市立図書館の司書である水野栞にとって、返却された本は小さな旅を終えた帰還兵のようだった。栞の仕事は、その兵士たちの傷を癒し、再び次の旅へと送り出すこと。ページの隅の折り目(ドッグイヤー)をそっと伸ばし、挟まったままのレシートを抜き取り、たまに現れるコーヒーの染みには、やれやれと溜息をつく。
その日、栞の手に戻ってきたのは、天文学の入門書だった。パラパラとページをめくって状態を確認していると、一枚の付箋がひらりと舞い落ちた。栞はそれを拾い上げ、首を傾げる。忘れ物だろうか。しかし、そこに書かれていたのは、忘れ物らしからぬ奇妙な一文だった。
『次の君へ。この街で、一番星に近い場所を探してほしい』
丁寧だが、少し癖のある男性的な文字。栞は戸惑った。悪質ないたずらかもしれない。司書としては、速やかに処分すべきだろう。だが、「次の君へ」という呼びかけが、まるで自分に宛てられた秘密の手紙のように思えて、栞の胸を小さくざわめかせた。退屈な日々に投じられた、小さな謎の石。波紋は、静かに、しかし確実に広がっていく。
数日悩んだ末、栞は衝動に抗えなかった。休日の午後、彼女はスニーカーの紐を固く結び、街で一番高い場所、潮風の丘公園へと向かった。頂上から見下ろす街並みと、どこまでも続く青い海。手を伸ばせば、本当に星に届きそうだ。
栞は小さなメモ用紙に、震える手で返事を書いた。『潮風の丘公園の展望台。夜になれば、きっとたくさんの星が降ってきます』。そして、あの天文学の入門書の同じページに、そっと挟み込んだ。心臓が早鐘を打っていた。誰にも言えない、秘密の共犯になった気分だった。
それから、不思議な文通が始まった。本は数日後に貸し出され、また栞の元へ戻ってくる。付箋の指令は、いつも栞を新しい冒険へと誘った。
『ありがとう。光のシャワーみたいだった。次は、この街で一番おいしいコロッケを売る店を』
栞は、揚げたての匂いを頼りに精肉店を三軒はしごした。
『猫舌には危険な熱さだったよ。じゃあ、雨の日にだけ現れる、秘密の川はどこにある?』
栞は、ずぶ濡れになりながら、アスファルトの窪みにできた大きな水たまりが、街灯を映して銀河のようにきらめく路地裏を見つけ出した。
顔も名前も知らない相手。けれど、栞は彼の感性が好きになっていた。彼の言葉は、栞が当たり前だと思っていた日常の風景を、特別なものに変えてくれた。彼はいったい、どんな人なのだろう。優しくて、物知りで、少しロマンチストな、素敵な人に違いない。
ある雨の日。貸出カウンターに、例の天文学の入門書が差し出された。栞は、胸を高鳴らせながら顔を上げる。そこに立っていたのは、黒崎蓮だった。
栞の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。
黒崎蓮。いつも黒い服を着ていて、無愛想で、本を少し乱暴に扱う、要注意人物リストの筆頭。栞が内心「黒の魔王」と呼んでいる男。彼が、あの付箋の主? 嘘だ。栞の抱いていた甘い幻想は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「……何か?」
怪訝そうに眉をひそめる黒崎に、栞は慌てて「いえ、なんでも」と笑顔を取り繕い、貸出手続きを済ませた。もう、やめよう。こんな馬鹿げた遊びは。
数日後、返却棚に置かれた本を、栞は無視しようとした。けれど、見えてしまったのだ。挟まれた付箋の角を。意思に反して、指がそれを引き抜いてしまう。
『君が見つけてくれた場所は、どれも僕が忘れていた宝物だった。ありがとう。もしよければ、最後に一つだけ。君がこの街で一番好きな場所で、会えないだろうか』
栞は唇を噛んだ。黒崎蓮。あの無愛想な男。けれど、あの付箋を書いたのも、紛れもなく彼なのだ。栞は気づいていた。自分が惹かれていたのは、想像上の王子様ではない。日常に隠された宝物を、一緒に探してくれる、その人の心そのものだったのだと。
栞は、新しい付箋に短い言葉を綴った。
『閉館後の図書館。西の窓から夕日が見える、七番書架の前で』
閉館時間を過ぎ、シンと静まり返った図書館。栞は、自分が指定した場所で、窓の外が茜色に染まっていくのを眺めていた。やがて、ゆっくりとした足音が近づいてくる。現れたのは、やはり黒崎だった。いつもの黒い服だが、その表情は硬く、緊張しているのが見て取れた。
「……やっぱり、君だったんだな。水野さん」
絞り出すような声だった。
「あなたの見つける世界は、いつも優しくて、温かかった。俺は……仕事で行き詰まって、この街の何もかもが色褪せて見えていた。誰かに、もう一度、この街の輝きを教えてほしかったんだ」
不器用な彼の告白。ぶっきらぼうな態度は、人付き合いが苦手な彼の、精一杯の鎧だったのかもしれない。
「あなたの指令、いつもワクワクしました」栞は微笑んだ。「まるで、冒険の地図みたいで」
「そうか」黒崎は少しだけ表情を和らげ、おずおずと口を開いた。「なら、次の指令だ」
栞が首を傾げると、彼は夕日に照らされた顔を真っ赤にしながら、言った。
「俺と、次の宝物を探しに行ってほしい。二人で」
それは、今までで一番、難しくて、最高の指令だった。
栞は、満点の笑顔で頷く。七番書架から始まったミステリーレターは、今、新しい物語の最初のページを開こうとしていた。
七番書架のミステリーレター
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