「数字は嘘をつきません。感情論は経営の妨げになるだけです」
霧島玲奈は、ガラス張りの会議室で冷ややかに言い放った。彼女の言葉に、買収された老舗花屋『フルール・ソレイユ』の元オーナーは俯く。怜悧な美貌と完璧な仕事ぶりから、社内で彼女は『氷の女王』と呼ばれていた。感情という非効率なものを切り捨て、ロジックと数字だけで世界を構築する。それが玲奈の信条だった。
再建担当者として送り込まれた花屋は、玲奈の価値観とは正反対の世界だった。非効率な手作業、曖昧な在庫管理、そして何より、利益度外視で客の身の上話に付き合う店主・橘陽向(たちばな ひなた)。
「花は、人の心に寄り添うものですから」
人の良さそうな笑顔でそう言う陽向に、玲奈は内心で舌打ちした。彼の作る花束は、確かに息を呑むほど美しかったが、それはビジネスの評価軸には入らない。
玲奈は、その日から『フルール・ソレイユ』の改革に乗り出した。在庫管理システムを導入し、客単価の低いアレンジメントを廃止。予約はオンラインに一本化した。陽向は戸惑いながらも、文句一つ言わずに玲奈の指示に従った。その素直さが、逆に玲奈を苛立たせた。
だが、変化は玲奈の中にも静かに訪れていた。陽向が常連の老婦人のために、メニューから消したはずの小さなブーケをこっそり作っているのを見た時。彼が仕入れたばかりの珍しい青い薔薇について、子供のように目を輝かせて語るのを聞いた時。無機質であるはずの玲奈の世界に、ほんの少しずつ色が滲み始めるような、奇妙な感覚だった。
その頃、街では謎のストリートアートが話題になっていた。殺風景な工事現場の壁や、薄汚れた路地裏に、一夜にして現れる色鮮やかな花のグラフィティ。作者は正体不明で、人々は敬意を込めて『フローリスト』と呼んだ。玲奈も、通勤途中に見つけたそのアートに、思わず足を止めていた。コンクリートの灰色を打ち破るような生命力。それは、陽向が作る花束に通じる何かを感じさせた。
嵐の予報が出ていた金曜の夜。残業を終えた玲奈は、近道のために普段は通らない路地裏へと足を踏み入れた。雨粒がアスファルトを叩き始める。その時、彼女は見てしまった。壁に向き合い、スプレー缶を巧みに操る人影を。フードを目深に被っているが、そのシルエットには見覚えがあった。
『フローリスト』の犯行現場。好奇心が恐怖を上回り、玲奈は息を殺して近づく。描き出されているのは、凛とした一輪の白いカラーの花。その傍らには、彼女の会社のロゴが小さく添えられていた。
風が吹き、フードが翻る。現れた横顔に、玲奈は息を呑んだ。
「橘さん……?」
そこにいたのは、店ではおっとりとした笑顔を絶やさない、あの橘陽向だった。いつもとは別人のような、鋭く真剣な眼差し。雨に濡れるのも構わず、彼は作品を仕上げていく。
「どうして……あなたが」
驚きで声が震える。陽向はゆっくりと玲奈を振り返ると、少し困ったように笑った。
「びっくりさせましたか? 街の景色が、少し寂しいなと思って。花屋にできることって、店の中だけじゃないでしょう?」
その言葉は、玲奈の心を強く揺さぶった。効率。数字。ロジック。彼女が築き上げてきた完璧な無彩色の世界が、ガラガラと音を立てて崩れていく。彼のやっていることは非合法的で、非生産的だ。それなのに、どうしようもなく、美しかった。彼の指先から生まれる鮮やかな色彩が、乾ききっていたはずの自分の心まで染め上げていく。
「あなたのせいよ」
玲奈は、自分でも驚くほどか細い声で呟いた。
「あなたのせいで、私の世界の彩度が、おかしくなってしまった」
陽向はスプレー缶を置くと、静かに玲奈に歩み寄った。そして、まるで傷つきやすい花に触れるかのように、そっと彼女の頬に手を伸ばす。
「だったら、もっとカラフルにしてあげます。霧島さん。あなたの世界を」
雨音に混じって、玲那の鼓動が大きく鳴り響いた。
週明け、玲奈が会社に提出した報告書のタイトルは変わっていた。『フルール・ソレイユの企業価値最大化について――感情的価値の定量化とその応用』。
その日の午後、玲奈は花屋を訪れた。
「橘さん。私に、花束を作って」
それは業務命令ではない、個人的な依頼だった。
陽向は黙って頷くと、迷いのない手つきで花を選び始めた。完成した花束は、凛とした白いカラーを中心に、その内側に燃えるような赤い薔薇が隠れるように配置されていた。
「これが、僕に見えるあなたです」
花束を受け取った玲奈は、初めて彼の前で、心の底からの笑みを浮かべた。
「ありがとう。……ねえ、今度、あなたの『アトリエ』にも連れて行ってくれない?」
無彩色の女王は、もういない。一人の男がもたらした鮮やかな色彩によって、彼女の世界は、今、新しい物語を紡ぎ始めようとしていた。
無彩色の彼女を染める方法
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