触れる指先、記憶の万華鏡

触れる指先、記憶の万華鏡

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第一章 残響の万華鏡

相田湊(あいだ みなと)の日常は、他人の過去の残り香に満ちていた。彼が働く古道具屋『時巡堂(ときめぐりどう)』は、忘れられた物語の墓場であり、同時に揺り籠でもあった。湊には、物に触れると、その物が最後に目撃した光景や、所有者が抱いた強い感情が、断片的な映像や音として流れ込んでくるという、生まれつきの奇妙な才があった。

だから彼は、新品の無機質な沈黙よりも、古い物が囁く雑多な声に安らぎを感じていた。使い古された万年筆からは作家の焦燥が、縁の欠けたティーカップからは午後の穏やかな談笑が、錆びついたブリキの玩具からは子供の純粋な歓声が、彼の指先を通じて心に染み込んでくる。それらは一方的で、応答を求めない、心地よい距離感のコミュニケーションだった。

その日も、湊は店主の留守を預かりながら、仕入れたばかりの雑多な品々の「声」に耳を澄ませていた。埃っぽいインクの匂いと、古い木材のかすかな甘さが混じり合う店内で、ひときわ彼の注意を引いたのは、段ボールの底に埋もれていた一本の万華鏡だった。黒ずんだ真鍮の筒に、細かな草花の彫刻が施されている。特別高価な品には見えないが、不思議な存在感を放っていた。

何気なく手に取る。ひんやりとした金属の感触が指に伝わった瞬間、湊は息をのんだ。

いつも流れ込んでくる霞がかったような過去の断片とは、まるで質が違った。脳髄を直接揺さぶるような、鮮明すぎる光景。

――白い部屋。消毒液の匂い。窓の外には、大きな銀杏の木が見える。

ベッドに座る、髪の短い一人の少女。歳の頃は十歳くらいだろうか。痩せた指で、彼女は今、湊が手にしているのと同じ万華鏡を、宝物のように握りしめている。

「お兄ちゃん、まだかな……」

少女の呟きが、耳元で囁かれたかのようにリアルに響く。万華鏡を覗き込むと、色ガラスの破片が作り出す幾何学模様が、きらきらと光の洪水となって彼女の瞳に映る。それは、退屈な病室での唯一の慰めであるかのようだった。

映像が途切れる寸前、少女の小さな唇が、もう一度動いた。

声にはなっていない。だが、湊の心にはっきりと届いた。

『まだ、ここにいるよ』

湊ははっとして万華鏡から手を離した。心臓が早鐘を打っている。なんだ、今のは。

過去の記憶ならば、必ず明確な「終わり」がある。持ち主が手放した瞬間、壊れた瞬間、あるいは、持ち主の人生が終わった瞬間。だが、今感じた記憶は、まるで時間が止まったまま、今もどこかで続いているかのような、奇妙な生々しさを持っていた。残響が、いつまでも彼の内にこだましていた。

少女は誰なのか。そして、なぜ彼女の記憶は、今も「ここにある」と告げているのか。

湊の静かな日常に、一つの小さな、しかし無視できない謎が、きらめくガラスの破片のように投げ込まれた。

第二章 欠片を辿る指先

その日から、湊の頭は万華鏡のことで一杯になった。仕事中も、ふとした瞬間にあの白い部屋の光景が脳裏をよぎり、少女の孤独な横顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。彼は何度も万華鏡に触れたが、得られる情報はいつも同じだった。白い部屋、銀杏の木、そして誰かを待ち続ける少女の姿。記憶はそれ以上、過去にも未来にも進もうとはしなかった。

「湊、最近どうも上の空だな。また厄介なモンでも拾ってきたか?」

数日後、旅先の仕入れから戻った店主の柏木が、焙じ茶を啜りながら言った。柏木は、湊の能力について詳しくは知らない。ただ、湊が時折、特定の品に異常な執着を見せること、そしてその品には何かしらの「曰く」があるらしいことを、長年の経験から察していた。

湊は意を決して、万華鏡のことを打ち明けた。もちろん、自分の能力については伏せ、「この万華鏡に、どうしようもなく惹かれるんです。持ち主だった少女が、今もどこかで待っているような気がして」とだけ伝えた。

