第一章 灰色の世界と一滴の赤
水島蓮の世界から、色が消え始めたのは五年ほど前のことだった。最初は些細な変化だった。夕焼けの燃えるような茜色が、どこか煤けた橙色に見える。新緑の鮮やかな黄緑が、くすんだ灰緑色に感じられる。グラフィックデザイナーである彼にとって、それは致命的な宣告に等しかった。
医者は「進行性の全色盲」という聞き慣れない病名を告げた。脳の、色彩を認識する領域が、徐々にその機能を失っていくのだという。治療法はない。蓮は絶望の中で、かつて愛した色彩豊かな世界との別れを静かに受け入れた。今では、彼の網膜に映るすべてが、古いモノクロ映画のように濃淡の異なる灰色で構成されている。クライアントには事情を話し、モノトーン専門のデザインだけを手掛けることで、かろうじて社会との繋がりを保っていた。
朝の光も、夜の闇も、ただ明るい灰色と暗い灰色でしかない。通勤電車から見える街並みは、まるで巨大な鉛筆デッサンのようだ。人々は表情の乏しい影として行き交い、その声だけが、この世界にかろうじて生命感を与えていた。蓮は心を閉ざし、灰色の日常をただやり過ごすだけの日々を送っていた。
その日も、いつもと同じだった。会社へ向かう途中、駅前の小さな公園を通り抜ける。使い古されたベンチ、砂埃の舞う地面、葉を落とした街路樹。すべてが見慣れた無彩色の風景。だが、その中心に、あり得ないものが存在した。
公園のベンチに座る老婆の手元で、何かが燃えるように輝いていた。
「赤」だ。
蓮は息を呑んだ。それは、彼が忘却の彼方に追いやったはずの、鮮烈な、命の赤だった。老婆は、その赤い毛糸玉から糸を引き出し、編み棒をリズミカルに動かしている。まるで、灰色の世界に零れ落ちた一滴の血液のように、その赤だけが圧倒的な存在感を放っていた。
心臓が早鐘を打つ。足が勝手に、その色へと引き寄せられていく。一歩、また一歩と近づくにつれて、赤はより一層鮮やかさを増す。記憶の底に眠っていた色彩への渇望が、堰を切ったように溢れ出した。あと数メートル。手を伸ばせば、あの失われた感覚を取り戻せるかもしれない。
だが、彼が老婆の真横に立ち、その手元を覗き込もうとした瞬間だった。ふっと、魔法が解けたかのように、その鮮烈な赤は色を失った。老婆の手にあるのは、他のすべてと同じ、ただの灰色の毛糸玉と、編みかけのくすんだ布切れにしか見えなくなった。
「……あれ?」
声が漏れた。老婆は編む手を止め、ゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の奥で、穏やかな瞳が蓮を見つめている。
「何か、お探しものかね」
老婆の声は、枯葉が擦れるような、乾いた音だった。蓮は言葉に詰まった。今、確かに見えたのだ。この灰色の世界で、唯一の色彩を。幻だったのだろうか。しかし、網膜に焼き付いたあの赤の残像は、あまりにも生々しかった。
「いえ、なんでも……ありません」
そう言って逃げるようにその場を去りながら、蓮は何度も振り返った。しかし、そこに赤色が戻ることはなかった。停滞していた彼の日常に、その日、無視できないほど鮮やかな、一つの謎が投げ込まれた。
第二章 盗まれた色彩の断片
あの日以来、蓮の世界は静かに変容し始めた。相変わらず世界はモノクロームのままだったが、時折、予期せぬ瞬間に、世界は彼に色彩の断片を垣間見せるようになったのだ。
それは決まって、強い感情が渦巻く場所に現れた。
