***第一章 錆びたオルゴールの旋律***
ケンジの世界は、ヘッドフォンが拾う静電気のノイズと、モールス信号の無機質な鼓動だけで構成されていた。薄暗い通信室の空気は、機械油と埃、そして燻るタバコの匂いで淀んでいる。彼は帝国陸軍の通信兵。その指が叩き出す電鍵の一つ一つが、遠い前線で誰かの命を奪い、あるいは救っている。だが、ケンジの心に感傷はなかった。彼の心臓は、三年前のあの夜、家族と共に燃え落ちた故郷の瓦礫の下に埋めたままだからだ。
彼の唯一の目的は復讐。敵国の言語を学び、彼らの思考を読み、暗号の裏に隠された意図を暴き出す。その卓越した能力は、彼を若くして最重要通信を扱う部署へと引き上げた。憎しみは、時として最も鋭い才能を研ぎ澄ます砥石となる。
そんな日々が続いていたある夜、ケンジは奇妙な信号を捉えた。
それは、軍事用の周波数帯の狭間に、幽霊のように紛れ込んできた音だった。規則的な長音と短音の羅列ではない。不規則で、それでいてどこか懐かしい、微かなメロディ。まるで、ゼンマイが錆びついた古いオルゴールが、最後の力を振り絞って奏でるような、途切れ途切れの旋律だった。
「ノイズか、新型の攪乱電波だろう」。隣の席の同僚はヘッドフォンをずらしながら吐き捨てた。上官も同様の判断を下し、無視するよう命じた。だが、ケンジにはそう思えなかった。その音の連なりは、彼の意識の硬い殻を叩き、記憶の奥深くで眠っていた何かを揺り起こそうとしていた。
――空襲のサイレンが鳴り響く夜。燃え盛る梁の下敷きになった母。薄れゆく意識の中で、母が何かを口ずさんでいた。そうだ、この旋律だ。幼いケンジをあやすために、母がよく歌ってくれた名もない歌。
ありえない。母は死んだはずだ。これは感傷が生み出した幻聴に過ぎない。ケンジは頭を振り、思考を打ち消そうとした。しかし、指は彼の意志とは裏腹に、録音装置のスイッチを入れていた。この錆びついたオルゴールの正体を突き止めるまで、眠れそうになかった。憎しみだけで固められていたはずの彼の世界に、初めて不可解な不協和音が鳴り響いた瞬間だった。
***第二章 スズランの暗号***
謎の旋律は、その後も不定期に、夜の帳が最も深くなる時間帯を狙って現れた。ケンジは軍務の傍ら、その音の断片を繋ぎ合わせる作業に没頭した。ヘッドフォンから流れるか細いメロディに耳を澄ます時間は、彼にとって唯一、復讐という強迫観念から解放される瞬間だった。
彼は、録音した音を五線譜に書き起こしていった。それは驚くほど素朴で、優しい調べを持っていた。故郷の庭の片隅で、初夏の風に揺れていたスズランの白い花々を思い出させた。彼はその名もない歌に、密かに「スズランの歌」と名付けた。
「敵の罠かもしれないぞ」。友人の兵士、タカシは心配そうに言った。「そんなものに深入りして、スパイの嫌疑でもかけられたらどうする」
ケンジもその危険性は承知していた。だが、彼の心を占めるのは恐怖よりも、日に日に強くなる確信だった。これは、誰かが意図的に発信しているメッセージだ。無数の死と憎しみが飛び交う電波の海の中で、たった一人に向けて送られている、あまりにも個人的な手紙なのだと。
ある日、敵の主力艦隊の動向に関する最重要暗号の解読に成功した。ケンジがもたらした情報により、帝国海軍は奇襲を回避し、逆撃に転じることができた。彼は英雄として称賛され、特別休暇を与えられた。しかし、祝杯をあげる同僚たちの輪の中で、ケンジの心は冷え切っていた。敵兵の死体も、沈みゆく軍艦も、彼の心の渇きを癒すことはなかった。虚しい勝利だった。
その夜、彼は官舎に戻ると、再び「スズランの歌」の録音に耳を傾けた。旋律を繰り返し聴くうちに、彼はあるパターンに気づいた。特定の音の跳躍、あるいは不自然な休符。それは音楽的な飛躍ではなく、意図的に埋め込まれた「鍵」のように思えた。
もしかしたら、音階そのものが文字に対応しているのではないか。ドレミファソラシドの七音に、母が教えてくれた星の名前を当てはめてみる。幼い頃、二人で夜空を見上げながら遊んだ、他愛もない言葉遊びだ。
指が震えた。鉛筆を握りしめ、彼は五線譜に書かれた音符を、一つ一つ星の名に置き換えていった。それは、気の遠くなるような作業だった。しかし、文字列が少しずつ意味を成し始めた時、ケンジは息を呑んだ。これは、単なる歌ではない。これは、死んだはずの母からの、魂の呼び声だった。
***第三章 電波の向こうの真実***
解読は困難を極めた。母と自分だけが知る言葉遊び、思い出の場所、幼い頃の愛称。それら全てが、複雑な換字の鍵となっていた。ケンジは眠る時間も惜しんで、錆びついた記憶の引き出しを一つずつこじ開けていく。そして、数週間後、彼はついにメッセージの全文を解読した。ヘッドフォンを握りしめる彼の目から、涙が止めどなく溢れ落ちた。
