残響の壁

残響の壁

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第一章 毎朝、壁は囁く

柏木湊(かしわぎ みなと)の朝は、寸分の狂いもなく繰り返される儀式だった。午前六時半にアラームが鳴り、寸分違わず三分後にそれを止める。カーテンを開け、磨りガラスの向こうのぼんやりとした空の色を確認し、電気ケトルに水を注ぐ。彼の人生は、まるで丁寧に校正された書物のように、誤植も、予定外の余白もないはずだった。

その日までは。

目を覚ました湊の視界に、違和感が飛び込んできた。寝室の、ベッドの向かいにある真っ白な壁。そこに、黒い染みのようなものが見える。寝ぼけているのか。湊は瞬きを繰り返し、眼鏡をかけてもう一度見た。それは染みではなかった。明瞭な、しかしどこか儚げな筆跡で書かれた、一行の文章だった。

『あの時、ありがとうと言えなかった』

湊はベッドから飛び起きた。壁に駆け寄り、指先でそっと文字をなぞる。インクでも、ペンキでもない。まるで壁紙そのものが変色して生まれたかのような、奇妙な質感。凹凸はなく、ひんやりとした壁の感触が伝わってくるだけだ。擦っても、濡れた布で拭いても、文字はびくともしない。まるで、壁自身が長年隠していた秘密を、不意に告白したかのようだった。

昨夜、部屋に誰かが侵入した形跡はない。鍵はかかっていたし、そもそもこんな手の込んだ悪戯をする理由も、心当たりもない。湊の心臓が、静かに、しかし確実に速度を上げていく。図書館司書という彼の職業柄、物事を論理的に、順序立てて考える癖がついていた。だが、目の前の現象は、彼の理解の範疇を軽々と飛び越えていた。

一日中、湊の頭は壁の文字でいっぱいだった。仕事中も、返却された本を棚に戻しながら、ふと指が止まる。「ありがとうと言えなかった」。誰が、誰に? どんな状況で? まるで未解決のミステリー小説の断片が、彼の日常に紛れ込んだようだった。平穏を愛する彼にとって、それは心地よい刺激ではなく、ただただ不気味なノイズでしかなかった。

翌朝。湊は恐る恐る目を開けた。壁を見る。すると、昨日あれほど頑なに存在を主張していた文字は、跡形もなく消え去っていた。真っ白な、いつもの壁がそこにあるだけだ。夢だったのか。安堵のため息をついた、その瞬間。湊は息を呑んだ。

昨日の文字があった、まったく同じ場所に、新しい一行が浮かび上がっていたのだ。

『もっと素負になればよかった』

昨日よりも少しだけ拙い、まるで子供が書いたような文字だった。「素直」の漢字を間違えている。湊は愕然とした。これは幻覚ではない。彼の日常に割り込んできた、紛れもない現実なのだ。

その日から、湊の奇妙な日課が始まった。毎朝、壁に浮かび上がる見知らぬ誰かの「後悔」を確認し、それを大学ノートに書き写す。三日目は『君の作る卵焼きが、一番好きだったと伝えればよかった』。四日目は『どうして、あの手を離してしまったんだろう』。恋愛、家族、仕事、友人関係。そこには、顔も名前も知らない人々の、人生の痛切な断片が刻まれていた。恐怖はいつしか、奇妙な好奇心と、そして微かな共感へと変わっていった。湊は、壁の向こうにいるであろう無数の魂の、孤独な収集家になったのだ。

第二章 見知らぬ誰かの痛み

ノートは一ヶ月で三冊目になった。湊は、几帳面な司書の性分を発揮し、後悔を内容ごとに分類し、筆跡の特徴や文体まで細かく記録していた。それはもはや、恐怖の対象ではなく、彼が解読すべき一つの巨大なテクストだった。壁は沈黙の語り部となり、湊はその唯一の読者となった。

