ワカメと宇宙と消えたくしゃみ
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ワカメと宇宙と消えたくしゃみ

第一章 ゼリー色の憂鬱

その日、僕の「ラッキーな感情」は『安らぎ』だった。図書館の古びた木製の椅子に腰掛け、ページをめくる乾いた音だけが響く空間。それは本来、安らぎそのものであるはずだった。だが、窓の外に広がる光景が、僕の心を静かに締め付ける。

空が、人で満ちていた。

半透明のゼリーと化した人々が、まるで意思のないクラゲのように、重力から解き放たれて空高く漂っている。今日のラッキーな感情を表現できなかった者たちの、静かな成れの果てだ。ある者は腕を組み、ある者は本を抱えたまま、一様に無表情で、ただ青い空をぷるぷると震えながら昇っていく。

「くしゃみ」が世界から消えて、一週間が経っていた。

はじめは誰も気にしていなかった。風邪をひいても鼻が詰まるだけ。花粉の季節なのに快適だ、と喜ぶ声すらあった。だが、三日も経つと異変は顕著になった。人々は些細なことで苛立ち、感情の捌け口を失ったように無気力になっていったのだ。そして、ゼリー化が始まった。くしゃみという些細な生理現象が、我々の感情の安全弁だったとは、誰も気づいていなかった。

「桜井さん、大丈夫?」

同僚の声に、僕はびくりと肩を揺らす。極度のプレッシャー。それだけで十分だった。足元で、スラックスの裾を押し上げる微かな感触。靴下の中で、つるりとした何かが、僕の毛穴から芽吹いていた。

ワカメだ。

これが僕の秘密。僕、桜井海苔助(さくらい のりすけ)は、極度の緊張やストレスを感じると、全身の毛穴からワカメが生える。それは周囲の『悩み』を吸収する性質を持っていて、街に絶望が満ちるほど、僕の足元のワカメは濃い緑色を増していくのだった。僕は慌てて足を組み、その感触を隠した。空に浮かぶゼリーを見上げる人々の瞳に映る憂鬱が、僕の体内でワカメの養分に変わっていく。

第二章 鼻腔の記憶

図書館からの帰り道、公園のブランコに座ったまま、体が透き通り始めている少女を見つけた。今日のラッキー感情は『喜び』だったのだろう。だが、この世界で心から喜ぶことなど、もう誰にもできはしない。少女の足が地面からふわりと離れ、その母親が「いやっ!」と悲鳴を上げる。

助けなければ。

その義務感が、僕の全身に重くのしかかった。瞬間、ジャケットの袖口から、ぬるり、とワカメの先端が顔を出す。まずい。見られる。僕が逡巡していると、白衣を風になびかせた一人の女性が、少女に駆け寄った。

「動かないで!」

彼女はスプレー缶のようなものを構え、少女の顔にそれを噴射した。シュッ、という軽やかな音。すると、ゼリー化していた少女の体が、一瞬だけ確かな輪郭を取り戻した。

「……っ、くしゅん!」

小さな、しかし本物のくしゃみが響き渡る。少女は元の体に戻り、母親の腕の中に泣きながら崩れ落ちた。

呆然とする僕に、白衣の女性が振り返る。彼女の視線は、僕の袖から覗く緑色の物体に釘付けになっていた。

「あなた、それ……」

「い、いえ、これは……ファッションで」

「ワカメがファッションですって? 面白い冗談ね」

彼女は天野光(あまの ひかり)と名乗った。物理学者で、この奇妙な現象を独自に研究しているらしい。彼女が使ったのは『くしゃみ記憶カプセル』。失われたくしゃみの感覚――鼻の奥がムズムズするあの感覚――を脳に直接送り込む装置だという。

「でも、効果は数秒だけ。根本的な解決にはならないわ」

光は僕のワカメを、まるで新種の鉱物でも見るかのように観察していた。

「あなたのそのワカメ、ただの海藻じゃない。周囲の負のエネルギーを吸収している。そうでしょう?」

僕が頷くと、彼女の瞳が探究心にきらめいた。「協力してほしいの。あなたのワカメが、この世界を救う鍵になるかもしれない」

第三章 ワカメは悩みを吸って育つ

光の研究室は、街で一番高いビルの最上階にあった。巨大な電波望遠鏡が天井を突き破るように設置され、壁一面のモニターには、意味不明な数式とグラフが明滅している。窓の外には、空を埋め尽くすゼリー人間たちの群れが、夕日を浴びて琥珀色に輝いていた。それは終末的なまでに美しい光景だった。

「人々が発するストレスや悩みが、微弱なエネルギー波として観測されているの」

光はモニターを指し示した。

「そして、くしゃみが消えたことで、そのエネルギーは行き場をなくして大気中に飽和している。これがゼリー化のトリガーよ」

その言葉を証明するかのように、僕のワカメはみるみる成長を始めた。研究室の床に根を張り、足首を覆い、膝まで達する。それは人々の声にならない叫びを貪欲に吸い上げ、艶やかな緑の葉を広げていく。むせ返るような潮の香りが、部屋に満ちた。

「すごい……なんて吸収率なの……」

光は驚嘆の声を上げた。彼女は僕のワカメのサンプルを採取し、分析を始める。僕は、自分の体が化け物になっていく恐怖と、誰かの役に立てるかもしれないという微かな希望の間で、ただ立ち尽くすしかなかった。世界中の人々の悩みが、僕というフィルターを通して、ただひたすらにワカメへと変換されていく。

