空の果てのレクイエム

空の果てのレクイエム

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第一章 錆びた鉄と異国の文字

終戦の気配が、焦げ付いた匂いのように国中を覆い始めていた夏。僕、相沢健太が暮らすこの海辺の町は、幸いにもまだ直接的な戦火を免れていた。だが、空には日に日に敵国の偵察機がその銀翼を光らせ、ラジオからは勇ましい軍歌と、日に日に苦しくなる戦況を糊塗するアナウンサーの声が流れていた。僕はそれを、どこか他人事のように聞いていた。二年前の空襲で両親を失って以来、僕の世界からは色が抜け落ち、すべてがくすんだセピア色の風景に見えていたからだ。

その日、僕は食料の足しにと、裏山へ山菜を採りに入っていた。蝉時雨が容赦なく降り注ぐ中、森の奥深く、普段は誰も足を踏み入れない獣道を進んでいくと、不意に視界が開けた。そこに、それはあった。

巨大な鉄の残骸。敵国の偵察機だった。機体は見るも無惨に引き裂かれ、苔むした大地に突き刺さるようにして、永遠の静寂に身を横たえている。プロパガンダが「鬼畜」と呼ぶ敵の乗り物が、今はただの錆びた鉄屑と化していた。僕は警戒しながらも、好奇心に抗えず、その残骸に近づいた。

操縦席だったであろう場所は激しく損傷していたが、奇跡的に、一つの革鞄が泥の中から顔を覗かせていた。僕は木の枝でそれを引き寄せ、中身を確かめる。そこに入っていたのは、一冊の小さな手帳だった。濃紺の革で装丁された、上質な手帳。僕はそれを開いた。そこには、見たこともない、流れるような異国の文字がびっしりと並んでいた。

これが、僕と「彼」との出会いだった。敵国の言葉で書かれた、名も知らぬ兵士の日記。それは、僕の灰色だった日常を根底から揺るがす、静かな嵐の始まりだった。

第二章 日記の中の空

夜ごと、僕はランプの灯りを頼りに、あの日記帳を解読することに没頭した。戦前に教会の宣教師から、ほんの遊び程度に習っただけの拙い知識。辞書を片手に、一語一語、パズルを解くように文字を追った。

日記の持ち主は、「エリアス」という名前らしい。彼は飛行兵で、故郷にはフィアンセと、パンを焼くのが上手な母親がいると書かれていた。日記に綴られていたのは、僕らがラジオで聞かされるような、敵意や憎しみではなかった。

『今日の空は、まるで磨き上げたサファイアのようだ。雲の絨毯の上を滑る時、僕は自分が人間であることを忘れ、ただの鳥になったような気がする。この美しい世界を、なぜ僕らは鉄と炎で焼き尽くさねばならないのだろう』

ページをめくるたびに、エリアスという青年の輪郭が、僕の中で像を結んでいった。彼は、僕と同じようにショパンの夜想曲を愛し、星空を眺めるのが好きな、ごく普通の若者だった。日記には、故郷の恋人への甘い言葉が並ぶ日もあれば、友人の戦死に打ちのめされ、インクが滲むほどに乱れた文字で苦悩を吐露する日もあった。

『彼らは我々を鬼だと教え、我々は彼らを獣だと教わる。だが、この空から見下ろす街の灯りの一つ一つに、誰かの暮らしと愛があることを、僕は知ってしまった』

僕は混乱していた。僕らが憎むべき「敵」は、どこにもいなかった。そこにいたのは、戦争という巨大な理不尽に翻弄され、僕と同じように傷つき、愛し、苦悩する一人の人間だった。日記を読む時間は、僕にとって危険な蜜のように甘美だった。それは、国が作り上げた「正義」という名の檻から、僕の魂を密かに解き放っていくようだった。僕とエリアス。敵と味方であるはずの二人の間に、紙とインクを介した奇妙な友情が芽生え始めていた。

