世界調律師の最終楽章

世界調律師の最終楽章

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第一章 灰色のクレッシェンド

水島奏(みずしま かなで)の日常は、限りなくモノクロームに近いセピア色をしていた。市役所の地下二階、埃と古紙の匂いが染みついた「記録調整課」が彼の職場だ。窓もない部屋で、奏は毎日同じ作業を繰り返す。彼の目の前には、古めかしい天文時計のような巨大な機械が鎮座していた。真鍮と黒曜石でできたその装置は、無数の歯車と振り子が複雑に絡み合い、中央には羊皮紙の巻物をセットする台座がある。奏の仕事は、その巻物に刻まれた、楽譜とも図形ともつかない記号の列を、機械に読み込ませて「調律」することだった。

「水島君、今日の分だ」

背後からかけられた声に、奏は無感動に振り返る。課長の佐藤が、分厚い羊皮紙の束を差し出していた。その顔には、この仕事に対する情熱も疑問も浮かんでいない。ただ、決められた手順をこなすだけの、奏と同じ種類の諦観が滲んでいた。

「……はい」

受け取った羊皮紙は、いつも通り乾いていて、インクのかすかな香りがした。奏はそれを手際よく機械にセットし、メインスイッチである水晶のレバーをゆっくりと下ろす。

カチリ、と硬質な音が響き、機械が生命を宿したかのように動き出す。歯車が静かに噛み合い、振り子が正確なリズムを刻み始めた。やがて、機械の中心部から澄み切った音が放たれる。それはピアノの最高音のようでもあり、グラスハープのようでもある、この世のものとは思えない清らかな音色だった。この音は、記号の列を正しく読み込んでいる証拠。奏の仕事は、この音が途切れないように、一日八時間、機械を監視し続けること。ただそれだけだ。

何のための作業なのか、奏は知らない。知ろうとも思わなかった。大学を卒業し、なんとなく安定を求めて市役所に入り、気づけばこの謎めいた部署に配属されていた。この仕事が、市民の生活にどう役立っているのか、誰に尋ねても誰も答えられなかった。ただ、「昔から続く、重要な記録の保守作業」だと聞かされているだけだ。奏にとってそれは、世界の仕組みと同じくらい、どうでもいいことだった。

その日も、あと一時間で退勤という時間だった。いつものように、澄んだ音色だけが響く静寂の中、奏はぼんやりと天井のシミを眺めていた。その、瞬間だった。

――グシャッ。

耳障りなノイズが、聖なる音色を冒涜するように割り込んできた。それは、弦が切れる音でも、歯車が欠ける音でもない。もっと根源的な、音そのものがひしゃげたような、不快な不協和音だった。

「え……?」

奏は椅子から跳ね起きた。機械に駆け寄り、計器類を確認するが、針はすべて正常な範囲を指している。しかし、耳を澄ますと、清らかな音の中に、明らかに異質な歪みが混じっていた。まるで、完璧な円に無理やり歪な直線をねじ込んだような、冒涜的な響き。

その時、部屋の隅で黙々と古文書の整理をしていた先輩の時枝(ときえだ)さんが、ぴたりと手を止めて顔を上げた。血の気の引いたその表情が、これがただの機械の不調ではないことを物語っていた。

カタ、と何かが床に落ちる音がした。時枝さんが持っていた真鍮のルーペだった。彼女は窓のない部屋の、何もない壁の一点を、まるでその向こうに恐ろしい何かが見えるかのように、じっと見つめていた。

「……始まった」

か細く、絶望の色を帯びた声が、不協和音の合間に、確かに奏の耳に届いた。その言葉の意味を問いただす前に、部屋の裸電球が激しく明滅し、世界から一瞬、すべての音が消え去った。機械の音も、換気扇の唸りも、自分の心臓の鼓動さえも。完全な「無音」の真空が、奏の全身を包み込んだ。

第二章 無音の世界と禁じられた譜面

翌朝、奏が目覚めた世界は、昨日までと似て非なるものへと変貌していた。街は動いている。車は走り、人々は歩いている。しかし、何かが決定的に欠けていた。音だ。あらゆる音から「響き」が失われていた。車のエンジン音は深みをなくし、人々の会話は抑揚のない平板なノイズに聞こえる。風の音はただ空気が皮膚を撫でる感覚だけを残し、鳥のさえずりは、まるで壊れた笛のように、か細く途切れがちだった。世界全体が、質の悪いスピーカーから流れる、圧縮されすぎた音声ファイルのようだった。