柏木はふむ、と顎髭を撫でた。

「持ち主、か。こういう品は、いくつもの人手を渡り歩いてくるからな。だが、その少女の記憶がそれほど鮮明だというのなら、直前の持ち主に関係があるかもしれん」

柏木は仕入れの伝票をめくり、記憶の糸をたぐり寄せた。

「ああ、これか。確か、閉院するっていう古い個人病院の備品一式を引き取った中に混じってたな。たしか……『斎藤記念病院』。もう半世紀以上もやってたらしいが、院長が亡くなって、跡継ぎもいなくてな。場所は、隣県の丘の上だったはずだ」

斎藤記念病院。その名前に、湊の心臓が小さく跳ねた。これだ。

湊は柏木に頭を下げ、一日だけ休みをもらった。手掛かりは病院の名前だけ。それでも、行かずにはいられなかった。あの少女の「まだ、ここにいるよ」という声が、彼を突き動かしていた。

電車を乗り継ぎ、バスに揺られてたどり着いた場所は、想像していたものとは少し違っていた。丘の上にあったはずの病院は跡形もなく、重機が地をならした更地が広がっているだけだった。ただ、記憶の中にあった一本の大きな銀杏の木だけが、まるで時の流れから取り残されたかのように、変わらずそこに立っていた。

風が吹き抜け、銀杏の葉がさわさわと音を立てる。少女が見ていたのは、この風景だったのか。

湊はポケットから万華鏡を取り出し、そっと触れた。しかし、流れ込んでくる光景に変化はない。白い部屋、窓の外の銀杏、待っている少女。

やはり、すべては過去の出来事だったのか。少女はもうここにはいない。とっくに退院したか、あるいは……。虚しさがこみ上げてくる。自分のやっていることは、感傷的な自己満足に過ぎないのではないか。

重い足取りで丘を下り始めたその時だった。更地の脇にある、小さな公園のベンチに座る一人の老人が目に留まった。老人は、何かを慈しむように、手の中の筒を覗き込んでいる。

湊は足を止めた。老人が手にしているのは、万華鏡だった。そして、それは自分が持っているものと驚くほどよく似ていた。

第三章 祈りが映す幻

湊は、何かに引き寄せられるように老人のそばへ歩み寄った。老人は湊の気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の奥にある瞳は、驚くほど穏やかだった。

「こんにちは。……その万華鏡、素敵ですね」

湊がどうにか絞り出した言葉に、老人は少し驚いたように目を見張り、それからふわりと微笑んだ。

「ああ、これかね。妹の形見でね。時々、こうしてあの子に会いに来るんだ」

妹。形見。湊の心臓が、どくんと大きく脈打った。彼は震える手で、自分の鞄から同じ万華鏡を取り出した。

「もしかして、これと……」

老人はいよいよ目を丸くし、食い入るように湊の手の中の万華鏡を見つめた。

「なぜ、君がそれを……。それは、私が何十年も前に手放したものだ。壊れてしまってね。同じものを探し回って、ようやくこれを見つけたんだが……」

二つの万華鏡は、瓜二つだった。細かな彫刻の模様まで寸分違わない。

沈黙が流れる。公園を渡る風の音だけが聞こえていた。やがて、老人がぽつりぽつりと語り始めた。

「私の妹は、ヒカリと言いました。子供の頃、体が弱くて、あそこの病院にずっと入院していたんです」

老人は、今はもうない病院があった場所を指さした。

「退屈だろうと思ってね。私はこの万華鏡をプレゼントした。ヒカリはとても喜んで、毎日毎日、飽きもせずに覗いていましたよ。窓から見えるあの銀杏の木と、この万華鏡だけが、あの子の世界のすべてだった」

老人の声は、遠い昔を懐かしむように穏やかだった。しかし、その奥には深い哀しみの色が滲んでいた。

「ヒカリは、十二歳になる年の冬に、あそこで亡くなりました。……もう、五十年以上も前の話です」

湊は、言葉を失った。五十年以上前? では、自分が見ていたあの鮮明な記憶は、一体何だったというのだ。

「ですが……少女は、今も誰かを待っているように見えました。それに、『まだ、ここにいるよ』と……」

そう口にした瞬間、湊は気づいた。あの声は、少女の声にしては少し低すぎたのではないか。そして、あの記憶には、奇妙な点があった。常に少女の姿しかなく、彼女が誰かと話す場面も、看護師が部屋を訪れる場面も、一切なかったのだ。まるで、世界に彼女しか存在しないかのように。

