忘れな草のレクイエム
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忘れな草のレクイエム

第一章 琥珀色の憂鬱

リアムが暮らす街、アウレリアの空気は、いつも琥珀色に澱んでいた。それは比喩ではない。敵国エストリアから風に乗って運ばれてくる微細な香りの粒子が、陽光を屈折させ、街全体を古い樹脂に閉じ込めたかのように染め上げているのだ。人々はそれを「黄昏の霧」と呼んだ。

この戦争が始まって十年。砲弾が飛び交うことも、家々が炎に包まれることもない。ただ、静かに、確実に、何かが奪われていく。今日の午後もそうだった。広場のパン屋の女将が、焼き上がったパンの山を前に、突然自分の娘の名前を思い出せなくなった。彼女は虚ろな目で宙を見つめ、ただ涙を流すばかりだった。また「忘却の香り」の攻撃だ。エストリアが開発した、人の記憶の中枢に作用する香学兵器。それは目に見えない暗殺者のように街を徘徊し、人々から最も大切な思い出を、まるで朝霧が消えるように奪い去っていく。

「また、誰かが泣いている」

リアムは、国軍の第四香学研究所の窓から、琥珀色の街を見下ろしながら呟いた。彼の白い指先は、試験管に満たされたラベンダーのエキスで微かに濡れていた。彼の仕事は、調香師。ただし、彼が創り出すのは人々を魅了する香水ではない。この静かな戦争に終止符を打つための、対抗兵器としての「香り」だ。

彼の背後には、天井まで届くほどの巨大な棚が壁一面を埋め尽くし、そこには数千種類もの香料が詰められた小瓶が、さながら万華鏡の破片のように光を放っていた。乾燥させた花弁、樹脂の塊、動物性の香料、そして合成された化学物質。それら全てが、リアムにとっては言葉であり、音であり、感情そのものだった。彼は、この香りのライブラリを駆使して、敵の「忘却の香り」を中和し、人々の心に希望を灯す究極の香り――コードネーム『夜明け』を開発する使命を帯びていた。

五年前、彼の両親と幼い妹は、初期型の「絶望の香り」に侵された。それは人から生きる気力そのものを奪う悪魔の吐息だった。三人は、何の抵抗もせず、食事も水も拒み、静かに衰弱して死んでいった。リアMの心には、復讐の炎が、決して消えることのない香炉のように燻り続けている。『夜明け』を完成させ、エストリアに同じ絶望を味合わせる。それだけが、彼を突き動かす原動力だった。

彼は棚からジャスミンのアブソリュートを取り、一滴、ビーカーに垂らした。甘く、陶然とするような香りが広がる。しかし、足りない。希望を語るには、あまりに華やかすぎる。ベルガモットの快活さ、ローズマリーの覚醒、フランキンセンスの神聖さ。どれを組み合わせても、パズルのピースは嵌まらなかった。敵の香りは、人間の根源的な恐怖や喪失感に巧みに付け込んでくる。それに対抗するには、もっと深く、魂の髄にまで届くような、絶対的な肯定の香りが必要だった。

「……何かが、欠けている」

リアムは目を閉じた。彼の研ぎ澄まされた嗅覚が、研究所に満ちる無数の香りの分子を捉える。その向こうに、街で泣いている人々の悲しみの匂いが、微かに届くような気がした。琥珀色の憂鬱は、今日も深く、街を覆っていた。

第二章 亡霊の囁き

『夜明け』の開発は、暗礁に乗り上げていた。リアムは寝食を忘れ、調香台に齧り付いていたが、生まれるのは不完全な模倣品ばかりだった。彼の焦りは、フラスコの中で混ざり合わない油と水のように、研究室の空気を重くしていた。軍上層部からの催促は日に日に厳しくなり、彼の双肩にのしかかる重圧は、鉛のように彼の思考を鈍らせた。

そんなある日、上官から一つの木箱が手渡された。古びた桐の箱で、錠は錆びつき、エストリアの紋章が掠れて刻まれている。

「先日、国境付近の戦闘で確保した、敵国の老調香師の遺品だ。名はエリアス・ヴァイン。奴らの香学兵器の基礎を築いた男らしい。何かヒントがあるかもしれん。一週間で解読しろ」

リアムは自室で、息を殺して箱を開けた。中には、革で装丁された一冊の分厚いノートが収められていた。インクの匂いと、古紙の甘い匂い、そして微かに、リアムの知らない花の香りがした。ページをめくると、そこには几帳面な文字で、膨大な調香の記録が綴られていた。エストリアでしか自生しない植物、現代では失われた抽出法、そしてリアムが初めて目にする、香りの哲学。

