午前三時三三分の残像
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午前三時三三分の残像

第一章 午前三時三三分の亡霊

午前三時三三分の時報が、遠くで鳴る。俺、湊(みなと)にとって、それは世界の薄皮が一枚めくれる合図だ。古書店の二階、自室の窓から見下ろす石畳の通りに、それらは現れる。音もなく、実体もなく、ただそこに在ったという記憶だけをなぞるように。透明な亡霊たちが、昨日の日常を、あるいは一年前の日常を、寸分違わず繰り返している。

パン屋の主人が、まだ暗い店先で大きな欠伸をする残像。向かいの花屋の娘が、店のシャッターをがらりと開ける残像。それらは色褪せたフィルムのように、今ある風景に重なって見える。俺の目にだけ映る、この街「時織市(ときおりし)」の静かな秘密だ。この能力がいつから備わったのか、もう覚えていない。ただ、気づいた時から俺は、夜の狭間に過去の断片を覗き見る、孤独な観測者だった。

だが最近、街の様子がおかしい。空間そのものが時折、熱せられた陽炎のようにぐにゃりと歪むのだ。「時間層」と呼ばれるその亀裂からは、存在しないはずの過去が溢れ出す。ガス灯の時代の馬車がアスファルトを走り抜け、着物姿の女性がスマートフォンの広告の前を横切っていく。人々が日々繰り返す「日常ルーティン」がこの街の物理的な安定を支えている、という古い言い伝えを、今や誰もが肌で感じ始めていた。日常のどこかが、軋みを上げている。その証拠に、俺の見る残像もまた、少しずつ数を減らしていた。まるで、誰かの大切な一日が、ページごとごっそり抜き取られたかのように。

第二章 欠けたカップと消えた人々

「まただ……」

午前三時三三分。俺は時間層が頻発する広場を見下ろしていた。そこでは決まって、数人の男女の残像が再生されていた。楽しげに語らう恋人たち、ベンチで鳩に餌をやる老人、スケッチブックを広げる若い女性。彼らのルーティンは、広場の安定を保つ重要な歯車だったはずだ。しかし、ここ数週間で、彼らの残像はぷつりと途絶えた。まるでフィルムが焼き切れたように、彼らがいた場所は空白になっている。

そして、奇妙なことに気づいた。彼らの残像が消える、まさにその最後の日にだけ、決まって同じものが現れるのだ。

使い古された、白いコーヒーカップの欠片。

恋人たちのテーブルの上に。老人のベンチの足元に。女性のイーゼルの傍らに。それはまるで置き手紙のように、あるいは墓標のように、そこに静かに置かれていた。無音の残像の中で、その欠片だけがやけに強い存在感を放っているように思えた。

彼らはどこへ消えたのか。そして、なぜ彼らの日常だけが、こんなにも綺麗に跡形もなく、空間から消え去ってしまったのか。謎は、ひんやりとした霧のように俺の心を包み込んでいた。

第三章 忘れられた記録

消えた人々について調べ始めたが、手がかりは掴めなかった。パン屋も、花屋も、時計店も、まるで初めから存在しなかったかのように、別の店に変わっている。住人に尋ねても、誰も彼らのことを覚えていなかった。人々の記憶からも、彼らの日常は消え去っているのだ。

市立図書館の郷土資料室。黴と古い紙の匂いが満ちるその場所で、俺は何時間も過去の新聞をめくっていた。そして、一つの記事に目が留まる。「原因不明の空間振動、奇跡的に収束」。十年前、この街を大規模な時間層の崩落が襲う寸前だったという。その災害が回避された日付と、俺が残像から割り出した最初の一人が消えた日付が、不気味に一致していた。

偶然か。いや、違う。この街の安定は、誰かの「喪失」と引き換えに保たれているのではないか。そんな恐ろしい仮説が、頭の中で形を結び始めていた。コーヒーカップの欠片が、パズルの最後のピースのように思えてならなかった。

第四章 時織の番人

「その目……あんたも『視える』クチだね」

声をかけられたのは、街を見下ろす丘の上だった。振り返ると、深い皺の刻まれた老婆が、銀杏の木に寄りかかって静かにこちらを見ていた。千歳(ちとせ)と名乗った彼女は、この時織市の設立に関わった一族の末裔だという。その瞳は、まるで街のすべてを見通しているかのように澄み切っていた。

