昨日を縫う男
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昨日を縫う男

第一章 歪みの朝

幸田平(こうだ たいら)の一日は、いつものように小さな不運から始まった。トースターから飛び出した食パンは、片面だけが葬式の炭のように真っ黒だった。隣の部屋の主婦が「あら、ちょっと焼きすぎちゃったかしら」と呟いた気配を、平の部屋の壁が吸い込んだような気がした。彼はため息ひとつで黒い部分を削り落とし、バターの代わりにマーガリンを塗る。バターは昨日の夕方、スーパーの棚で彼の目の前で売り切れたのだ。これもきっと、誰かの買い忘れを防いだ結果なのだろう。

通勤電車は、決まって三分遅れる。ホームで舌打ちをした学生の焦りが、車両の連結部を軋ませて平の足元に伝わる。おかげで学生は遅刻せずに済むだろうが、平のタイムカードには今日も赤い印字が灯ることになる。

会社に着けば、企画部のエースが淹れたてのコーヒーをデスクにぶちまけそうになるのを、平が代わりに自分のシャツにこぼすことで防ぐ。熱い染みがじわりと肌を焼く感覚。エースは「危なかった」と胸を撫で下ろし、完璧なプレゼン資料を濡らさずに済んだ。平の白いシャツには、まるで抽象画のような不格好な地図が描かれていた。

これが、幸田平の日常。彼は他人の「日常の些細な不満や不運」を、磁石のように引き寄せてしまう体質だった。世界からこぼれ落ちるはずだった小さな歪みを、その身一つで受け止め、縫い合わせる。そうすることで、他の誰かの「昨日と変わらない今日」が、滑らかに続いていくのだ。

自室に戻り、平は机の引き出しから一本の万年筆を取り出した。軸には、ただ素っ気なく「平凡」と彫られている。彼はそのペンで、日記の新しいページにインクを滑らせた。『今日も、いつも通りの平凡な一日だった』。不思議なことに、そう書くだけで、焦げたトーストも、濡れたシャツの不快感も、心の奥底にするりと収まっていく。このペンは、決してインクが尽きることがなかった。

第二章 日常という名の薄氷

平の日常が歪みを吸収するほどに、世界の日常は完璧な精度で反復された。毎朝七時ちょうどに角のパン屋のシャッターが開き、焼きたての小麦の匂いが風に乗る。七時十五分には、赤いランドセルの少女がスキップしながら同じ横断歩道を渡る。午後三時には、決まってどこかの家の窓からピアノの練習曲が流れ出す。街全体が、巨大なからくり時計の歯車のように、一分の狂いもなく動き続けていた。

人々はその完璧な日常に安堵し、無意識のうちに昨日と同じ言動を繰り返す。それが、この世界の存在を支える絶対的な法則だと知らずに。ルーティンこそが世界の骨格であり、習慣こそが時空を繋ぎとめる糸なのだ。

だが最近、平は気づいていた。自分が引き受ける不運の総量が、明らかに増えていることに。世界を滑らかに保つために必要な潤滑油が、彼の身から過剰に搾り取られている感覚があった。以前ならコーヒーが冷める程度で済んだものが、今ではカップそのものにヒビが入る。電車の遅延は三分から五分になり、時には乗り過ごしてしまう。世界という名の薄氷が、あちこちで軋む音が聞こえるようだった。

その夜、平はまた「平凡」ペンを握った。日記に今日の不運を綴り、「平凡な一日だった」と締めくくる。しかし、インクが紙に染み込む瞬間、ペン先が微かに震えたような気がした。まるで、これ以上「平凡」という嘘を書き続けることに、ペン自身が耐えかねているかのように。

第三章 ひび割れる風景

世界の綻びは、ある雨の日の午後、平の目の前で可視化された。彼が歩く歩道に、昨日見たはずの晴天の光が、まだら模様に差し込んでいたのだ。足元には今日の雨の水たまりが広がり、その水面には、昨日の青空と白い雲が映り込んでいる。時間の層が剥離し、風景が二重写しになっていた。

すれ違う人々は、まだその異常に気づいていない。しかし、微かな違和感が彼らの顔を曇らせていた。昨日と同じ会話をしているはずなのに、どこか言葉が噛み合わない。昨日と同じ道を歩いているはずなのに、一歩だけ歩幅がずれている。完璧だったはずの日常の旋律に、不協和音が混じり始めていた。

平の身体を襲う痛みも、質を変えていた。もはや単なる不運の肩代わりではない。誰かの「絶望」や「倦怠」といった、もっと形の無い、重い感情の澱が、鉛のように彼の精神に流れ込んでくる。激しい頭痛と共に、知らない誰かの退屈な午後の記憶がフラッシュバックした。それは、あまりにも完璧に繰り返される日常に対する、静かな、しかし確かな拒絶反応だった。世界そのものが、この永遠に続くかのような反復に、悲鳴を上げ始めているのだ。

第四章 赤インクの警告

ついに、「転」の日は訪れた。会社のオフィスで、一人の女性社員が悲鳴を上げた。彼女の目の前の空間が陽炎のように揺らめき、数日前の彼女自身の姿が通り過ぎていったのだという。過去と現在が混線し、時間の整合性は崩壊の一途を辿っていた。街角ではビルが昨日の建設中の姿と今日の完成した姿を高速で明滅させ、人々は時間の迷子となって立ち尽くしていた。