『夢を諦めるなと、背中を押してやれなかった』

その一文が壁に現れた朝、湊の心臓が小さく軋んだ。その言葉は、彼の心の奥深くにしまい込み、鍵をかけていた記憶の扉を、容赦なく叩いたからだ。

大学生の頃、湊には悠真(ゆうま)という親友がいた。二人で小さなアパートに住み、将来を語り合った。悠真はプロのミュージシャンになるという、途方もない夢を追いかけていた。湊は彼の才能を信じていたが、同時にその夢のあまりの不確かさに不安を感じていた。ある日、現実的な将来を考えろと諭す湊と、夢を馬鹿にされたと怒る悠真は、激しい口論になった。売り言葉に買い言葉。些細なすれ違いは、修復不可能な亀裂となった。その数週間後、悠真は何も言わずにアパートを出ていき、それきり連絡は途絶えた。

壁の文字は、まるで湊自身の心の声を代弁しているかのようだった。悠真の夢を、最後まで応援してやれなかった。信じていると言いながら、心のどこかで彼の失敗を恐れていた自分。その臆病さが、たった一人の親友を傷つけ、遠ざけてしまったのだ。その日から、湊は他人と深く関わることを避けるようになった。後悔は、人を臆病にする。

壁に浮かぶ後悔の数々が、他人事とは思えなくなってきた。誰かの痛みが、自分の痛みと重なる。ノートに書き留めた言葉の行間から、持ち主の嗚咽や、ため息が聞こえてくるような気さえした。

『さよならの前に、抱きしめればよかった』

『嘘をついてごめん、本当は寂しかった』

『ただ、そばにいてほしかっただけなのに』

湊は、自分が住むこの古いアパートの、過去の住人たちの人生を垣間見ているのかもしれない、と考えるようになった。この部屋の壁は、まるで録音テープのように、そこに住んだ人々の強い感情を記憶しているのではないか。そして、何かのきっかけで、それが再生されているのではないか。

彼はいつしか、壁に向かって話しかけるようになっていた。「大変だったんですね」「その気持ち、少しだけわかります」。返事はない。しかし、そうすることで、自分の内に溜まっていた澱のような感情が、少しだけ軽くなる気がした。見知らぬ誰かの痛みに寄り添うことで、彼は自分自身の痛みを、少しずつ癒していたのかもしれない。平穏で無味乾燥だった彼の日常は、壁の言葉によって、静かな哀しみと、そして不思議な温かみで満たされ始めていた。

第三章 鏡の向こうの真実

季節が一周し、再び肌寒い秋が訪れた朝だった。湊はいつものように目を覚まし、壁に視線を送った。そして、全身の血が凍りつくのを感じた。

そこに浮かび上がっていたのは、彼がこの一年間、心の最も深い場所で繰り返し、しかし決して声には出さなかった、彼自身の後悔そのものだった。

『あの日、喧嘩したままでごめん。お前の夢を、最後まで応援してやれなくて』

悠真への、言葉にできなかった謝罪。誰にも、日記にすら書いたことのない、魂の告白。それが、なぜ。どうして壁が知っている? 湊は混乱した。これは誰の後悔だ? 俺のか? それとも、俺と全く同じ後悔を抱えた誰かが、かつてこの部屋に住んでいたとでもいうのか?

「なんで…」

絞り出した声は、掠れて空気に溶けた。彼は衝動的に壁を拳で叩いた。ドン、と鈍い音が響く。その時、壁の内部から、カラリ、と何かが微かに動くような音がした。

湊は息を殺して壁に耳を当てる。もう一度、慎重に叩いてみる。やはり、壁紙の向こうは空洞になっているようだ。彼は工具箱からカッターナイフを取り出すと、震える手で文字の周囲の壁紙に切れ込みを入れた。指先で慎重に壁紙を剥がしていく。めくれた壁紙の下から現れたのは、石膏ボードではなく、古びて埃をかぶった、一枚の薄い鏡だった。

鏡はひどく曇っており、ほとんど何も映さない。だが、問題はそこではなかった。湊は、ある信じがたい事実に気づいて、愕然とした。壁に浮かび上がっていた文字は、鏡の表面に現れていたのだ。しかも、それは鏡の向こう側、つまり「湊の部屋の内部」から発せられた光が、鏡に反射して見えていたかのようだった。

まさか。

湊は恐ろしい仮説に行き着いた。壁に浮かんでいた後悔は、見知らぬ誰かのものではなかった。この部屋に蓄積された過去の住人たちの残留思念が、この古い鏡を触媒として、今ここに住む人間の心と共鳴していたのだ。鏡は、住人の心の奥底にある「後悔」を映し出し、壁に投影していた。

