喪失は、やがて贈与に変わる

喪失は、やがて贈与に変わる

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第一章 喪失の朝課

水野湊の一日は、喪失の予感から始まる。それは彼が物心ついた頃から続く、呪いのような、あるいは単調な日常業務のような儀式だった。瞼の裏に映し出されるのは、その日、彼が失うことになる一つのモノ。色褪せたフィルム映画のように、音もなく、ただ静かに「それ」が示されるのだ。

今朝、彼が見たのは、使い古された革のキーケースだった。長年使っているせいで角は丸くすり減り、銀色の金具は鈍い光を放っている。間違いなく、自宅アパートの鍵だ。

「またか」

湊はベッドから起き上がると、ため息を一つ吐いた。窓から差し込む朝日は、部屋の埃をきらきらと照らし出し、世界の美しさを無遠慮に突きつけてくる。しかし、湊の心は、朝霧のように晴れない。

彼は古書店で働いている。静かで、変化の少ない、彼にとっては理想的な職場だ。本の背表紙を眺め、埃を払い、時折訪れる客と二言三言交わす。そんな穏やかな日常こそが、彼の求めるすべてだった。この予知能力は、その静謐を乱す厄介なバグのようなものだった。

湊は細心の注意を払って一日を過ごすことにした。いつもは無造作に鞄に放り込むキーケースを、ジーンズの前のポケット、それも一番深い場所へと押し込んだ。上着のジッパーをしっかりと上げ、まるで鍵が自らの意思で逃げ出さないように、物理的に封じ込める。仕事中も、三十分おきにポケットに手を入れ、硬い感触を確かめた。そのたびに、微かな安堵と、どうせ無駄だろうという諦めが交互に胸をよぎる。

努力は、いつも虚しい結果に終わる。

仕事を終え、夕暮れの商店街を歩いていた時だった。八百屋の威勢のいい声、惣菜屋から漂う甘辛い匂い。ごくありふれた日常の風景の中、ふと、彼はポケットに手を入れた。そこにあるはずの硬い感触が、ない。指先が探ったのは、空虚な空間だけだった。冷や汗が背筋を伝う。鞄の中、上着のポケット、考えうるすべての場所を探ったが、キーケースは影も形もなかった。まるで最初からそこには存在しなかったかのように、完璧に消え失せていた。

結局、彼は大家に頭を下げて合鍵で部屋に入れてもらった。フローリングの床に大の字に寝転がり、天井の染みを眺める。抵抗すればするほど、喪失の瞬間の衝撃は大きくなる。分かっているのに、やめられない。失うことが確定している未来に、無駄な抵抗を試みては、そのたびに打ちのめされる。

「どうせ失くすなら、最初から大切になんて、思わなければいいのに」

呟きは、がらんとした部屋に虚しく響いた。彼の日常は、何かを失うことでかろうじて成り立っている、歪な均衡の上に建っていた。

第二章 約束の栞

数日後の朝、湊が見た夢は「一枚の押し花の栞」だった。すみれの花を樹脂で固めた、どこにでもありそうな安価な品だ。それは彼の働く『月影堂書店』の商品の一つで、レジ横の雑多な小物入れに紛れているはずだった。個人的なものではないと分かり、湊は少しだけ安堵した。

その日、店はいつにも増して静かだった。古書のインクと紙の匂いが満ちる空間で、湊は黙々と本の整理をしていた。昼下がり、ドアベルがちりん、と澄んだ音を立てた。入ってきたのは、一人の若い女性だった。雨上がりの空気をまとったような、透明感のある人だった。

「いらっしゃいませ」

「あの、すみません。栞を探しているんですが……」

彼女は、葉山遥と名乗った。遥は、祖父の形見である栞を探しているのだという。それは、彼女の祖父が亡くなる直前まで読んでいた本に挟まっていたもので、うっかり古本と一緒に売ってしまったらしい。特徴を聞くと、それはまさしく、今朝湊が夢で見たすみれの栞だった。

湊の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。これだ。今日失われるのは、この栞だ。そして、それを失うのは、目の前の彼女なのだ。