エリアスの記述は、兵器開発者のそれとは思えないほど、詩的で、生命への畏敬に満ちていた。彼は香りを「魂の記憶を運ぶ舟」と表現していた。読み進めるうちに、リアムは奇妙な感覚に襲われた。憎むべき敵国の技術者の筈なのに、その文章の端々から、自分と同じ、香りへの純粋な探求心と愛情が滲み出ている。

そして、リアムは最後のページで、ある記述に釘付けになった。

『――究極の香りは、相反する要素の完全なる調和によってのみ生まれる。それは忘却と記憶、絶望と希望、死と再生の境界線上に咲く花。古文書に記された幻の植物、"シンス・フィオーレ(共感の花)"。その香りは、個人の魂を超え、民族の魂、ひいては星の魂そのものに接続するという。それは、魂を繋ぐ香り。しかし、それは同時に、最も危険な香りでもある。使い方を誤れば、世界から全ての境界線を消し去ってしまうだろう』

シンス・フィオーレ。聞いたこともない植物だ。しかし、その記述を読んだ瞬間、リアムの脳裏に電撃が走った。これだ。彼が探し求めていた最後のピース。相反する要素の調和。希望だけを求めるのではなく、絶望を知り、それを受け入れた上で、なお前を向く力。それこそが真の『夜明け』に必要な核ではないか。

ノートには、シンス・フィオーレの代用となる可能性のある、いくつかの希少な素材の組み合わせが記されていた。その多くは、効果が強すぎるために軍では使用が禁じられているものだった。危険な賭けだ。だが、リアムに迷いはなかった。彼は深夜、誰の目も盗んで、研究所の奥深くにある禁忌の保管庫へと忍び込んだ。冷たい金属の扉を開けた瞬間、亡霊の囁きのような、甘く危険な香りが彼を誘った。

第三章 忘れな草の真実

数日後、リアムは一つの小瓶を手に、呆然と立ち尽くしていた。ついに『夜明け』が完成したのだ。それは、禁忌の素材を、エリアスのノートにあった比率で慎重に調合したものだった。小瓶の中の液体は、夜明け前の空のように、淡い青紫色に輝いている。

キャップを開け、香りを染み込ませたムエット(試香紙)をゆっくりと鼻に近づける。

最初に感じたのは、雨上がりの土の匂い。生命の始まりを告げる、素朴で力強い香りだ。次に、朝露に濡れた若草のような、清々しいグリーンノートが立ち上る。そして最後に、今まで嗅いだことのない、どこか懐かしく、胸の奥を締め付けるような、甘く切ない花の香りが、全てを包み込んだ。それは、孤独な夜を越えた者だけが知る、静かで、確かな希望の香りだった。

「……できた」

リアムは勝利を確信した。この香りがあれば、黄昏の霧を晴らし、人々の心に光を取り戻せる。彼は昂る心を抑え、効果を確かめるために、自ら深くその香りを吸い込んだ。

その瞬間、世界が反転した。

彼の意識は、激しい光の渦に飲み込まれた。目の前に、知らないはずの光景が、まるで自身の記憶のように鮮やかに再生される。

――陽光が降り注ぐ広大な草原。見たこともない白い花が一面に咲き乱れている。そこで、二つの部族が、同じ言葉を話し、同じ歌を歌い、共に収穫を祝っている。片方の部族の腕には、自分の祖国アウレリアの太陽の紋章が、もう片方の部族の腕には、敵国エストリアの月の紋章が描かれている。彼らは兄弟のように笑い合い、肩を組んでいた。

場面が変わる。

――権力者の薄暗い部屋。一人の男が、玉座に座る王に囁いている。「民が同じ記憶を持つ限り、彼らを分断し、支配することはできません。歴史を、書き換えるのです。彼らの絆の記憶を奪う、『忘却の香り』を使いましょう」

そして、最後の光景。

――草原に咲き誇っていた白い花が、紫色の毒々しい煙に巻かれ、次々と枯れていく。人々は互いの顔を見ても、そこに親しい友の姿を認識できず、見知らぬ他者への恐怖と不信に駆られていく。太陽の民と月の民は、互いを「敵」と呼び、武器を取った。あの白い花こそ、幻の「シンス・フィオーレ」。共有された記憶の象徴だった。

「あ……あぁ……」

リアムは膝から崩れ落ちた。息ができない。頭を殴られたような衝撃。全てを理解した。

この戦争は、領土や資源を奪い合うものではなかった。仕組まれた憎しみの上に成り立つ、偽りの戦争だった。発端は、権力者が民を支配するために、両国民が元々は一つの民族であったという共有の記憶を「忘却の香り」で消し去ったこと。以来、両国は失われたアイデンティティの空白を、互いへの憎しみで埋めてきたのだ。

