星屑の観測者

星屑の観測者

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***第一章 星屑の遺稿***

古びた紙の匂いと、陽光に舞う埃。僕、高槻湊(たかつきみなと)の世界は、ここ数年、この古書店「刻(とき)の森」の静寂に満たされていた。背表紙の褪せた本に囲まれ、過ぎ去った時間の中に埋もれるようにして生きるのは、存外に心地が良かった。誰かと深く関わることもなく、ただ静かにページをめくる毎日。それは、五年前、唯一無二の親友だった相葉樹(あいばいつき)を失ってから僕が自らに課した、穏やかで色のない服役期間のようだった。

その日も、僕はカウンターの奥で、値付けの終わった文庫本を棚に収めていた。カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。入ってきたのは、深い皺の刻まれた顔の老人だった。使い込まれたツイードのジャケットを羽織り、その手には黄ばんだ原稿用紙の束が大事そうに抱えられている。

「これを、買い取ってもらえんかのう」

老人は、しわがれた声でそう言うと、原稿用紙をそっとカウンターに置いた。表紙には、万年筆で書かれたであろう、少し癖のある文字でこう記されている。

『星屑の観測者』 著者:相葉樹

心臓が、凍りついた鉄の塊にでもなったかのように、ドクンと重い音を立てた。相葉樹。僕の記憶の中で、夏の太陽のように笑う親友の名前。彼が小説を書いていたなんて、一度も聞いたことがない。ましてや、彼が死んでから五年も経った今、なぜこんなものが?

「これは……どちらで?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
老人は困ったように眉を下げた。「それが、よう覚えとらんのです。数年前に、どこかの公園のベンチに置き忘れられていたのを、つい……。持ち主を探そうにも手がかりがなく、ずっと仕舞い込んでいたのを、先日ふと見つけましてな。故人のものかもしれんと思うと、捨てるに捨てられず」

僕は震える手で原稿を受け取った。紙は湿気を吸って少し波打ち、インクの匂いにかすかな黴の匂いが混じっている。ページをめくる指が、まるで禁忌に触れるかのようにこわばった。

―――『夏の終わりの夜だった。僕と湊は、町の光が届かない丘の上にある、廃墟と化した天文台に忍び込んだ』

一行目を読んだ瞬間、呼吸が止まった。湊。それは僕の名前だ。そして、廃墟の天文台。あれは、高校三年の夏、僕と樹、二人だけの秘密の冒険だった。誰にも話したことのない、星降る夜の記憶。それが、なぜ。樹の筆跡ではない、けれど見覚えのあるようなその文字が、僕を過去へと引きずり込んでいく。これは、一体誰が書いたんだ? 樹の死を取り巻く静かな水面に、一つの原稿が、巨大な謎という名の石を投げ込んだ。

***第二章 錆びついた記憶の鍵***

その日から、僕の平穏な服役期間は終わりを告げた。『星屑の観測者』は、僕の心を蝕む甘い毒となった。仕事の合間も、眠りにつく前の薄闇の中でも、僕は憑かれたように原稿を読みふけった。

物語は、僕の知らない樹の視点で綴られていた。天文台のドームの隙間から覗く星々を見上げながら、彼が何を思っていたのか。いつも冗談ばかり言って僕を笑わせていた彼の、内側に秘められた繊細な感傷。僕が自分の殻に閉じこもっていることを、彼がどれほど心配し、そして僕の持つ何かを信じてくれていたか。

―――『湊は、言葉を探すように空を見ていた。あいつの紡ぐ言葉は、いつも少し不器用で、だけど夜空の星みたいに、静かで確かな光を持っている。いつか、あいつの物語が世界中に届く日が来る。僕が、その最初の読者になるんだ』

インクが滲んだその一文に、僕は息を呑んだ。そうだ、僕は昔、小説家になりたかった。くだらない空想をノートに書き殴っては、それを唯一読んでくれたのが樹だった。「お前の話、面白いよ」と、彼はいつだって本気で言ってくれた。彼のその言葉が、僕にとってどれほどの支えだったか。

樹の死は、あまりに突然の事故だった。彼の不在という巨大な穴が僕の世界に口を開け、僕はその穴に吸い込まれないように、必死で蓋をした。彼との思い出も、彼が信じてくれた僕の夢も、何もかも一緒に。錆びついた蓋の下で、記憶はゆっくりと形を失っていったのだ。

原稿は、僕にとって錆びついた記憶の扉を開ける鍵だった。ページをめくるたびに、忘れかけていた樹の笑顔が、声が、仕草が、鮮やかに蘇る。二人で食べたアイスの味。夏の夕立の匂い。彼の隣で感じた、無敵の全能感。そして、彼を失った時の、世界から色が消え去るような絶望。

僕は、あの老人を探さなければならないと強く思った。この原稿の出所を、もっと詳しく知る必要があった。それは、樹の死の謎を追うような行為ではなく、僕自身が失ってしまった時間を取り戻すための、必死の旅の始まりだった。僕は古書店の店主に事情を話し、数日の休みをもらうと、老人が言っていた「公園」という曖昧な手がかりだけを頼りに、街を彷徨い始めた。