ある時は、誕生日を祝われている少女が、満面の笑みで掲げた風船。その「黄色」は、まるで太陽そのものを閉じ込めたかのように眩しかった。またある時は、恋人との別れ話だろうか、カフェの窓際で女性が流した涙で濡れたハンカチ。その「青」は、海の底のような深い哀しみを湛えていた。
蓮は、まるで宝探しをする子供のように、それらの色を追い求めた。色が見えるのはほんの一瞬。彼がその存在をはっきりと認識し、近づいた途端に、色は蜃気楼のように消え、元の灰色に戻ってしまう。彼はポケットに忍ばせたスケッチブックに、見えた色とその時の状況を必死で記録した。黄、青、緑、紫。少しずつ、彼のパレットは失われた色彩で埋まっていく。
それは、希望であると同時に、奇妙な罪悪感を伴う行為だった。なぜなら、彼が色を見た直後、その持ち主たちに微かな異変が起きていることに、薄々気づき始めていたからだ。
黄色い風船を持っていた少女は、彼が通り過ぎた後、ふと笑顔を忘れ、きょとんとした顔で自分の手の中にある灰色の塊を見つめていた。青いハンカチで涙を拭っていた女性は、やがて泣き止むと、自分がなぜ泣いていたのか思い出せないかのように、虚ろな目で窓の外を眺めていた。
まるで、自分が彼らの感情の最も鮮やかな部分を、色と共に抜き取ってしまったかのようだ。そんな馬鹿なことがあるはずない。蓮は首を振り、湧き上がる不吉な予感を打ち消した。これは病気の一環なのだ。脳が見せる、都合の良い幻覚に違いない。そう自分に言い聞かせながらも、スケッチブックのページが増えるたびに、彼の心は重くなっていった。
そんなある日、蓮は妹の美咲からの電話を受けた。
「お兄ちゃん、元気?今度の日曜日、久しぶりに実家に来ない?父さんも母さんも会いたがってる」
明るい美咲の声が、蓮の灰色の日常に小さな波紋を立てた。彼は少し迷ったが、その誘いを受けることにした。
第三章 色喰いの告白
実家のリビングは、蓮の記憶の中にある温かい色合いをすべて失い、セピア色の写真のように静まり返っていた。両親と美咲との会話は、どこか現実感のない、遠い場所の出来事のように感じられた。
食事が終わり、古いアルバムを囲んで思い出話に花が咲く。美咲が指さした一枚の写真には、幼い蓮と美咲が、一台の小さな自転車に二人乗りして満面の笑みを浮かべている姿があった。
「あ、これ覚えてる!お兄ちゃんが初めて補助輪なしで乗れた日だ。この赤い自転車、お気に入りだったよね」
美咲が屈託なく笑う。その言葉を聞いた瞬間、蓮の脳裏に、鮮やかな記憶が蘇った。そうだ、あの自転車は、太陽の光を浴びてキラキラと輝く、美しい「赤」だった。転んで擦りむいた膝の血と同じ、生命力に満ちた赤。
「ああ、覚えてるよ。ピカピカの赤い自転車だったな」
蓮が頷くと、美咲は不思議そうに首を傾げた。
「え?赤?……そうだっけ?私、銀色だったってずっと思ってたけど」
「いや、絶対に赤だよ。間違いない」
「そうかなあ……。おかしいな、あんなに好きだったのに、何色だったか全然思い出せないや」
美咲のその一言が、蓮の心臓を冷たい手で鷲掴みにした。まさか。まさか、そんな。自分の記憶の中にある鮮明な「赤」と、それを綺麗に忘れてしまった妹。今まで見てきた色の断片と、その後の人々の虚ろな表情。点と点が繋がり、恐ろしい一つの線を結ぶ。
彼は、自分が色を見るとき、ただ見ているだけではないのではないか?
他人の、強い感情が宿った記憶の色を、根こそぎ「奪って」いるのではないか?