第三章 白い花の丘

日記の解読が終わりに近づいたある夜、僕は決定的なページにたどり着いた。それは、エリアスが偵察飛行中に描いたと思われる、一枚のスケッチだった。インクで描かれた、なだらかな丘。そして、その頂に立つ一本の桜の木と、その根元に寄り添うように置かれた、小さな墓石。

心臓が氷の塊になったように冷たくなった。その場所を、僕は知っていた。僕の村を見下ろす丘の上。そして、その小さな墓は、幼い頃に病で亡くなった、僕の妹・美咲のものだった。

震える手で、スケッチの横に添えられた文章を追った。

『丘の上に、小さな墓があった。誰かが手向けたのだろう、白い野の花が風に揺れていた。きっと、この国にも、誰かを深く悼み、愛し続ける人がいるのだ。その小さな花を見てから、僕にはもう、引き金を引くことができない。僕たちは、一体何と戦っているのだろう?』

息が止まった。エリアスは、見ていたのだ。僕が毎週欠かさず供えに行く、あの白い桔梗の花を。妹の墓を。そして彼は、その風景に、故郷の誰かを重ねていたのだ。

だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。日記の最後の数ページは、乱雑な数字や記号、そして地図のようなもので埋め尽くされていた。それは、僕の住むこの町を含む、周辺一帯への大規模な空襲計画の座標データらしかった。そして、そのデータのいくつかの数字が、インクで乱暴に書き換えられ、本来の目標地点から大きく海側へとずらされていた。

まさか。エリアスは、この非人道的な任務を知り、僕の村を、妹の墓があるあの丘を守るために、偽の偵察報告をしようとしていたのではないか?そして、その直後、何らかの理由で墜落したのでは…?

真実は分からない。だが、その可能性を思った瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。敵。味方。正義。悪。僕が信じていた世界のすべてが、まるで砂の城のように脆く、無意味なものに思えた。僕を殺しに来たはずの敵兵が、僕が最も大切に思う場所を、命がけで守ろうとしていたのかもしれないのだ。涙が溢れて、日記のページに染みを作った。その夜、僕は初めて、会うことのなかった敵兵のために祈った。

第四章 まだ見ぬ友へ

それから数日後、玉音放送が流れ、長く続いた戦争は終わりを告げた。結局、僕の町に大規模な空襲はなかった。それがエリアスの密かな抵抗のおかげだったのか、それとも単なる軍事戦略上の偶然だったのか、今となっては誰にも知る由はない。

人々は解放感に泣き、あるいは虚脱感に打ちひしがれた。だが僕の心は、不思議なほど静かだった。

秋風が吹き始めた頃、僕はエリアスの日記を胸に、妹の眠る丘へ登った。夏の間、僕が供え続けた桔梗はもう枯れていたが、その横で、まるで約束のように、新しい白い野の花が風にそよいでいた。エリアスが空から見たのと同じ光景が、そこにはあった。

僕は丘の上に座り、眼下に広がる穏やかな町の景色を眺めた。あの錆びた鉄の塊と、一冊の日記がなければ、僕はこの景色を憎しみのフィルターを通してしか見られなかっただろう。戦争は多くのものを奪った。両親も、平穏な日々も。だが、皮肉にも戦争は、僕に一つの真実を教えてくれた。空の向こう側にいるのもまた、僕らと同じように泣き、笑い、愛する人間なのだと。

僕は心に決めた。いつか、どうにかしてエリアスの故郷を探し出し、この日記を彼の家族に届けよう。そして伝えよう。あなたの息子は、最後まで空の美しさを信じ、見知らぬ国の小さな花に心を寄せる、優しい人間だったと。

空は高く、どこまでも青く澄み渡っていた。僕はその空を見上げ、まだ見ぬ友に、心の中でそっと語りかけた。憎しみ合うには、この世界はあまりに美しすぎるよ、エリアス。

彼の魂が、彼が愛したあのサファイアの空で、今は安らかに飛んでいることを願いながら、僕は静かに丘を下りた。僕の足取りは、灰色の世界を生きていた数ヶ月前とは比べ物にならないほど、確かなものになっていた。

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