***第一章 ありえない差出人***
片山健太の日常は、精巧に組まれたプログラムのように、規則正しく、そして退屈だった。朝七時に起床し、栄養バランスを謳うシリアルを流し込み、寸分違わぬ時刻の電車で都心のオフィスへ向かう。システムエンジニアである彼の仕事は、画面上の無数の文字列と格闘し、ロジックの綻びを見つけ出すこと。世界はすべて、原因と結果という名のコードで記述されていると信じていた。非科学的なこと、曖昧な感情論は、バグと同じくらい嫌いだった。
その日も、健太は昼休憩の定位置であるオフィスの隅で、無機質なサンドイッチを咀嚼していた。ふと、ポケットのスマートフォンが静かに震える。どうせ仕事の通知だろうと億劫な気持ちで画面を点灯させた彼の目は、次の瞬間、そこに表示された差出人の名前に釘付けになった。
『片山源蔵』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。片山源蔵。それは、半年前、肺癌でこの世を去った彼の祖父の名前だった。
手の震えを無視して、メールを開く。本文は、たった一行。
『金木犀の、いい香りがするな』
健太は思わず窓の外を見た。オフィスビルの眼下には小さな公園があり、一本の金木犀が、夕陽のようなオレンジ色の花をびっしりと咲かせている。窓の隙間から、甘く切ない香りが微かに漂ってきていた。
ありえない。誰かの悪質な悪戯だ。健太はすぐさまそう結論付けた。アドレスを調べようとしたが、それは文字化けしたような、意味不明な文字列の羅列で、特定は不可能だった。彼は苛立ちと共にメールを削除し、仕事に戻った。祖父はパソコンどころか、スマートフォンの操作すらおぼつかない、古風な家具職人だったのだ。死者がメールを送れるはずがない。すべては論理的に説明がつくはずだ。
だが、翌日の夜。実家で夕食をとっていると、再びスマートフォンが震えた。差出人は、またしても『片山源蔵』。
『今日の夕飯はカレーか。福神漬けを忘れるなよ』
健太の目の前の皿には、母親が作ったばかりのカレーライスが湯気を立てていた。そして、その脇には、確かに福神漬けの小鉢が添えられていた。
「……っ」
息を呑む健太に、母親が「どうしたの、健太?」と不思議そうに声をかける。健太は「なんでもない」と短く返し、スマートフォンの画面を伏せた。
偶然だ。これもきっと偶然だ。しかし、彼の心の奥底で、頑なだった論理の壁が、ミシミシと軋む音がしていた。この日から、健太の規則正しい日常は、静かに、しかし確実に侵食され始めたのだった。
***第二章 日常への侵入者***
祖父からのメールは、まるで彼の生活をすぐそばで覗き見しているかのように、毎日続いた。
『寝癖がひどいぞ。鳥の巣だ』
朝、鏡を見て愕然とした日に届いた。
『帰りに雨が降る。傘を持っていけ』
その言葉を無視して駅を出た途端、土砂降りに見舞われた。
『隣の席の佐藤さん、元気がないぞ。声をかけてやれ』
半信半疑で「何かありましたか?」と声をかけると、佐藤さんは驚いた顔の後、堰を切ったように悩みを打ち明けてくれ、最後には「聞いてくれてありがとう」と涙ぐんで感謝された。
健太は混乱していた。システムエラーやハッキングの可能性を徹底的に調査したが、痕跡は一切見つからない。彼の知識では説明がつかない、まるで魔法のような現象だった。恐怖と同時に、健太の心には別の感情が芽生え始めていた。懐かしさ、そして、温かさだ。
メールの文面は、ぶっきらぼうだが優しかった祖父の口調そのものだった。子供の頃、家具工房で木屑の匂いに包まれながら、祖父が語ってくれた様々な話を思い出す。思春期を境に会話が減り、IT業界に進んだ健太を、頑固な職人だった祖父がどう思っていたのか、結局聞けずじまいだった。今になって、激しい後悔が胸を締め付けた。
メールに導かれるように、健太の行動は少しずつ変化していった。
『たまには遠回りして帰れ。面白いものが見つかるぞ』
というメールに促され、いつもと違う道を選んでみた。そこには、子供の頃によく遊んだ、今はもう寂れた公園があった。錆びついたブランコに腰掛けると、砂場の匂い、友達の笑い声、そして「暗くなる前に帰るんだぞ」という祖父の声が、幻のように蘇ってきた。
画面の中のロジックだけを追いかけていた日々。効率と合理性だけを信じていた自分。そんな自分が、いかに狭い世界に生きていたかを、健太は思い知らされていた。無味乾燥だった風景が、祖父の言葉をフィルターに通すことで、豊かな色彩と意味を持ち始める。
健太は、いつしか毎日メールが届くのを心待ちにするようになっていた。それは、死者からの便りという不気味さを超えて、失われた時間を取り戻すかのような、切なくも温かい時間となっていた。
***第三章 時を超えた告白***
ある週末の午後、健太が自室でぼんやりと過ごしていると、決定的な一通が届いた。
『書斎の引き出しにしまってある万年筆、まだ持っているか。あれには、ワシからの秘密が隠してある』
万年筆。健太は息を呑んだ。それは中学の入学祝いに祖父からもらった、ずっしりと重い黒檀の万年筆だった。最初は喜んで使っていたが、やがてインクの補充が面倒になり、いつしか机の引き出しの奥深くにしまい込んでいた。
慌てて引き出しを掻き回し、埃をかぶった桐の箱を見つけ出す。蓋を開けると、そこには記憶の中と変わらない、黒く艶やかな万年筆が鎮座していた。インクはとうに切れている。
「秘密……?」
健太は万年筆を手に取り、光に透かしたり、振ってみたりした。何の変哲もない。しかし、ふと、ペン先の金属部分と軸を繋ぐリングが、僅かに緩んでいることに気がついた。力を込めて捻ってみると、カチリと小さな音を立てて、軸が二つに分かれた。
その瞬間、健太は自分の目を疑った。
インクカートリッジを収めるべき空洞の奥から、ポロリと転がり出てきたのは、爪の先ほどの大きさの、黒いマイクロSDカードだった。
「嘘だろ……」
アナログ人間の象徴のような祖父が、なぜ。健太の心臓が警鐘のように鳴り響く。彼は震える手でSDカードをノートパソコンに差し込んだ。
中には、一つの実行ファイルと、『健太へ』と名付けられたテキストファイルが入っていた。マウスカーソルが震える。意を決して、テキストファイルを開いた。
そこには、祖父の不器用だが、温かい人柄が滲み出るような文章が綴られていた。
『健太へ。
これを読んでいるということは、ワシはもうこの世におらんのだろうな。驚いたか?