俺は、まるで引き寄せられるように、自分の能力のこと、消えた人々のこと、そしてコーヒーカップの欠片のことを打ち明けた。千歳は黙って聞いていたが、俺が話し終えると、深く息を吐いた。

「あんたが見ているのは、ただの残像じゃない。この街を編み上げている『日常』という名の糸そのものさ」

彼女の言葉は、俺の仮説を裏付けるものだった。人々が繰り返す無数の日常がエネルギーとなり、時織市の空間を安定させている。そして、そのバランスが大きく崩れかけた時……。

「誰かが、自分の糸を差し出さねばならんのさ」

第五章 捧げられた日常

千歳の言葉は、俺が抱いていた甘い幻想を打ち砕いた。消えた人々は、誘拐されたのでも、事故に遭ったのでもない。彼らは自ら、その身を捧げたのだ。

「彼らは『守り人』さ。自分の存在と、愛した日常のすべてをエネルギーに変え、強力な時間層を街の歪みに打ち込むことで、崩壊を食い止めてきた」

彼らは街を救うために、人々の記憶から消えることを選んだ。愛する者との語らいも、仕事の誇りも、朝日を浴びる喜びも、すべてを燃やし尽くして、街の礎となった。俺は言葉を失った。彼らを救い出す? なんて傲慢な考えだったのだろう。彼らの犠牲を、俺は無にしようとしていたのか。

「あのコーヒーカップはね、かつて最初の守り人が使っていたものさ。彼は街を救う決意をした朝、それを割り、欠片を友に託した。以来、それは意志を継ぐ者への証となった。決意の、そして……献身の証だ」

千歳は俺の目をじっと見つめた。「彼らの日常を取り戻そうとすれば、楔を失った街は一瞬で崩壊するだろう。あんたは、それでも彼らを救いたいかい?」

その問いに、俺は答えることができなかった。

第六章 最後の夜明け

街の軋みは、もう誰の目にも明らかだった。空にはオーロラのような時間層の亀裂が走り、地面は時折、ゼリーのように揺れた。街の中心にある時計塔が、現実と過去の間で明滅を繰り返している。もう、一人の犠牲では足りないほどの歪みが、街を飲み込もうとしていた。

俺は自分の日常を思う。古書のインクの香り、ページをめくる乾いた音、窓から差し込む午後の光。誰にも干渉されず、誰にも知られない、ささやかで、かけがえのない俺だけの時間。これを失うのか? 彼らと同じように?

恐怖が足元から這い上がってくる。だが同時に、俺の脳裏には、消えていった人々の残像が浮かんでいた。音もなく、ただひたむきに繰り返された、彼らのありふれた、そして何よりも美しい日常の光景が。彼らが守ったこの街で、俺は生きてきたのだ。

夜が明ける。決断の時は、もうすぐそこまで来ていた。ポケットの中で、いつか道端で拾った、陶器の冷たい感触があった。それは、あの白いコーヒーカップの欠片によく似ていた。

第七章 新たなる残像

午前三時三三分。俺は明滅する時計塔の前に立っていた。空間がガラスのように砕け散る幻聴がする。過去の時代の匂いと、現代のアスファルトの匂いが混じり合い、眩暈がした。

俺はポケットから、あの欠片を取り出した。それは運命だったのかもしれない。俺が次の「守り人」であるという、静かな告知だったのかもしれない。

欠片をそっと、足元の石畳に置く。

刹那、全身の力が抜けていくのがわかった。身体が足元から透き通り始め、景色に溶けていく。痛みはない。ただ、途方もない喪失感と、不思議な安堵感だけがあった。

俺の愛した日常が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。古書店のカウンターで本を読む俺。窓辺でコーヒーを淹れる俺。街を眺める俺。それら一つ一つが、俺という存在から剥がされて、光の粒子となって街に溶けていく。俺の「日常」が、この街を支える新たな楔になるのだ。

薄れゆく意識の中、最後に見たのは、安定を取り戻し始めた時織市の、美しい夜明けの空だった。誰かが俺のことを覚えていることはないだろう。だが、それでいい。

明日から、この街のどこかで、午前三時三三分のほんの僅かな間だけ、古書店の窓辺に佇む、透明な男の残像が見えるようになるのかもしれない。音もなく、ただ静かに、誰かの日常を守り続ける、新しい亡霊として。

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