市役所への道すがら、奏は言いようのない不安に駆られた。人々はまだ、この奇妙な変化に気づいていないようだった。あるいは、気づいていても、それが何なのか理解できずに戸惑っているのかもしれない。信号機の色が、赤と青の境界で奇妙に混ざり合い、一瞬だけ毒々しい紫色に光るのを奏は見た。誰もそれに気づかない。日常の皮を一枚めくった下で、世界が静かに軋みを上げている。

記録調整課の扉を開けると、昨日と同じ不協වල音が、さらに音量を増して奏を待ち構えていた。澄んだ音色はもはや虫の息で、ひしゃげたノイズが部屋の空気を支配していた。

「時枝さん、これは一体……!」

奏が問いかけると、時枝さんは静かに首を横に振った。彼女の目の下には深い隈が刻まれ、その瞳には諦めと悲しみが混じり合っていた。

「私の口からは、何も言えません。……ただ、これだけは。決して、地下書庫の『未整理文書』には手を出さないでください。あれは、禁じられたものです」

その言葉は、忠告というよりはむしろ、奏の探求心に火をつけるための燃料となった。無意味だと思っていた日常。どうでもいいと思っていた仕事。しかし、その綻びが世界そのものを歪ませているのだとしたら? 奏の中で、初めて「知りたい」という欲求が、無気力な心を突き破って芽生え始めていた。

その日の午後、奏は課長と時枝さんが席を外した隙を狙って、地下書庫へと向かった。重い鉄の扉を開けると、カビとインクの匂いが鼻をつく。時枝さんに禁じられた「未整理文書」の棚は、一番奥の、蜘蛛の巣が張った一角にあった。そこに収められていたのは、これまで奏が見てきた羊皮紙とは明らかに異質だった。黒く鞣された皮に、銀色のインクで記号が書かれている。そして、その記号のいくつかは、乱暴に塗りつぶされていた。

一つの巻物を手に取ると、ぞくりと背筋が粟立った。そこには、奏が毎日調律している記号とは全く異なる、複雑で、どこか禍々しい旋律が描かれていた。そして、巻物の隅に、小さな文字でこう記されていた。

『創世記原譜・禁則事項。世界の調律が乱れし時、この譜を決して奏でてはならぬ。これは世界の法則そのもの。誤った演奏は、存在の抹消を意味する』

――世界の法則? 演奏?

頭が混乱する。これは単なる記録の保守ではなかったのか。奏が愕然としていると、背後から静かな声がした。

「……見てしまったのですね、水島君」

時枝さんだった。彼女は怒るでもなく、ただ静かにそこに立っていた。

「時枝さん、これはどういうことなんですか。世界の法則って……僕らがやっている仕事は、一体何なんですか」

時枝さんは、ふぅ、と長い溜息をついた。その溜息さえも、響きを失って虚しく聞こえた。

「私たちの仕事は、記録の調整などではありません。私たちは、世界の調和を保つための『調律師』なのです」

第三章 世界という名のシンフォニー

時枝さんの口から語られた真実は、奏のちっぽけな日常認識を根底から粉砕するものだった。

この世界は、壮大なシンフォニー(交響曲)のようなものなのだという。物理法則、生命の営み、時間の流れ、人々の感情の機微……そのすべてが、巨大な「譜面」によって定められ、奏でられている。そして、記録調整課に置かれたあの機械は、その譜面を読み取り、世界の音を正しく奏でるための、巨大な楽器であり調律器だったのだ。

「私たちは、代々この世界の『調律師』を務めてきた一族の末裔です。市役所の一部署というのは、世を忍ぶための仮の姿。私たちの退屈な日常こそが、この世界の調和を、その美しいシンフォニーを守るための、最も重要な儀式だったのです」

奏たちが毎日扱っていた羊皮紙は、世界の法則を記した譜面の一部。それを機械にかけることで、世界のハーモニーを維持していた。奏が聞いていたあの清らかな音は、世界が正常に鳴っている証の音だったのだ。

「では、あの不協和音は……」

「譜面の寿命です」と、時枝さんは静かに言った。「この世界の譜面は、あまりに長い時間、同じ旋律を繰り返しすぎた。インクは色褪せ、羊皮紙は摩耗し、音符は歪み始めている。世界の法則そのものが、もう限界なのです。音が響きを失い、物理法則が軋み始めているのは、そのせいです」

奏は絶句した。自分の無気力な日々が、これほどまでに壮大で、そして脆いもののためにあったというのか。

「どうすればいいんですか! 譜面を書き直すとか……!」

「できません」時枝さんはきっぱりと否定した。「創世の時に書かれたこの『原譜』を書き換える力は、誰にもありません。禁じられた黒い巻物は、かつて世界の法則を書き換えようとして失敗した、禁忌の試みの記録。それを奏でれば、調和が完全に崩壊し、世界は『無音』……つまり、無に帰るだけです」