お前がコンピューターの道に進むと聞いた時、正直、ワシにはよく分からん世界で、少し寂しかった。ワシの作る椅子や机のように、手で触れられる温かみがないように思えたからだ。
だがな、お前の生きる世界を、ワシも少しは知りたくなったんじゃ。それで、公民館のパソコン教室に通い、こっそりプログラミングというものを勉強してみた。これがなかなか、木を削るのと同じくらい奥が深くて面白くてな。
このSDカードに入っているプログラムは、ワシが作った最後の作品だ。お前が死んだワシのことを思い出して寂しくなった時、少しでも心を軽くできたらと思ってな。
これは、お前のSNSの投稿や、インターネットの検索履歴、スマートフォンの位置情報なんかを、こっそり覗き見させてもらうプログラムじゃ。そして、集めた情報から、ワシが生きていたらお前にかけそうな言葉を推測して、自動でメールを送るように作っておいた。
金木犀の香りも、カレーの夕飯も、お前が友人に送ったメッセージや、ネットで検索したことから、このプログラムが知ったことなんじゃ。ハイテクな、ただの仕掛けだよ。ワシからの、世界で一番やさしいハッキングだ。
お前は、いつだって一人じゃない。ちゃんと前を向いて、お前の信じる道を、まっすぐに生きなさい。
じいちゃんより』
***第四章 青空の解像度***
健太の頬を、熱い雫が次々と伝い落ちた。嗚咽が漏れるのを、止めることができなかった。
怪奇現象でも、魔法でもなかった。すべては、自分の専門分野である、ロジックとコードで出来た仕掛けだったのだ。しかし、その正体は、健太が今まで書いてきたどんなプログラムよりも、遥かに人間的で、温かい愛に満ちていた。
アナログだと思っていた祖父が、自分のために。自分の世界を理解しようと、慣れないキーボードを叩き、モニターと向き合っていた姿を想像すると、胸が張り裂けそうだった。自分こそが、祖父の世界を、その愛情の深さを、理解しようとしていなかった。
非科学的なものを否定し、世界はすべて説明可能だと信じていた。その通りだった。だが、その説明の根底に、こんなにも説明不可能なほど大きな愛が存在することを、健太は知らなかった。
涙が乾いた頃、健太はデスクトップ上の実行ファイルを静かに見つめた。これを削除すれば、祖父からのメールはもう届かなくなる。奇妙な日常は終わり、元の静かな日々が戻ってくるだろう。
しかし、健太はそうしなかった。彼はそっとパソコンを閉じた。これは、祖父が遺してくれた愛情の形見なのだ。祖父そのものではないと分かっていても、この繋がりを、自ら断ち切ることはできなかった。
翌日の昼休み。いつものように、スマートフォンが震えた。差出人は『片山源蔵』。健太は、微笑みながらメールを開く。
『今日はよく晴れたな。たまには空でも見上げてみろ』
健太はゆっくりと立ち上がり、オフィスの大きな窓辺へ歩み寄った。眼下に広がるコンクリートの街並み。そして、その向こうには、どこまでも続く青空が広がっていた。
今まで何度も見てきたはずの空が、その日はまるで違って見えた。一つ一つの雲の形が、光のグラデーションが、驚くほど鮮明に目に映る。まるで、心の解像度が、一段階上がったかのようだった。
空っぽの受信トレイを眺めるだけだった退屈な日常は、もうどこにもない。祖父が時を超えて教えてくれたのは、プログラムのコードではなく、日常という名のテキストに隠された、無数の幸せの見つけ方だった。
健太はポケットにスマートフォンをしまい、深く、深く息を吸い込んだ。その胸に満ちたのは、澄み切った秋の空気と、確かな温もりだった。
世界で一番、やさしいハッキング
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