***第一章 残響のシャッター***
潮の香りが、錆びた鉄の匂いと混じり合って鼻腔をくすぐる。僕、水島蓮の手には、愛用のデジタルカメラが冷たく重い。ファインダーの向こうでは、大学生活で唯一無二の親友、橘陽介が防波堤の縁に立って、悪戯っぽく笑っていた。
「蓮、最後の卒業旅行、最高の締めくくりにしようぜ」
陽介の声は、春の気配をはらんだ風に乗って、心地よく耳に届く。僕とは正反対。太陽のように明るく、誰からも愛される陽介。人付き合いが苦手で、いつも一歩引いて世界を眺めているだけの僕を、光の中へ引っ張り出してくれた、たった一人の存在。
「で、最後の締めくくりって?」
僕が尋ねると、陽介は振り返り、岬の先端に立つ、白亜の古い灯台を指差した。夕陽を浴びて、そのシルエットが鮮やかなオレンジ色に染まっている。
「あそこだ。あの灯台の下で、俺を撮ってほしい。俺の人生最高の傑作を、お前の手でさ」
その言葉には、いつもの軽やかさとは違う、どこか切実な響きがあった。僕たちは灯台へと続く石畳の坂道を登った。背後からは、寄せては返す波の音が、まるで世界の心音のように聞こえていた。
灯台の真下に立った陽介は、夕陽を背負い、満足げな表情で僕を見た。僕はカメラを構え、ファイン-ダーを覗く。逆光で陽介の表情は影になっていたが、その口元が優しく微笑んだのが分かった。彼が望んだ「人生最高の傑作」。その期待に応えたい一心で、僕は慎重にピントを合わせ、息を止めた。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、静寂に響き渡った。
「撮れたよ」
僕がカメラから顔を上げ、そう告げた瞬間、世界から音が消えた。そこに、陽介の姿はなかった。
「……陽介?」
幻でも見ているのかと思った。瞬きを繰り返し、何度もその場所を見つめる。しかし、数秒前まで確かにそこにいたはずの親友の姿は、陽の光が描く長い影の中に溶けてしまったかのように、どこにもない。
防波堤を見下ろしても、崖の下を覗き込んでも、彼の姿はない。叫んでも、返ってくるのは虚しい風の音だけ。パニックに陥った僕の視界に、陽介が立っていた場所にぽつんと置かれた、見慣れたカメラバッグが映った。
震える手でバッグを開けると、中には僕の知らない古いフィルムカメラと、一通の封筒が入っていた。封を開くと、そこには陽介の、見慣れた少し癖のある文字が並んでいた。
『蓮へ。驚かせちまったかな。
この旅は、お前に託したいことがあって計画した。このフィルムカメラには、36枚撮りのフィルムが入ってる。このフィルムを全部使い切って、僕がいた証を撮ってくれ。
僕たちの思い出の場所を巡るんだ。そうすれば、お前ならきっと見つけられる。
フィルムをすべて撮り終えた時、本当のことがわかる。じゃあな、最高の親友。』
手紙は、それだけで終わっていた。意味が分からない。これは、陽介が仕掛けた手の込んだ悪戯なのか? それとも、これは、僕の人生を根底から覆す、残酷な何かの始まりなのだろうか。夕陽はほとんど沈みかけ、世界は深い青色に包まれ始めていた。僕は、陽介の温もりが残るフィルムカメラを、ただ強く握りしめることしかできなかった。
***第二章 色褪せたフィルムの旅路***
陽介が消えてから三日が経った。警察に届け出たものの、「家出の可能性が高い」と判断され、本格的な捜査は遅々として進まなかった。残された僕は、陽介の謎めいた手紙を唯一の道標に、古いフィルムカメラを首から下げていた。
『僕たちの思い出の場所を巡るんだ』
その言葉だけが、僕を突き動かす原動力だった。フィルムのカウンターは「36」を示している。最初の一枚は、どこで撮るべきか。僕は目を閉じ、陽介との記憶の奔流に身を任せた。
