午後三時七分の時計

午後三時七分の時計

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***第一章 午後三時七分の時計婦人***

斎藤健太の日常は、精密に組まれた機械時計のように正確だった。午前六時半に起床し、豆から挽いたコーヒーを淹れる。その苦味と香りが、眠りの淵に沈んだ意識をクリアに覚醒させる合図だ。七時から三十分間のジョギング。心拍数を常に百三十に保つ。午前中はシステム開発の仕事に没頭し、正午きっかりに、栄養バランスが計算された昼食をとる。彼の人生において、無駄や曖昧さは排除すべきバグのようなものだった。

そんな彼にとって、唯一の例外であり、非合理的な儀式と呼べる習慣があった。
午後二時五十分。彼はラップトップを閉じ、近所の古びた喫茶店「純喫茶カシオペア」へ向かう。焦げ茶色の革張りのソファ、微かに揺れるランプの灯り、壁に掛けられた振り子時計の鈍い音。その空間だけが、彼のデジタルな世界から切り離されているようだった。

健太は決まって窓際の席に座り、アイスコーヒーを注文する。そして待つのだ。
午後三時七分。その時刻になると、店の前の通りを、一人の老婆が必ず東から西へと歩いていく。背筋はしゃんと伸びているが、その歩みはゆっくりと、一歩一歩を確かめるようだ。品の良いツイードのコートを着て、季節によっては淡い色のスカーフを巻いている。健太は彼女を、心の中で「時計婦人」と名付けていた。

彼女の存在は、健太にとって完璧な世界の精度を証明する、生きた証人だった。雨の日も、風の強い日も、灼けつくような夏の日も、彼女は寸分違わず午後三時七分に現れる。その姿を確認すると、健太の胸には奇妙な安堵感が広がった。世界はまだ正常に動いている。俺の日常も、まだ壊れてはいない。そう確信できるのだ。

しかし、その日は違った。
壁の時計が三時七分を指し、カチリ、と微かな音を立てて分針を進めた。健太はカップを持つ手を止め、通りの東の端に視線を固定する。だが、いつもの時間に、いつもの場所に、彼女の姿はなかった。

三時八分。三時九分。時間は無慈悲に過ぎていく。もしかしたら、今日は少し遅れているだけかもしれない。彼はそう自分に言い聞かせたが、心臓のあたりがざわめくのを止められなかった。彼の完璧な世界に、目に見えない亀裂が走る音を聞いた気がした。
三時十五分。コーヒーの氷はすっかり溶けて、テーブルに水の輪を描いていた。それでも時計婦人は現れなかった。
健太の日常という名の歯車が、初めて、音を立てて狂い始めた瞬間だった。

***第二章 狂った歯車と知らない道***

翌日も、時計婦人は現れなかった。その次の日も。
健太の内部で、何かが決定的に変わってしまった。朝のコーヒーはただの苦い液体に感じられ、ジョギング中の心拍数は無意味に乱れた。仕事のコードには凡ミスが頻発し、思考は何度も、あの喫茶店の窓の外へと飛んでしまう。これまで盤石だと思っていた彼のルーティンは、たった一つのピースが欠けただけで、脆くも崩れ始めていた。

三日目の午後、健太はカシオペアの席で、空っぽになったグラスを前に途方に暮れていた。彼女はどこへ行ったのだろう。病気か、あるいは……。そこまで考えて、彼は自分の思考に驚いた。赤の他人の安否を、これほどまでに気にかけている。非合理的だ。時間の無駄だ。そう頭では理解しているのに、胸のざわめきは収まらない。

「あのう、すみません」
気づけば、彼はカウンターの中にいる白髪のマスターに話しかけていた。
「いつもこの時間に通る、ご婦人をご存知ありませんか。背筋の伸びた、上品な……」
マスターは穏やかに目を細めた。「ああ、月島さんのことかね。そういえば、ここ数日お見かけしないねぇ」

月島さん。初めて知るその名前に、健太の心臓が小さく跳ねた。
「どちらの方か、ご存知ですか?」
「さあ……。いつもあっちの、古い住宅街の方から歩いてこられるようだけど」
マスターが指差した先は、健太がジョギングコースにも選ばない、細く入り組んだ路地が続くエリアだった。

翌日、健太は仕事を早めに切り上げ、その古い住宅街へ足を踏み入れた。アスファルトのひび割れから雑草が顔を出し、家々の軒先には色とりどりの植木鉢が並んでいる。彼の住む、無機質なマンション群とはまるで違う、生活の匂いが染みついた世界だった。
彼は途方に暮れた。人付き合いの苦手な自分が、どうやって人を探せばいいのか。しかし、彼を突き動かしているのは、もはや合理性ではなかった。失われた日常のピースを取り戻したいという、切実な渇望だった。
一軒の花屋の店先で、老婆が店主と談笑しているのが目に入った。健太は意を決して近づき、震える声で月島さんのことを尋ねた。
「月島さん?ああ、あそこの角のアパートの二階に住んでるわよ。でも……」
花屋の店主は、何か言いにくそうに口ごもった。その表情に、健太は言いようのない胸騒ぎを覚えた。

***第三章 日記が語る時間の秘密***

教えられたアパートは、壁の塗装がところどころ剥げ落ちた、時間の染みついた建物だった。健太は錆びた階段を上り、「月島」と書かれたプレートの前で深く息を吸い込む。何度か躊躇した後、彼はチャイムを押した。