「……こちらに、ありませんか?すみれの押し花の……」

遥の瞳は、切実な光を宿していた。湊は逡巡した。売らなければ、失われることはないかもしれない。だが、これは彼女が必死に探しているものだ。彼に、それを隠す権利があるだろうか。

「……ああ、もしかして、これですか?」

湊はレジ横の小物入れから、その栞を取り出した。陽の光を受け、すみれの紫が鮮やかに浮かび上がる。

「あっ、それです!よかった……」

遥の表情が、ぱっと花が咲くように明るくなった。その笑顔を見て、湊は抗うことをやめた。運命には逆らえない。彼は彼女に栞を売り、小さな紙袋に入れて手渡した。

「ありがとうございます、本当に……!」

深々と頭を下げる遥を見送りながら、湊は胸に鉛のような重さを感じていた。

予感は、すぐに現実のものとなった。一時間もしないうちに、遥が血相を変えて店に戻ってきたのだ。

「すみません!さっきの栞、どこかで落としてしまったみたいで……!」

彼女の声は震え、その瞳には涙が浮かんでいた。一緒に来た道を戻って探したが、あの小さな栞は、アスファルトの海に飲み込まれたかのように見つからなかった。公園のベンチ、駅の階段、考えられる場所はすべて探した。しかし、結果は無情だった。

「ごめんなさい……私のせいで……」

夕暮れの公園で、遥はとうとう歩道にうずくまって泣き出した。その嗚咽は、湊の心を鋭く抉った。これまでは、自分が何かを失うだけだった。それは自己完結した、個人的な悲劇だ。しかし、今日は違う。自分の持つ不可解な力が、他人を、こんなにも深く傷つけてしまった。

「僕のせいです」

思わず、声が漏れた。

「僕が、あの時売らなければ……」

無力感と罪悪感が、津波のように押し寄せる。彼はただ、運命の傍観者でいることしかできない。そう思っていた。だが、目の前で泣きじゃくる遥を見ていると、その諦観が根底から揺らぐのを感じた。本当に、それでいいのか?

第三章 贈与の連鎖

その夜、湊は眠れなかった。遥の泣き顔が瞼に焼き付いて離れない。彼は生まれて初めて、自分の能力に本気で向き合おうとしていた。失われると分かっている未来に、本気で抗ってみようと決意したのだ。

翌日から、湊は仕事の合間を縫って栞を探し続けた。警察に遺失物届を出し、駅や商店街にビラを貼らせてもらった。無駄かもしれない。それでも、何もしないではいられなかった。遥にも連絡を取り、一緒に探す日々が続いた。彼女は最初こそ落ち込んでいたが、湊の真摯な姿に少しずつ元気を取り戻していった。

そんな中、湊はふと、自分が長年つけていた日記の存在を思い出した。毎朝見た「失くすもの」を、ただ淡々と記録しただけのノートだ。藁にもすがる思いで、彼は本棚の奥からその埃をかぶったノートを引っ張り出した。ページをめくっていく。

『アパートの鍵』『定期入れ』『買ったばかりの傘』『お気に入りの万年筆』

喪失の記録が延々と続く。眺めているうちに、ある奇妙な事実に気づいた。失くしたものが、後日、意外な形で彼の視界に現れることが稀にあるのだ。

例えば、ある日失くしたはずの万年筆。数週間後、彼は電車で隣に座った学生が、それと全く同じ万年筆を使っているのを目にした。限定品で、同じものを持つ人間はそう多くないはずだ。またある時は、失くした手袋の片方が、公園のベンチにそっと置かれ、凍えるホームレスの男性がそれをありがたそうに手に取っているのを見かけた。

一つ一つの出来事は偶然に見える。だが、日記を遡れば遡るほど、その「偶然」は数を増していく。もしかして、失われたものは、消滅しているわけではないのではないか?

「移動している……?」

湊の中で、一つの仮説が形を結び始めた。失われたものは、それをより必要としている誰かの元へ、届けられているのではないか。

だとすれば、自分の能力は「喪失」の予知ではない。それは、「再分配」の予告なのではないか。

その考えに至った瞬間、世界が反転するような感覚に襲われた。呪いだと思っていた力が、もしも、誰かのための優しい魔法だったとしたら?