エストリアが必死に香学兵器を開発し、アウレリアを攻撃していたのは、単なる侵略のためではない。彼らは、自分たちが何を失ったのかさえ忘れながらも、本能的に、失われた記憶の断片――シンス・フィオーレの香りの痕跡――を探し求めていたのだ。

そして、リアムが完成させたこの『夜明け』。

それは、希望の香りなどではなかった。

これは、忘れさせられた「真実の記憶」を呼び覚ます、鍵だった。エリアス・ヴァインがノートに遺した本当のメッセージ。彼は兵器ではなく、失われた魂の絆を取り戻すための「忘れな草」の製法を、敵国である自分に託したのだ。

リアムの手の中で、夜明け色の液体が入った小瓶が、恐ろしいほどの重さを持っていた。これを軍に渡せばどうなる? 敵の記憶を混乱させる究極の兵器として使われ、偽りの勝利がもたらされるだろう。そして、憎しみの連鎖は永遠に続く。

彼の心の中で、家族を奪われた復讐の炎が、真実の風に吹かれて、静かに消えかけていた。その跡には、途方もないほどの、冷たい空虚感が広がっていた。

第四章 夜明けの調香

研究所の硬いベッドの上で、リアムは一睡もできなかった。彼の内側で、二つの声が激しくぶつかり合っていた。復讐を叫ぶ過去の自分と、真実を知ってしまった現在の自分。どちらが正しいのか、もう分からなかった。しかし、一つだけ確かなことがある。この香りを、これ以上憎しみのために使うことはできない。

夜が最も深くなる頃、リアムは静かにベッドを抜け出した。小瓶をポケットに忍ばせ、彼は決意を固めていた。この香りは、兵士の心ではなく、全ての人々の心に届けなければならない。敵も、味方もなく。

彼は研究所を抜け出し、アウレリアで最も高い建物――街の中心に聳え立つ、大聖堂の鐘楼を目指した。夜警の目を盗み、螺旋階段を駆け上がる。息が切れ、心臓が張り裂けそうだった。それは恐怖からか、それとも、これから行おうとすることへの、厳かな興奮からか。

鐘楼の頂上にたどり着くと、冷たい夜風が彼の火照った頬を撫でた。眼下には、琥珀色の霧に沈むアウレリアの街並みが、眠る巨獣のように広がっている。そして、その向こうには、国境線の闇が横たわり、さらにその先には、彼が今まで憎しみしか抱いてこなかった国、エストリアがある。

東の空が、微かに白み始めていた。夜明けだ。

リアムはポケットから小瓶を取り出した。彼の震える指が、キャップをゆっくりと開ける。ふわりと、あの懐かしくも切ない香りが立ち上った。それは、失われた故郷の香りだった。我々の、故郷の。

彼は香りの液体を、鐘楼の四方に設置された大きな拡散器に注ぎ込んだ。これは本来、祝祭の日に、祝福の香りを街中に届けるための装置だ。

「行け」

リアムはスイッチを入れた。拡散器が静かに作動を始め、霧状になった「忘れな草の香り」が、夜明けの風に乗って、白い奔流のように街へと流れ出していく。

香りは、眠る人々の窓の隙間から忍び込み、兵士たちの宿舎に満ち、そして国境を越えて、エストリアの空へと広がっていく。

全てが終わった後、リアムは手すりに寄りかかり、ただ静かに眼下の光景を見つめていた。やがて街のあちこちで、灯りが灯り始めるだろう。人々が目を覚ます。彼らは、何を思い出すのだろうか。昨日と同じ、敵への憎しみか。それとも、数百年前に忘れさせられた、兄弟への愛情か。あるいは、あまりに大きな真実に混乱し、新たな争いを始めるのかもしれない。

答えは、風の中だ。

リアムにできることは、もう何もなかった。彼はただの調香師だ。彼がしたことは、真実の香りを解き放っただけ。それが希望になるか、絶望になるかは、これから目覚める人々の心に委ねられている。

空が青紫から、燃えるようなオレンジ色に変わっていく。それは、リアムが作った『夜明け』の色によく似ていた。彼は、復讐に燃えていたかつての自分を赦した。そして、顔も知らない敵国の老調香師エリアスに、心の中で深く頭を下げた。

戦争は、終わらないかもしれない。しかし、偽りの歴史は、この夜明けと共に終わりを告げる。リアムは、確かな答えのない未来に、静かな、そして途方もなく大きな希望を託しながら、新しい世界の最初の朝日を、たった一人で浴びていた。


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