ドアを開けたのは、健太と同年代くらいの、憔悴した表情の女性だった。
「……どなたでしょうか」
「あの、斎藤と申します。月島さんを、お訪ねしたのですが……」
女性は悲しげに目を伏せた。「私は、美咲と申します。祖母の孫です」彼女はそう言うと、静かに続けた。「祖母は、四日前に亡くなりました。眠るように、安らかに」

健太の頭の中で、何かが砕け散る音がした。時計婦人は、もういない。永遠に。彼が安堵の根拠にしていた正確な時間は、もう二度と訪れない。彼は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。
彼のあまりの落胆ぶりを見たからだろうか、美咲は少し驚いた顔で、「祖母の知り合いの方、でしたか?」と尋ねた。
健太はかろうじて首を横に振った。「いえ……ただ、毎日お見かけしていただけで」

何か奇妙な縁を感じたのかもしれない。美咲は「もしよろしければ、遺品の整理を少しだけ、手伝っていただけませんか」と意外なことを口にした。健太は断る理由を見つけられず、吸い込まれるように部屋の中へ入った。

部屋は、彼女の生きてきた時間そのものだった。使い込まれた家具、壁に飾られたセピア色の写真。健太と美咲は、黙々と衣類や小物を箱に詰めていった。その時、本棚の奥から、革の表紙が擦り切れた一冊の日記帳が落ちた。
「……祖母の日記です」
美咲はそれを手に取ると、パラパラとページをめくり、そしてふと顔を上げて健太を見た。「読んで、みませんか。祖母が、どんな時間を生きてきたのか。あなたのような方が知ってくださるのも、何かの供養になるかもしれません」

健太は戸惑いながらも、その日記帳を受け取った。古びた紙の上を、インクの青が踊っていた。それは、ほとんど毎日、同じような言葉で締めくくられていた。

『今日も、あなたに会いに行きます』

そして、あるページで健太の指が止まった。そこには、彼女の夫が亡くなった日のことが、震えるような文字で記されていた。病室の窓から差す西日、無機質な電子音、そして、医師が告げた時刻。

――午後三時七分。

健太は息をのんだ。日記を読み進めると、全ての謎が氷解した。月島さんの夫は時間を厳守する人で、二人が初めて出会ったのも、この純喫茶カシオペアだったという。夫を亡くして以来、彼女は毎日、夫が旅立ったその時刻に、思い出の場所を訪れることで、彼を偲び、心の中で対話を続けていたのだ。
それは、健太が信奉していた合理性や効率とは、最も遠い場所にある行為だった。無駄で、非生産的で、センチメンタルな儀式。しかし、そこには途方もないほどの愛情と、時間の重みが詰まっていた。
彼が「時計婦人」と呼んで、その正確さに安堵していた行動は、実は、時を失った人が、愛する人のために永遠に捧げ続ける、祈りのような儀式だったのである。健太の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。

***第四章 針の動かない時計***

日記を閉じ、健太はしばらく動けなかった。彼が眺めていたのは、規則正しく歩く老婆ではなかった。それは、深い愛と喪失を抱えながら、一日一度、愛する人の魂に触れるために歩き続けた、一人の人間の壮大な物語だったのだ。
彼は自分の浅はかさを恥じた。そして、その行動の裏にあった途方もない愛情に、胸が締め付けられるのを感じた。

「……僕は、毎日カシオペアからお祖母さんを見ていました」
健太は、ぽつりぽつりと美咲に語り始めた。彼女が自分の日常にとっていかに重要な存在だったか。彼女の正確さが、どれほどの安らぎを与えてくれていたか。
話を聞き終えた美咲は、静かに涙を流していた。「そうでしたか……。祖母は、誰かの心の時計になっていたんですね」。彼女はそう言って、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、亡き祖母のものとどこか似ている気がした。

数週間後、健太は再びカシオペアの窓際の席に座っていた。もう、時計婦人を待つためではない。ただ、彼女が教えてくれた時間の意味を、ゆっくりと味わうために。
彼の日常は変わった。いや、日常そのものは変わらないのかもしれない。しかし、それを受け止める彼の心は、確かに変わっていた。彼は、自分のスケジュール帳に、初めて「目的のない散歩」と書き込んだ。どこへ向かうでもなく、ただ気の向くままに歩く。道端の花に目を留め、風の匂いを感じる。それは、無駄かもしれないが、豊かな時間だった。

壁の振り子時計が、午後三時七分を指した。
それはもう、健太にとって特別な緊張を強いる時刻ではなかった。しかし、その一瞬に込められた、見知らぬ老婆の人生の物語を思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
窓の外を、名も知らぬ人々が流れ過ぎていく。誰もが、それぞれの時間を生き、それぞれの物語を抱えている。健太は、自分の人生という物語も、これからはもっと味わい深く、大切に生きていこうと静かに誓った。

時計婦人という名の針は、もう動かない。しかし彼女が遺した時間の記憶は、健太の中で、そしておそらくはこの世界のどこかで、永遠に時を刻み続けるだろう。彼は空になったカップを見つめ、そっと微笑んだ。世界は、彼が思っていたよりもずっと、優しく、切なく、そして愛おしいもので満ちている。

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