最初に訪れたのは、大学の裏手にある、桜並木の続く小さな川辺だった。入学したての頃、誰とも馴染めず孤立していた僕に、陽介が初めて声をかけてくれた場所だ。
「お前、面白い写真撮るな。世界がちょっとだけ歪んで見える感じがいい」
そう言って、僕の撮った写真のデータを覗き込んできたのが、彼との出会いだった。
僕は、あの時と同じ場所に立ち、誰もいない川辺にカメラを向けた。ファインダー越しに見える風景は、あの頃と何も変わらない。けれど、隣で笑う君がいないだけで、世界はこんなにも色褪せて見える。僕は静かにシャッターを切った。フィルムが巻き上げられる微かな音が、やけに寂しく響いた。
二枚目、三枚目と、僕は陽介との記憶を辿る旅を続けた。二人で徹夜で課題に取り組んだ薄暗い部室。僕が初めてコンテストで落選し、悔し涙を流した公園のベンチ。何でもない放課後、ただ駄弁りながら眺めた夕焼けの見える屋上。
フィルムカメラは、デジタルのように撮り直しがきかない。一回のシャッターに、すべての思いを込めなければならない。僕は、陽介との時間を反芻するように、一つ一つの場所に真剣に向き合った。陽介は、いつも僕の世界を広げようとしてくれた。内側に閉じこもる僕の手を、強引に引いて外へと連れ出してくれた。僕が一人で見つめていたモノクロの世界に、彼が鮮やかな色彩を与えてくれていたのだ。
写真を撮るたびに、陽介の不在が胸に深く突き刺さる。けれど同時に、僕の中に彼との記憶が、より鮮明に、より温かく蘇ってくるのを感じていた。この旅は、陽介を探す旅であると同時に、僕が陽介という人間と、彼がくれた友情の意味を、改めて見つめ直すための時間になっていた。
フィルムの残りは、あと一枚。手紙に具体的な場所のヒントはもうない。僕は考えを巡らせた。陽介が最後に撮ってほしいと願う場所は、どこだろう。そして、僕は一つの結論に辿り着いた。それは、僕たちの原点とも言える、あの場所だった。
***第三章 ファインダー越しの真実***
最後の撮影場所に選んだのは、僕たちが初めてまともに言葉を交わした、大学近くの古いバス停だった。土砂降りの入学式の日、ずぶ濡れで雨宿りをしていた僕に、陽介がタオルを差し出してくれた。「風邪ひくぞ」とぶっきらぼうに言った彼の横顔を、今でもはっきりと覚えている。
バス停の錆びたベンチ、色褪せた時刻表。すべてがあの日のままだ。僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。雨粒の跡が残る窓ガラスの向こうに、あの日の僕たちの幻が見えるような気がした。これが、最後の一枚。このシャッターを切れば、陽介の言う「本当のこと」がわかる。期待と不安が入り混じった奇妙な高揚感の中、僕は指先に力を込めた。
カシャッ。
36枚目のシャッター音が、やけに大きく辺りに響いた。その直後、背後から静かな声がした。
「……やっと、全部撮り終えたのね」
振り返ると、そこに立っていたのは、陽介の姉である美咲さんだった。彼女の瞳は、どこか悲しげに潤んでいるように見えた。
「美咲さん……どうしてここに?」
「陽介に頼まれてたの。あなたが最後の写真を撮り終えたら、これを渡してほしいって」
そう言って彼女が差し出したのは、もう一通の封筒だった。陽介が失踪した日に見たものとは違う、少し厚みのある封筒。僕がそれを受け取ると、美咲さんは、堰を切ったように真実を語り始めた。
「ごめんなさい、蓮くん。あなたを騙すようなことになって……。陽介は、失踪したんじゃないの。あの子は……もう、この世にいないのよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。言葉の意味を、脳が理解することを拒否する。
