダンス、みんなで踊ってると、なんだかちょっと楽しかったんだよな」
蓮は黙って、彼にアジフライ定食を出した。アジフライから感じたのは、揚げたての香ばしさに混じる、かすかで温かい味。「仲間と踊った一体感」という、決して悪くない、むしろ少し誇らしいような記憶の味だった。
蓮はカウンターを拭きながら、窓の外を眺めた。嘘も、恥も、間違いも、全てが人間の営みの一部なのだ。それらがごちゃ混ぜになった、苦くて、しょっぱくて、酸っぱくて、時々ほんのり甘い、複雑な味。それこそが、人生そのものの味なのかもしれない。
この街はこれからも、たくさんの嘘と、たくさんの恥ずかしい記憶で満ちていくだろう。そして自分の胃は、相変わらずそれらでキリキリと痛むのかもしれない。だが、と蓮は思う。時折出会う、渚のおにぎりのような温かい味があるのなら。それも、まあ、悪くはない。
蓮はふっと口元を緩め、次の客が運んでくるであろう未知の「味」を、ほんの少しだけ、楽しみに待っていた。