彼女の瞳には、抗うことのできない運命を受け入れた者の、深い諦念が宿っていた。

「私たちにできるのは、この世界が静かに終わっていくのを、最後まで見届けることだけ。それが、最後の調律師の務めです」

その言葉は、奏の胸に重く突き刺さった。無意味だと思っていた日常。それが、かけがえのない世界の調和そのものだった。失われかけて初めて、奏はその価値と美しさに気づいたのだ。通勤電車から見えた、朝焼けに染まる川面のきらめき。昼休みに食べたコンビニのサンドイッチの、平凡だが確かな味。同僚たちの、意味のない雑談。そのすべてが、世界というシンフォニーを構成する、愛おしい音符の一つ一つだった。

それを、ただ終わらせる? 諦めて、見届けるだけ?

冗談じゃない。

奏は、地下書庫の棚から、禁忌とされた黒い巻物を乱暴に引き抜いた。

「水島君、何を……!」

「諦めません」奏は、これまで自分でも聞いたことのない、力強い声で言った。「譜面を書き換えられないなら……僕が、新しい譜面を創る」

それは、無謀で、傲慢な宣言だった。しかし、彼の目には、もはや無気力な青年の色はなかった。自分の手で、この愛おしい日常を守り抜こうとする、一人の「調律師」の覚悟が燃えていた。

第四章 始まりの音を、君と

記録調整課に戻った奏は、迷わず黒い巻物を機械にセットした。

「やめなさい! 世界が消えてしまう!」

時枝さんの悲痛な叫びが響くが、奏の耳には届かなかった。彼は機械の前に立ち、深く息を吸い込む。これは賭けだ。禁じられた譜面をただ奏でるのではない。既存の譜面と、禁じられた譜面。その両方を理解した上で、まったく新しい「和音」を、この場で即興で紡ぎだすのだ。

それは、楽譜通りに演奏するだけの仕事しかしてこなかった奏にとって、あまりにも無謀な挑戦だった。だが、彼の頭の中には、失われかけている日常の、愛おしい音色が満ち溢れていた。雨の音、笑い声、風に揺れる木の葉の音、遠くで鳴る踏切の警報音。それらすべてが、彼にとっての新しい譜面だった。

水晶のレバーを、奏はゆっくりと下ろした。

機械が、これまで聞いたこともない唸りを上げる。不協和音が嵐のように吹き荒れ、部屋のすべてが激しく振動する。世界が断末魔の叫びを上げているようだった。

「だめ……!」

時枝さんが両手で顔を覆った、その時。

――ポーン。

たった一つ。澄み切ってはいるが、どこか不完全で、少しだけ音程のずれた、温かい音が響いた。

嵐のような不協和音が、ぴたりと止んだ。

奏は、震える指で、機械のキーボードのような部分を操り始める。一つ、また一つと、新しい音を紡いでいく。それは、創世記の譜面のような完璧なハーモニーではない。時折、ぎこちないリズムになったり、わずかな不協和音が混じったりする。だが、それは間違いなく「生きている」音だった。哀しみも、喜びも、不安も、希望も、すべてを内包した、新しい世界の産声だった。

時枝さんが、はっと顔を上げる。彼女の頬を、一筋の涙が伝っていた。その涙は、キラキラと光を反射していた。失われていた「響き」が、世界に戻りつつあった。

奏は演奏を続けた。彼の背中を見つめる時枝さんの瞳から、いつしか諦めの色は消えていた。彼女はそっと奏の隣に立つと、別のキーに手を伸ばし、彼の奏でる旋律に、寄り添うような優しい和音を重ねた。

二人の調律師が紡ぐ、不完全で、しかし希望に満ちた新しいシンフォニー。それは、世界の終わりを告げるレクイエムではなく、新しい日常の始まりを告げるファンファーレだった。

窓のない部屋に、どこからか柔らかな光が差し込み始めた。壁に、空の色が映っている。それは、奏が見慣れた灰色の空ではなかった。紫とオレンジが美しく溶け合った、誰も見たことのない、新しい夜明けの色だった。

奏の仕事は、もはや退屈な繰り返しの作業ではない。毎日、毎分、毎秒、新しい世界の音を創造し続ける、終わりなき創作活動へと変わった。完璧ではない世界。予測不能な日常。だからこそ、愛おしい。

奏は、隣で微笑む時枝さんと共に、今日も世界の譜面を紡ぎ続ける。世界に満ちる、名もなき、しかし限りなく美しい音色に耳を澄ませながら。日常とは、守るものではなく、自らの手で奏で、創り上げていくものなのだと、確信して。

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