これまで彼がノートに書き留めてきた無数の後悔は、過去の住人たちが抱えていたものであると同時に、湊自身の心の中にある様々な後悔の感情が、鏡によって引き出され、具現化した姿だったのだ。『ありがとうと言えなかった』のも、『素直になればよかった』のも、すべては湊自身の心の片隅に眠っていた感情の断片だった。

そして、今朝の言葉は。彼の最も強く、最も深い後悔が、ついに心の奥底から溢れ出し、壁に映し出された瞬間だった。

湊は、自分が後悔の「収集家」などではなかったことを悟った。彼は、この壁が奏でる哀しい交響曲の、一人の奏者に過ぎなかった。彼は鏡に映る自分の顔を見た。そこには、過去に囚われ、一歩も前に進めずにいた、臆病な男の姿がぼんやりと浮かんでいた。

第四章 真っ白な明日へ

呆然と鏡を見つめること、どれくらいの時間が経っただろうか。窓の外が白み始め、朝の光が部屋に差し込んできた。これまで彼を苛んできた壁の言葉が、今はまるで、彼と同じようにこの部屋で悩み、苦しんだ名もなき人々からの、静かなエールのように感じられた。君だけじゃない、と。誰もが後悔を抱えて生きている、と。

彼は孤独ではなかった。

湊は震える手でスマートフォンを手に取った。SNSを駆使し、古い友人を辿り、ついに悠真の連絡先を見つけ出した。発信ボタンを押す指が、鉛のように重い。何年も、何年も、ためらい続けてきたことだ。だが、今ならできる気がした。壁が、鏡が、彼の背中を押してくれている。

数回のコールの後、懐かしい声が聞こえた。

「…もしもし?」

「…悠真か? 俺だ、湊だ」

ぎこちない沈黙が流れる。何を話せばいいのか、言葉が見つからない。だが、湊は深呼吸をして、心の奥底から言葉を絞り出した。

「…ごめん。あの時は、本当にごめん。お前の夢を、最後まで…応援してやれなくて」

電話の向こうで、悠真が息を呑む音が聞こえた。そして、少し震えた声が返ってきた。

「…俺も、謝りたかったんだ。お前の言うことも、本当は分かってた。なのに、意地張って…。俺の方こそ、ごめん」

二人はそれから、途切れた時間を取り戻すかのように、たわいもないことを話し続けた。悠真は今も、小さなライブハウスで音楽を続けているという。電話を切る頃には、湊の心は、雨上がりの空のように澄み渡っていた。重くのしかかっていた後悔の澱が、静かに溶けていくのを感じた。

部屋に戻り、彼は書き溜めたノートを手に取った。そこに並ぶ無数の後悔は、もはやただの痛みの記録ではなかった。それは、これからをより良く生きるための、先人たちからの貴重な遺産であり、愛おしい人生の痕跡に思えた。

翌朝。

湊が目を覚ますと、壁は、ただの真っ白な壁に戻っていた。文字はもう、浮かんでこない。まるで、彼の心の解放を祝福するかのように、壁はその役目を終え、静寂を取り戻していた。剥がした壁紙の隙間から覗く古い鏡も、ただ朝の光を鈍く反射しているだけだった。

湊は、空っぽになった壁に向かって、静かに呟いた。

「ありがとう」

それは、壁への感謝であり、この部屋を通り過ぎていった無数の魂への感謝であり、そして、過去の自分自身への別れの言葉でもあった。

彼は机に向かい、新しいノートの最初のページを開いた。そこに書いたのは、後悔の言葉ではない。未来へ向けた、ささやかな決意の言葉だった。彼の日常は元に戻った。だが、その日常を彩る感情は、もう以前とは全く違うものになっていた。

後悔が完全に消えることはないだろう。しかし、それと向き合い、受け入れ、一歩を踏み出すことで、人は変われる。窓から差し込む柔らかな光を全身に浴びながら、湊は静かに微笑んだ。それは、過去という名の長い夜が明け、新しい朝を迎えた男の、本当の日常の始まりだった。

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