***第三章 観測者の正体***

数日間、僕は市内の公園をしらみつぶしに巡った。手掛かりはほとんどなく、途方に暮れかけた三日目の午後、商店街の外れにある小さな公園のベンチで、見覚えのあるツイードのジャケットを見つけた。老人だった。彼は鳩に餌をやりながら、穏やかな顔で空を見上げていた。

「あの……!」
僕は息を切らしながら彼に駆け寄った。老人は驚いたように僕を見ると、やがて合点がいったように頷いた。
「おお、古本屋の若いの。あの原稿、どうじゃったかな」
「教えてください。本当に、どこでこれを拾ったんですか。何か、他に覚えていませんか。どんな些細なことでもいいんです」

僕の必死の形相に、老人は少し気圧されたようだった。彼はしばらく記憶を辿るように宙を見つめ、やがて申し訳なさそうに口を開いた。

「すまんことじゃが……実は、少し嘘をついた。わしはな、昔、物書きの端くれでな。あの原稿は、公園で拾ったんじゃない。わしが、書いたんじゃ」

「……え?」
理解が追いつかなかった。老人が書いた? では、なぜ著者が相葉樹に?
「いや、正確には違う。わしは、あるノートを元に、物語を書き起こしただけなんじゃ」

老人は語り始めた。数年前、この公園で、彼は一冊の大学ノートを拾ったのだという。中には、物語の断片のような文章が、若々しい文字で書き殴られていた。その文章に心を奪われた老人は、それを一つの小説として完成させようと思い立った。登場人物の名前や細かな設定は、ノートにあった走り書きを元に、彼が肉付けしたものだった。

「そのノートは……」
「ああ、まだ持っとるよ」
老人はジャケットの内ポケットから、くたびれた大学ノートを取り出した。表紙には何も書かれていない。僕は恐る恐るそれを受け取り、ページを開いた。

そこにあったのは、見紛うことなき、僕自身の文字だった。高校時代、授業中にこっそり書き進めていた、あの頃の僕の筆跡。乱雑で、熱に浮かされたような文字の羅列。それは、僕が書いた、樹との思い出の物語だった。

全身の血が逆流するような衝撃に、立っていられなくなりそうだった。そうだ。これは、樹の遺稿なんかじゃない。僕が書き、そして忘れてしまっていた、僕自身の物語だったのだ。樹の死というあまりに強烈な出来事が、僕の記憶に深い断層を作った。僕は、自分の夢も、その夢を応援してくれた親友との約束も、全てをその断層の底に沈めてしまっていた。

『星屑の観測者』。樹は、いつだって僕の物語を待っていてくれた観測者だった。そして僕は、彼という星の輝きを物語る者だった。僕はずっと、その役割を放棄していたのだ。

「すまんかったな。勝手なことをして」老人が謝罪する。
僕は、ゆっくりと首を横に振った。涙が、頬を伝ってノートの表紙に染みを作った。
「いえ……。ありがとうございます。あなたがこれを拾ってくれなかったら、僕は……一生、思い出せないままでした」
失われたはずの時間が、パズルのピースがはまるように、僕の中で再び繋がり始めた。

***第四章 君に捧ぐ物語***

古書店に戻った僕は、カウンターにノートと原稿を並べた。それはもはや謎の遺稿ではなく、僕と樹の友情の証であり、僕が果たすべき約束の形見だった。

全ての記憶が蘇る。事故に遭う数日前、樹は僕の書きかけの原稿を読み、興奮したように言ったのだ。
「なあ、湊。これ、絶対に完成させろよ。完成したら、俺が世界で一番に読んでやるからな」
太陽みたいな笑顔で、彼はそう言った。それが、僕が聞いた彼の最後の言葉の一つだった。僕は、その約束からずっと逃げていた。彼がいない世界で、物語を完成させることの意味を見いだせずに。

でも、今は違う。老人が繋ぎ合わせてくれた物語は、不完全ながらも、確かに僕と樹の時間を刻んでいた。樹は死んだのではない。僕の物語の中で、今も生きている。彼はずっと、僕がペンを取るのを待っていてくれたのだ。

僕は老人に深く頭を下げ、原稿を正式に買い取った。そして、新しい万年筆と、真っ白な原稿用紙の束を買って、自室の机に向かった。

内向的で、過去という名の古書店に閉じこもっていた僕はもういない。僕は、親友との約束を果たすために、未来へと顔を上げた一人の書き手だ。止まっていた僕の時間が、再び動き出す音がする。

窓の外には、いつの間にか夜の帳が下り、満天の星が瞬いていた。まるで、廃墟の天文台から二人で見上げた、あの夜のように。僕は一つ、大きく深呼吸をして、ペンを握る。インクが紙に染み込む、心地よい感触。

「見てるか、樹」

心の中で、一番の読者に語りかける。

「お前との話の続きだ。今度こそ、最高の物語を書いてみせるよ」

僕の部屋の小さな窓から、星屑の観測者が見守っている。これから始まる物語は、僕から彼に捧げる、永遠の友情の詩だ。その最初の一行を、僕は静かに、しかし確かな力で、紙の上に記し始めた。

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