湊は遥に連絡した。「もう一度だけ、探したい場所があるんです」

二人が向かったのは、遥が栞を落としたと思われる公園の近くにある、小さな小児科病院だった。湊の仮説が正しければ、栞は、それを必要としている誰かの元にあるはずだ。そして、押し花の栞を最も必要とする人間がいるとすれば、それは……。

病院の待合室。絵本を読んでいる子供たち。その中に、彼は見つけた。

窓際の席に座る一人の少年が、熱心に何かを手にしていた。まさしく、あのすみれの栞だ。

湊は、静かに少年に歩み寄った。

「こんにちは。その栞、とてもきれいだね」

少年ははにかみながら、栞を見せてくれた。

「うん。お姉ちゃんにあげるんだ。お姉ちゃん、すみれの花が一番好きだから。でも、病室からは出られないから、これを見て元気になってもらおうと思って」

少年の言葉に、湊は息を飲んだ。隣で聞いていた遥の目が見開かれる。

少年は続けた。「公園のベンch……に落ちてたんだ。きっと、神様がくれたんだよ」

神様じゃない。僕の能力だ。そう言いかけて、湊は言葉を飲み込んだ。

遥は、少年の前にそっとしゃがみこんだ。彼女の瞳は潤んでいたが、そこにはもう悲しみの色はない。

「そう……。きっと、そうね。お姉さん、喜ぶといいわね」

彼女は優しく微笑み、少年の頭をそっと撫でた。祖父の形見は、今、見知らぬ誰かを励ますための光に変わっていた。それは喪失ではなかった。形を変えた、優しさの贈与だったのだ。

第四章 新しい世界の夜明け

あの日を境に、水野湊の世界は一変した。

毎朝見る夢は、もはや憂鬱な予言ではなかった。それは、今日、世界で交わされる、ささやかな贈与の知らせだった。失うことを恐れる代わりに、彼は、そのモノが次に誰の元へ届き、どんな小さな奇跡を起こすのかを想像するようになった。

失くした手袋は、凍える誰かの手を温めるだろう。忘れた傘は、突然の雨に降られた人を救うだろう。落とした小銭は、お菓子を買いたい子供の手に渡るかもしれない。

彼の日常から諦観は消え、代わりに、世界の見えない繋がりを感じる、静かな喜びに満たされた。古書店の窓から見える景色は、昨日までと同じはずなのに、道行く人々一人ひとりが、何かを受け取り、何かを誰かに手渡している、壮大な物語の登場人物のように見えた。

遥とは、自然と会う回数が増えていった。彼女は湊の能力のすべてを知ったわけではない。ただ、栞の一件を通じて、目に見えない世界の温かい繋がりを、肌で感じ取っていた。二人はよく、古書店の片隅で、本について、世界について、そして失われたものたちについて語り合った。

ある晴れた朝、湊は夢を見た。

今日、彼が失うものは『孤独』だった。

抽象的な概念を失うのは、これが初めてだった。湊は、ベッドから起き上がると、窓の外に広がる青空を見て、静かに微笑んだ。それは、決して悲しい予感ではなかった。

彼はその日、一冊の古い詩集を手に取ると、『月影堂書店』を出た。遥が待つ公園へと向かう。道端に咲く名もない花が、風に揺れている。かつては灰色に見えていた日常が、今は数えきれないほどの色彩で輝いていた。

喪失は、終わりではない。それは、新しい物語の始まりを告げる、優しい合図だ。誰かが失くした鍵は、いつか別の誰かの心の扉を開けるかもしれない。失われた自信は、夢を諦めかけた誰かの背中を押すだろう。世界は、そんな見えない贈与の連鎖で、かろうじてその美しさを保っている。

湊は、自分がその壮大な連鎖の、ほんの小さな一部であることを、誇らしく思った。彼はもう、何も恐れてはいなかった。失うことさえも、愛おしい日常の一部なのだから。公園の入り口に、遥の姿が見えた。彼女は湊に気づくと、太陽のような笑顔で手を振った。湊も、手を振り返す。彼の『孤独』が、温かい光の中に溶けていくのが分かった。

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