血の気が引いていくのが分かった。自分がデザイナーとして取り戻したいと渇望していたその色が、他人から奪った記憶の残骸だとしたら?蓮はいてもたってもいられなくなり、「急用ができた」と嘘をついて実家を飛び出した。
向かう先は一つしかなかった。あの公園だ。
幸運にも、老婆はいつものベンチに座り、静かに何かを編んでいた。蓮は息を切らしながら、老婆の前に立った。
「あなた……一体、何者なんですか。僕のこの眼は、一体何なんですか!」
問い詰める蓮を、老婆は変わらず穏やかな瞳で見上げた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「あんたさんも、気づいたんだね。自分の宿命に」
老婆は編み物を膝に置き、自分の皺だらけの手のひらを見つめた。
「わしらはね、『色喰い』だよ。人の強い想いが宿った記憶の色を、魂の糧にしてしまう、哀しい生き物さ」
色喰い。その言葉は、雷のように蓮の全身を貫いた。
「あんたさんが世界から色が失われたと感じているのは、病気のせいじゃない。あんたさん自身が、周りの人間の記憶から、少しずつ色を喰い尽くしてしまった結果なんだよ。あんたさんの渇きが深いほど、世界は色褪せていくのさ」
老婆はかつて、蓮と同じように無意識に色を喰らい、多くの人の大切な思い出を奪ってしまったのだという。そして、長い時間をかけて、その力を制御する方法を学んだのだと。彼女が編んでいた赤い毛糸は、亡き夫への尽きせぬ愛情という、彼女自身の記憶そのものだった。だからこそ、蓮には奪うことができなかったのだ。
「じゃあ、俺は……俺はずっと、人の心を盗んで生きてきたっていうのか……?」
蓮は膝から崩れ落ちた。彼が見ていたモノクロの世界は、病気のせいではなかった。それは、彼自身の罪が作り出した、罰そのものだったのだ。
第四章 心に灯す最初の色
絶望が、蓮のすべてを飲み込んだ。デザイナーとして色を取り戻したいという願い。その純粋だったはずの渇望が、世界から彩りを、人々からかけがえのない記憶を奪い続けていた。美咲が忘れてしまった赤い自転車の色。少女が失った誕生日の喜びの色。女性が流した悲しみの色。それらすべてが、自分の中に流れ込み、醜い養分となっていた。許されるはずがなかった。
数日間、蓮は部屋に閉じこもり、真っ暗な灰色の天井を見つめ続けた。もう、何も見たくなかった。外に出れば、無意識に誰かの色を奪ってしまうかもしれない。そう思うと、瞼を上げることさえ恐ろしかった。
しかし、このままではいけない。奪うだけの存在で、終わりたくない。
蓮は、一つの決断を下した。
もう、他人の色を「見る」のはやめよう。
これからは、自分自身の内側から、色を「創り出す」人間になろう。
彼はアトリエに向かい、埃をかぶっていた真っ白なキャンバスをイーゼルに立てた。パレットに絵の具を出す。もちろん、それらはすべて濃淡の違う灰色にしか見えない。だが、彼はチューブに書かれた「カドミウムレッド」という文字を指でなぞり、その絵の具を手に取った。
目を閉じる。
心の中に、妹と二人で乗った、あの自転車を思い描く。誰の記憶でもない。美咲から奪った色でもない。ただ、自分の心の中にかすかに残る、温かい思い出の断片。完璧な赤ではないかもしれない。少し色褪せ、傷だらけかもしれない。でも、それは紛れもなく、水島蓮だけの「赤」だった。
目を開ける。
震える手で、筆を握る。
そして、真っ白なキャンバスに、彼は、自分だけの最初の色を、そっと置いた。
すっと、一本の赤い線を引いた。
現実の世界は、まだ灰色のままだ。キャンバスに引かれた線も、ただの暗い灰色の筋にしか見えない。
しかし、彼の心の中には、確かな光が灯っていた。それは、誰からも奪うことのない、自らの手で生み出した、小さくも尊い色彩の光だった。
それから、蓮の日常は変わった。
彼はもう、街中で色を探すことはない。代わりに、公園のベンチに座り、スケッチブックを開く。そして、灰色の風景の中に、彼だけが知る温かい色を塗り重ねていく。通り過ぎる人々の心の色を想像し、それを奪うのではなく、祝福するように描く。
時折、隣のベンチにあの老婆が来て、静かに彼のスケッチを覗き込むことがある。彼女は何も言わない。ただ、その皺だらけの顔に、優しい笑みを浮かべている。
蓮の世界に、物理的な色彩が戻ることはないだろう。
しかし、彼の心象風景は、かつてないほど豊かに、鮮やかに、色づき始めていた。彼はもう「色喰い」ではない。世界に、たった一つの色を灯すことができる、名もなき画家になったのだから。