平は、全身を打ち付けるような疲労感と頭痛に耐えながら、アパートへ逃げ帰った。もう限界だった。この体質こそが、諸悪の根源なのだ。彼は最後の望みを託し、机の上の「平凡」ペンを掴んだ。

日記の新しいページに、震える手でペンを走らせる。

『僕の身に降りかかるこの不運な体質は、』

そこまで書いた時だった。

『ごくありふれた、平凡な出来事である』

そう書き切ろうとした瞬間、ペン先から迸ったインクは、穏やかな黒ではなかった。どす黒い、鮮血の色。赤黒いインクが純白の紙に染みを作り、まるで傷口のように広がっていく。ペンが、平の願いを初めて、そして明確に拒絶した。

「ああ……っ!」

激しい痛みが脳を貫き、平はその場に崩れ落ちた。閉じた瞼の裏に、荒れ果てた、しかしどこか生命力に満ちた未知の風景が流れ込んでくる。そして、その風景の中に立つ、深く皺の刻まれた老人の姿が見えた。それは紛れもなく、年老いた自分自身の姿だった。

第五章 未来からの手紙

意識が遠のく中、平は机の上の日記を見た。血のように滲んだインクの染みから、まるで炙り出しのように、別の文字がゆっくりと浮かび上がってきた。それは、彼の筆跡ではなかった。もっと年老いて、力が込められた、未来からの筆跡だった。

『よくぞ、ここまで耐えてくれた。過去の私よ』

平は息を呑んだ。それは、未来の自分から現代の自分へ宛てた手紙だった。

『君が吸収していたのは、他人の些細な不運などではない。この世界は「日常」という名の美しい牢獄だ。完璧な反復は究極の安定だが、それは変化のない緩やかな死を意味する。私は、この停滞した世界に絶望したのだ。新しい朝が見たかった。予測不能な明日が欲しかった』

『だから、私は未来から過去へ、変化の種を送り続けた。私の「飽き」を、「変革への渇望」を、小さなエネルギーの塊として。それが、君が「不運」と呼んでいたものの正体だ。君は、世界の歪みを吸収する安全装置であると同時に、私がこの牢獄を内側から破壊するために仕掛けた、時限爆弾だったのだ』

平は愕然とした。自分は世界の守護者ではなかった。むしろ、未来の自分によってプログラムされた、破壊者だった。彼が必死に守ろうとしていた「平凡」な日常こそが、未来を窒息させていた元凶だったのだ。

第六章 平凡の終わり

世界の崩壊は、最終段階に入っていた。窓の外では、街の景色が万華鏡のように砕け散り、過去と未来と現在が混沌と混ざり合っている。人々の悲鳴すら、時間の波に揉まれて意味をなさないノイズと化していた。

全てを理解した平は、ゆっくりと立ち上がった。手には、まだ赤いインクを宿した「平凡」ペンが握られている。彼はこれまで、この不条理な運命を呪いながらも、どこかで誇りに思っていた。自分がいるから、世界の平穏は保たれるのだと。だが、それは傲慢な思い込みだった。真の平穏は、停滞の中にはない。

彼は日記の、まだ汚れていない最後のページを開いた。赤いインクは、まるで彼の決意を待っていたかのように、ペン先で静かに輝いている。

彼は、未来の自分――あの荒野に立つ老人の、渇望に満ちた瞳を思い出した。そして、初めて自分の意志で、世界の運命を選択する。

平は、万年筆を紙の上に置いた。不思議と、もう震えはなかった。彼は微笑みながら、たった一言だけを、そこに記した。

『明日は、きっと違う日になる』

その言葉が紙に刻まれた瞬間、ペンから放たれた赤い光が、部屋を、街を、そして世界全体を包み込んだ。

第七章 新しい朝

翌朝、幸田平が目を覚ますと、窓から差し込む光の色が昨日までと全く違っていた。それは淡い金色で、空気には知らない花の香りが混じっている。鳥のさえずりは、昨日までとは違う、即興のメロディーを奏でていた。

世界は、一変していた。

彼はキッチンに向かい、トースターに食パンを入れる。焼き加減を知らせるチン、という音と共に飛び出したパンは、完璧なきつね色だった。バターは冷蔵庫にちゃんとあった。電車は時間通りに来るかもしれないし、来ないかもしれない。それはもう、誰にも分からなかった。

彼の体から、重い鎖が外れたような感覚があった。もう誰の不運も引き受けない。代わりに、彼自身の、不確かで予測不能な人生が始まるのだ。

机の上を見ると、あの万年筆が静かに横たわっていた。軸に彫られた「平凡」の文字は変わらない。だが、ペン先のインクは、元の深く、穏やかな黒色に戻っていた。

平はそのペンを手に取った。それはもはや、嘘の日常を塗り固めるための道具ではない。未知の明日を描き出すための、希望の道具だ。

彼は白紙のページを開き、新しい物語の最初の一行を、ゆっくりと書き始めた。停滞した安定を壊した先にある、不確かな自由。それが本当の「平凡」な幸せなのか、まだ答えは出ない。だが、その答えを探す旅が、今、始まったのだ。

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