「陽介は、半年前から、病気と闘ってた。進行性の難病で……卒業式を迎えられるかどうかも、わからないって、お医者様に言われてたの。あの子、最後まであなたには言わなかった。悲しい顔をさせたくないって。自分のせいで、蓮くんの未来を曇らせたくないって……」
陽介が仕組んだこの「失踪劇」は、すべて僕のためだったのだという。彼がいなくなった後、僕が塞ぎ込んでしまわないように。思い出の場所を巡ることで、陽介との繋がりを再確認し、それを糧に、一人でも前を向いて歩いていける強さを身につけてほしかった。それが、彼が僕に遺した、最後の、そして最大の贈り物だったのだ。
陽介は、卒業旅行から帰った数日後、静かに息を引き取ったのだと美咲さんは教えてくれた。僕が陽介を探して思い出の地を巡っている間、彼はもう、遠い場所に旅立ってしまっていたのだ。
僕はその場に崩れ落ちた。涙が止まらなかった。騙されていたことへの怒りなど微塵もない。そこにあったのは、親友のあまりにも深く、そして残酷な優しさに対する、どうしようもない悲しみと、感謝の気持ちだった。僕は、陽介から渡された二通目の手紙を、震える手で開いた。
***第四章 君のいない世界で***
『蓮へ。この手紙を読んでるってことは、お前はちゃんと旅を終えたんだな。さすが、俺の最高の親友だ。
ごめんな。嘘をついて。でも、俺はお前に涙じゃなくて、笑顔でいてほしかった。俺が死んだ後も、お前が自分の足で、ちゃんと世界を歩いていってほしかったんだ。
お前と出会ってからの四年間は、俺の人生の宝物だ。お前がいたから、俺の世界も面白くなった。だから、今度はお前が、お前の世界を面白くする番だ。
俺がいなくても、お前は一人じゃない。お前が撮った36枚の写真の中に、俺はいつでもいる。ファインダー越しに見た景色のどこかに、俺の笑い声が聞こえるはずだ。
だから、笑って生きてくれ。俺の分まで、たくさんの美しいものを見て、写真を撮り続けてくれ。
ありがとう、蓮。最高の写真を、撮ってくれて。』
手紙を読み終えた時、僕の涙は不思議と乾いていた。心に空いた穴が塞がったわけではない。陽介を失った悲しみは、きっと一生消えることはないだろう。けれど、その穴には、陽介が遺してくれた温かい光が満ちていた。
数日後、僕は現像し終えた36枚の写真を、部屋の床に広げた。桜並木の川辺、部室、公園のベンチ、屋上、そして最後のバス停。そこに陽介の姿は写っていない。当たり前だ。でも、僕の目には、どの写真にも彼の笑顔が、彼の声が、確かに見え、聞こえるような気がした。彼は、物理的にはいなくなってしまったけれど、僕の心の中で、僕が撮った写真の中で、永遠に生き続けるのだ。
僕は、陽介が遺したフィルムカメラを手に、再び外に出た。以前のように俯き、世界の片隅で息を潜めるのではない。しっかりと前を向き、胸を張って。
公園を歩いていると、小さな子供を連れた若い母親に声をかけられた。
「すみません、シャッターを押していただけませんか?」
以前の僕なら、戸惑い、うまく断っていただろう。でも、僕は陽介の顔を思い浮かべ、自然に微笑んでいた。
「ええ、いいですよ」
僕はカメラを受け取り、ファインダーを覗き込む。そこには、幸せそうに笑う親子の姿があった。陽介が僕にしてくれたように、僕も誰かの世界と繋がり、その一瞬を切り取ることができる。
カシャッ。
優しいシャッター音が青空に響いた。陽介、聞こえるか。君がくれたこのファインダー越しに、世界はこんなにも美しく、愛おしいよ。僕はこれからも、撮り続ける。君がいた、そして君のいない、この素晴らしい世界を。
残響のファインダー
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