第四章 宇宙からの囁き

その時だった。けたたましいアラート音が鳴り響き、巨大な電波望遠鏡がゆっくりと向きを変えた。モニターに、ノイズ混じりの波形が表示される。

「何これ……?」

光がキーボードを叩くと、波形は奇妙な音に変換された。それは音ではなかった。感覚だ。鼻の奥が、脳の芯が、むず痒くなるような、巨大な意志のこもった『ムズムズ』が、スピーカーから空間に染み出してくる。

「宇宙からだわ……太陽系の、ずっと外から」

解析が進むにつれて、信じがたい事実が明らかになった。

地球から消えた全ての「くしゃみ」は、死んだわけではなかった。宇宙の彼方から飛来した未知の生命体――光が『宇宙くしゃみ菌』と名付けたそれ――に吸収されていたのだ。菌は地球人類数千年分のくしゃみを溜め込み、今や太陽系を覆うほどの巨大なエネルギー体と化して、最終段階の爆発――つまり、宇宙規模のくしゃみをしようとしていた。

その爆発が起これば、地球は跡形もなく消し飛ぶ。

絶望。その一言が、雷のように僕の脳天を貫いた。それは僕一人のプレッシャーではなかった。全人類の、星そのものの、絶体絶命のプレッシャーだった。

ゴゴゴゴゴゴッ……!

僕のワカメが、応えた。もはや成長という生易しいものではない。爆発だ。研究室の床を突き破り、窓ガラスを粉々に砕き、ビルを根こそぎ飲み込んで、天を衝く巨大な塔となった。僕はワカメの中心に飲み込まれ、意識が緑色の奔流に溶けていくのを感じた。僕は、世界中の悩みを吸収した、巨大なワカメそのものになろうとしていた。

第五章 ハクション・アブソーバー

意識は、緑の深淵にあった。だが、僕はまだ僕だった。ワカメを通して、地球上のあらゆる嘆きが、苦しみが、くしゃみのできないもどかしさが、僕の心に直接流れ込んでくる。もう、何もかも押し潰されてしまいそうだった。

『海苔助くん! 聞こえる!?』

光の声だ。ワカメの塔の麓で、彼女が必死に通信機に叫んでいる。

『あなたのワカメなら、あの宇宙くしゃみを受け止められるかもしれない! あなたが、最後の希望なの!』

希望。僕が? この情けなくて、プレッシャーに弱い僕が?

だが、僕の中に流れ込む人々の声は、もう他人事ではなかった。それは僕自身の苦しみでもあった。僕は決意した。このワカメは僕の体の一部だ。ならば、僕の意志で動かせるはずだ。

「うおおおおおおおおっ!」

僕は叫んだ。緑色の塔が、僕の意志に応えてしなる。それは巨大な一本の腕のように、雲を突き抜け、成層圏を突破し、漆黒の宇宙空間へと伸びていった。目の前には、銀河を背景に不気味に脈動する、巨大なくしゃみのエネルギー体。星々が歪んで見えるほどの、圧倒的な『ムズムズ』の塊。

宇宙くしゃみ菌が、その臨界点を迎え、まばゆい光を放ち始めた。爆発する。

その瞬間、僕のワカメが、それを優しく、しかし力強く、包み込んだ。

第六章 星屑のアフロ

膨大なエネルギーが、僕のワカメに流れ込む。それは痛みではなかった。むしろ、究極の快感に近いものだった。何千年もの間、人々が溜め込んできた解放のカタルシス。鼻腔を駆け抜ける一瞬の衝動。その全てを吸収した僕のワカメは、もはやワカメという物質的な存在を超越し、『くしゃみ』という概念そのものへと昇華した。

そして、僕は、くしゃみをした。

宇宙に向かって。地球には決して害が及ばない、遥か銀河の彼方に向かって。

「へっ……、……ハクションッ!」

それは、宇宙の創生以来、最も壮大で、最も完璧な、たった一度のくしゃみだった。その波動は時間と空間を超え、緑色のオーロラとなって地球に降り注いだ。オーロラが触れた瞬間、世界中の人々が一斉にくしゃみをした。空に浮かんでいたゼリーたちは、くしゃみと共に元の体を取り戻し、雪のように静かに地上へと舞い降りてきた。

世界は、救われた。

だが、僕はもう地球にはいない。宇宙の片隅で、壮大なくしゃみの反動でくるりと丸まったワカメ――まるで巨大なアフロヘアのようになったそれ――の中心で、僕は一人、漂っている。僕の役目はまだ終わっていない。吸収した全人類の「くしゃみの素」を、この体から少しずつ、永遠に宇宙へ放出し続けなければならないのだ。

時折、僕の小さなくしゃみが、故郷の星に届くことがあるらしい。夜空に一瞬だけきらめく、緑色の光の尾として。

地上では、天野光が夜空を見上げていた。彼女はポケットから『くしゃみ記憶カプセル』を取り出すと、カプセルの蓋を開け、その中身を空っぽの夜空に向かって、そっと噴射した。それは、もう誰にも必要のない発明品だった。

「ありがとう、海苔助くん」

彼女の頬を、一筋の涙が伝う。

その夜、北の空には、ひときわ美しい緑色のオーロラが、いつまでも揺らめいていた。

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