最後の頁をめくる前に

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***第一章 雨宿りの栞***

神保町の古書店「刻(とき)の森」の空気は、インクと古い紙の匂いが静かに混ざり合ってできていた。俺、水無月蒼(みなづきあおい)は、その森の番人のように、埃よけのマスク越しに深呼吸をする。背の高い書架の迷宮に差し込む西日が、無数の塵を金色にきらめかせていた。三年前、すべてを投げ出してこの場所に流れ着いてから、俺の世界は止まったままだ。

その日、店のドアベルがちりんと乾いた音を立てた。梅雨の晴れ間を性急に遮るように、灰色の雲が空を覆い始めた午後だった。入ってきたのは、白いワンピースが眩しい少女だった。年の頃は俺と同じくらいか、少し下だろうか。湿気を含んだ黒髪が、彼女の白い首筋に張り付いている。
「いらっしゃいませ」
いつものように低い声で言うと、彼女は書架には目もくれず、まっすぐにカウンターの俺へと歩み寄ってきた。そして、まるで長年の友人に再会したかのように、ふわりと微笑んだ。
「やっと会えました。水無月蒼さん」
俺は驚きで言葉を失った。名乗った覚えはない。この店で働き始めてから、俺は誰とも深く関わっていない。彼女はいったい誰だ。訝しむ俺の視線を受け止めて、彼女は「葉月陽菜(はづきひな)です」と名乗った。
「あの、どちら様で……?」
「未来から、あなたに会いに来たんです」
陽菜は、悪戯っぽく片目をつむいだ。冗談か、あるいは何かの勧誘か。俺は警戒心を解かずに黙り込んだ。すると彼女は、くすくすと笑って続けた。
「信じられませんよね。じゃあ、予言を一つ。あと三十秒くらいで、そこの棚の一番上から、夏目漱石の『こころ』が落ちます。猫が、裏口から入り込んでくるから」
馬鹿馬鹿しい。そう思った瞬間、店の奥から「にゃあ」という小さな鳴き声が聞こえた。黒い影が走り抜け、書架に飛び乗る気配。その振動で、陽菜が指差した場所から、一冊の文庫本がことりと床に落ちた。古びた表紙には、確かに『こころ』と書かれていた。

呆然とする俺に、彼女は「ね?」と微笑む。その日から、俺の止まっていた時間が、ぎしりと音を立てて動き始めた。陽菜は、まるで雨宿りをするように、俺の日常にふらりと入り込んできたのだった。

***第二章 時を忘れる珈琲***

陽菜は、それから毎日のように店に顔を出した。彼女の言う「未来の記憶」は、些細なことばかりだった。明日の天気、店に来る客の特徴、珈琲豆のセール情報。だが、そのすべてが寸分違わず現実になる。俺はいつしか、彼女のその不思議な力を、当たり前のこととして受け入れていた。

「どうして、未来がわかるんだ?」
ある雨の日、二人で近くの喫茶店の窓際に座り、湯気の立つ珈琲を啜りながら尋ねた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、心地よいBGMになっている。
「わかる、というより、思い出す、に近いんです。明日や明後日の出来事が、昨日のことみたいに、記憶として不意に浮かんでくる。だから、今を生きるのが、ちょっと下手なんです」
陽菜はそう言って、寂しそうに笑った。その笑顔に、胸がちくりと痛んだ。彼女は、楽しい未来を思い出すのと同じくらい、悲しい未来も見てしまうのだという。だから、何かに夢中になったり、誰かを深く好きになったりするのが怖いのだと。
「それでも、俺は君と一緒にいたい」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口からこぼれた。陽菜は目を見開き、ゆっくりと瞬きをする。その濡れた長い睫毛が、まるで蝶の羽ばたきのようだった。
「どうして……? 私と一緒にいても、きっと未来に傷つくだけですよ」
「未来がどうかなんて、どうでもいい。俺は、今、君とこうして珈琲を飲んでいる時間が大切なんだ。君が未来を憂うなら、俺が君の『今』を守る。それじゃ、だめか?」
俺の言葉に、陽菜の瞳からぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちた。それは珈琲カップの中に吸い込まれ、小さな波紋を描いて消えた。彼女は、泣きながら、初めて心の底から笑ったように見えた。

この頃の俺は、知らなかったのだ。俺たちが積み重ねていたこの温かい「今」が、巧みに仕組まれた、悲しい物語の序章に過ぎないということを。

***第三章 偽りのデジャヴ***

季節は夏を迎え、蝉の声が降り注ぐようになっていた。陽菜と過ごす日々は、色褪せていた俺の世界に鮮やかな色彩を取り戻してくれた。このまま、時が続けばいい。本気でそう願っていた。