『ケンジ、生きていますか。母さんは、ここにいます』
『あの夜、瓦礫の中から助け出され、敵国の捕虜になりました』
『今は、大陸の奥地にある第七収容所の通信施設で働かされています』
『あなたが生きていてくれることだけを信じて。いつか、あのスズランの庭で、もう一度』
ケンジは全身の力が抜けていくのを感じた。憎んでいた敵。全てを奪ったと信じていた、顔のない巨大な悪。その向こう側で、母は生きていた。彼が復讐の刃を研ぎ澄ませている間、母はただひたすらに、息子の生存を祈りながら、危険を冒してこの歌を送り続けていたのだ。
彼の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。憎しみという支柱を失った心は、巨大な空洞になった。今まで彼を突き動かしてきた激情は、どこへ向かえばいいのか。敵は誰なのか。自分が壊そうとしていた世界の中に、自分が守るべき唯一の光があったという事実。その残酷なまでの皮肉に、彼は声を上げて泣くことすらできなかった。
母のメッセージは続いていた。それは、収容所の状況や、監視の緩む時間帯など、脱出を示唆するような情報を含んでいた。母は、ケンジがこの暗号を解読し、救いに来てくれると信じている。
ケンジの目の前に、二つの道が示された。
一つは、この事実を軍に報告する道だ。母は英雄の母として保護されるかもしれない。だが、敵国の重要施設で働いていたという経歴は、彼女にスパイの嫌疑をかけるには十分だった。最悪の場合、彼女は両国間の情報戦の駒として利用され、命を危険に晒すことになるだろう。
もう一つは、全てを胸に秘め、たった一人で母を救い出す道。それは軍律違反であり、発覚すれば銃殺刑は免れない。敵地への潜入は、九死に一生を得るどころか、十死零生の無謀な賭けだ。
ケンジは、解読した羊皮紙を静かに見つめた。そこには、もはや憎しみの対象である敵国の情報ではなく、愛する母親の筆跡にも似た、温かい言葉が並んでいた。彼の目的は、もはや「戦争の勝利」ではありえなかった。
***第四章 夜明けのフーガ***
ケンジは後者の道を選んだ。数日後、彼は置き手紙一つを残して、兵舎から姿を消した。「一身上の都合により、軍を辞す」という、ありきたりな文句だけを残して。彼は脱走兵になった。
彼には計画があった。これまでに解読した膨大な敵国の情報が、彼の頭脳には地図のように刻み込まれている。補給路の脆弱な箇所、国境警備が手薄になる時間帯、現地協力者を見つけられそうな街。憎しみのために蓄積した知識が、今や愛のために使われようとしていた。
敵国への潜入は、想像を絶する過酷な旅だった。昼は森に潜み、夜は星だけを頼りに歩いた。飢えと寒さが容赦なく体力を奪い、何度も死の淵を彷徨った。だが、そのたびに彼の脳裏には「スズランの歌」が鳴り響き、母の顔が浮かんだ。それは、彼にとって何よりも強力な道標だった。
数ヶ月後、ぼろぼろの衣服をまとったケンジは、ついに母がいるという第七収容所が見える丘にたどり着いた。有刺鉄線に囲まれた、灰色の巨大な建物群。そこから、かすかに電波塔が伸びているのが見えた。
その夜、ケンジは震える手で、背負ってきた荷物から自作の簡素な発信機を取り出した。バッテリーは残りわずか。チャンスは一度きりだ。彼は深く息を吸い込むと、電鍵を叩いた。送ったのは、「スズランの歌」の最後のフレーズ。そして、モールス信号で、たった一言。
『むかえにきた』
彼は息を殺して、収容所を見つめた。心臓の音が、まるで警鐘のように耳元で鳴り響く。数分が永遠のように感じられた、その時だった。
収容所の、ある一つの窓に、小さな光が灯った。それはランプの光だった。光は、不規則に、しかし明確な意思を持って点滅を始めた。
一回、長く。そして、短く、三回。
それは、幼い頃、母が彼にだけ教えてくれた合図だった。「大丈夫、ここにいるよ」。夜空の星の瞬きになぞらえた、二人だけの秘密の言葉。
ケンジの頬を、熱いものが伝った。それは三年前の絶望の涙とは違う、温かくて、しょっぱい、生命の味がした。
夜明け前の、紫色の空が白み始めていた。彼はもう、復讐に燃える兵士ではなかった。憎しみのために生きる亡霊でもない。ただ、愛する人を迎えに来た、一人の息子だった。
ケンジは、丘を下り始めた。有刺鉄線の向こう側でまたたく、小さな、しかし何よりも強い光に向かって。彼の歩む先で、どんな運命が待ち受けているのかは分からない。だが、彼の足取りに迷いはなかった。戦争という巨大な狂気が奏でる不協和音の中で、彼は自分だけの、そして母とのための、ささやかな希望のフーガを奏で始めたのだ。その結末がどのような旋律になるのかは、まだ誰にも分からなかった。
星屑のフーガ
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