湊の混乱を見透かしたかのように、老人は静かに言った。

「そうかね。君にも、ヒカリが見えたのかね」

老人は空を見上げた。その目には、涙が薄く膜を張っていた。

「私はね、ずっと、妹の死を受け入れられなかった。ヒカリはまだあの病室で、私を待っているんじゃないかと。私が会いに行けば、ひょっこり顔を出すんじゃないかと。そう思い続けて、何十年も生きてきた。……私のこの想いが、祈りが、古い万華鏡に染みついていたのかもしれんな」

その言葉は、雷のように湊の心を撃ち抜いた。

そうか。自分が見ていたのは、ヒカリという少女の記憶ではなかったのだ。

あれは、ヒカリの兄であるこの老人が、妹に「そうあってほしい」と願い続けた、あまりにも強く、純粋な想いそのものだった。彼が妹の死を認められずに抱き続けた、「ヒカリはまだあの病室で、自分を待っている」という幻。それが記憶として万華鏡に宿り、更新され続けていたのだ。

『まだ、ここにいるよ』という声は、ヒカリのものではない。兄が、ヒカリにそうであってほしいと願う、心の叫びだったのだ。

湊は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。物の記憶を視るという自分の能力が、これほどまでに切なく、そして重い人間の「祈り」を拾い上げてしまうとは、想像もしていなかった。

第四章 時の万華鏡

「ありがとう」

老人は、湊に向かって深く頭を下げた。

「君のおかげで、分かった気がする。私の想いは、ちゃんとヒカリに届いていたのかもしれない。いや、少なくとも、こうして誰かの心に触れることができた。あの子が、独りきりで忘れ去られてしまったわけじゃないと分かっただけで……私は、救われるよ」

老人はそう言うと、自分が持っていた万華鏡を、そっと湊の手に重ねた。

「これは君が持っていてくれ。君のような人が持っていてくれた方が、ヒカリも寂しくないだろう」

湊は戸惑いながらも、その温かい重みを受け取った。二つの万華鏡が、彼の手の中にある。一つは、兄の祈りが宿ったもの。もう一つは、その祈りを映すために、兄が探し求めたもの。

湊は、おそるおそる、最初に手に入れた万華鏡に再び指で触れてみた。しかし、もうあの白い病室の光景は流れ込んでこなかった。少女の姿も、孤独な囁きも聞こえない。

代わりに、まるで陽だまりのような、温かく、柔らかな光景がいくつも断片的に浮かび上がってきた。幼い兄妹が縁側で笑い合う姿。兄が妹の頭を撫でる手。万華鏡をプレゼントされて、満面の笑みを浮かべるヒカリの顔。それは、老人がようやく向き合い始めた、悲しいけれど、かけがえのない、本物の過去の記憶だった。

兄の心が、長い長い時間の果てに、ようやく妹の死を受け入れ、前に進み始めた証だった。

『時巡堂』に戻った湊の日常は、何も変わらない。相変わらず、埃とインクの匂いがする静かな空間だ。しかし、彼自身は、確かに変わっていた。

彼はもう、物の記憶を一方的な「情報」として受け取るだけの傍観者ではなかった。指先に触れる一つ一つの品々に、名前も知らない誰かの人生が、喜びや悲しみが、そして時には時を超えて届くほどの強い祈りが込められていることを、魂で理解した。人との関わりを避けてきた彼の心に、温かさと、どうしようもない切なさが入り混じった、新しい感情が芽生えていた。

湊は、店の一番陽当たりの良い棚に、二つの万華鏡を並べて置いた。

そして、新しく入荷した古びた木馬に、そっと指を触れる。

流れ込んでくるのは、どんな物語だろうか。どんな想いが、そこに眠っているのだろうか。

彼の指先は、これから先も、数え切れないほどの記憶に触れていく。だが、その一つ一つを、以前よりもずっと深く、慈しみをもって受け止めていくことだろう。

窓から差し込む午後の光が、二つの万華鏡を照らし、壁に小さな虹色の光を映していた。それはまるで、時を超えて交わされた、兄と妹の静かな対話のようだった。

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