その日、陽菜はいつもの笑顔を消して、店の前に立っていた。何かを覚悟したような、硬い表情だった。
「蒼さん。もう、会うのはやめにしましょう」
蝉時雨が、一瞬遠くなった気がした。心臓が冷たい手で掴まれたようだ。
「どうして……何か、嫌な未来でも見えたのか?」
「はい」
彼女は短く頷いた。「あなたを、深く傷つけてしまう未来が見えました。私と一緒にいると、あなたは不幸になる。だから、これでおしまい」
納得できるはずがない。俺は彼女の腕を掴んだ。「そんな理由で、終わりになんてできるか! 君が見た未来がどんなものでも、俺は構わない!」
「駄目なんです!」
陽菜は叫ぶように言った。その瞳は悲痛に歪んでいる。「だって、全部……全部、嘘だったから」
「嘘……?」
「未来の記憶なんて、私には見えません」
彼女は堰を切ったように、衝撃的な真実を語り始めた。
「私が知っていたのは、未来じゃなくて、物語の筋書きなんです。……三年前、事故で亡くなったあなたの恋人、小説家だった雨宮栞(あまみやしおり)さんの、未完の小説の」
雨宮、栞――。その名前を聞いた瞬間、俺の全身の血が逆流するような感覚に襲われた。心の奥底に鍵をかけて、固く封じ込めていた名前。俺が、この古書店に逃げ込む原因になった、喪失の記憶そのものだった。
「栞は、私の姉です」
陽菜は続けた。「姉が遺したパソコンの中に、書きかけの小説がありました。主人公は、古書店で働く、あなたによく似た男性。そして、彼の前に不思議な少女が現れる……。私は、姉がどんな想いであなたと過ごし、この物語をどう終わらせようとしていたのか知りたかった。だから、小説のプロット通りに、あなたの前に現れたんです。予言が当たったのも、全部、姉がそう書き遺していたから……」

頭を鈍器で殴られたような衝撃。俺が感じていたデジャヴも、陽菜との間に流れる不思議な空気も、すべては栞が描いた物語の再現だったというのか。俺が愛しいと感じていたこの時間は、過去の幻影をなぞるだけの、偽りの時間だったのか。

「小説の結末は、どうなっているんだ……?」
かろうじて絞り出した声に、陽菜は顔を伏せたまま答えた。
「主人公は、すべてを知って絶望し、心を閉ざしてしまう。……だから、もう終わりにしないと。姉の書いた通りの、不幸な結末になってしまうから」
陽菜はそう言って俺の手を振りほどき、人混みの中へ駆け出して行った。俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

***第四章 君と紡ぐエピローグ***

陽菜が去ってから数日、俺は抜け殻のようだった。「刻の森」の時間は、再びぴたりと止まった。いや、三年前よりもっと重く、冷たく凍りついていた。栞への想い。陽菜への想い。偽物だったはずの時間。それらが混ざり合い、俺を責め立てる。

そんな俺の元に、一冊のノートが届けられた。陽菜からだった。添えられた手紙には「これが、姉の小説の、すべてです」とだけ書かれていた。
俺は震える手で、そのノートを開いた。そこには、栞の、見慣れた優しい文字が並んでいた。物語は、陽菜が言った通りに進んでいく。俺と彼女が過ごした時間、交わした言葉が、そこには記録されていた。胸が張り裂けそうだった。

そして、最後のページにたどり着く。陽菜が言っていた「不幸な結末」が書かれているはずの場所だ。
しかし、そこに書かれていた言葉は、俺の予想を完全に裏切るものだった。

『彼は、過去の幻影ではなく、目の前にいる彼女自身を愛していたのだと気づく。彼は少女に告げる。「君が誰の代わりであろうと構わない。僕たちの物語を、ここから始めよう」と。二人は手を取り、未来へ歩き出す。過去の悲しみもすべて、新しい物語のプロローグに変えて――』

そこで、物語は途切れていた。
不幸な結末など、どこにもなかった。あったのは、絶望の淵から立ち上がり、未来を掴もうとする主人公の姿と、彼への幸せを願う、栞の祈りにも似た想いだけだった。陽菜は、俺を傷つけまいとして、嘘をついたのだ。自らが悪者になることで、この物語を終わらせようとしたのだ。

俺は、ノートを抱きしめて泣いた。栞が遺してくれたのは、呪いではなく、祝福だった。そして、俺が愛したのは、栞の面影を纏った陽菜ではない。姉の物語を必死に生き、俺を傷つけまいと嘘をつき、一人で去っていった、不器用で、優しい、葉月陽菜という一人の女性なのだ。
そう確信した瞬間、俺は店を飛び出していた。

陽菜を見つけたのは、姉との思い出の場所だという、海が見える公園のベンチだった。
「陽菜!」
俺の声に、彼女は驚いて振り返る。その瞳は、また涙で濡れていた。
「どうして……」
「読んだよ、小説。結末が、全然違ったじゃないか」
俺は息を切らしながら、彼女の隣に座った。「君は、栞さんが遺してくれた物語を、勝手にバッドエンドにしようとした」
「だって……」
「ありがとう、陽菜。君が来てくれなかったら、俺はずっと過去に囚われたままだった。栞さんの想いにも、気づけなかった」
俺は陽菜の手を、今度は強く、決して離さないように握った。
「小説は、あそこで終わっていた。でも、俺たちの時間はまだ続いている。だから、陽菜。栞さんが書けなかったこの物語の続きを、エピローグを、俺と一緒に紡いでいってくれないか」

陽菜の瞳から、再び涙が溢れ出した。しかしそれは、悲しみの涙ではなかった。夕陽が海を金色に染める中、彼女は、何度も、何度も、小さく頷いた。

俺たちの手の中には、まだ何も書かれていない、未来という名の真っ白なページが広がっている。どんな物語になるかは、誰にもわからない。けれど、二人でなら、きっと、栞が願った以上の結末を描けるはずだ。最後の頁をめくるのは、まだずっと、ずっと先の話だ。

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