「迷惑メール、か」
柏木美桜は、スマホの画面に表示された奇妙な一文を眺めながら、ため息交じりに呟いた。送信元は見知らぬランダムな文字列。件名は『三十七歳のあなたより』。そして本文には、たった一行。
『企画部の長谷川蓮とだけは、決して関わらないで』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。長谷川蓮。それは、美桜がこの二年間、密かに想いを寄せている相手の名前だったからだ。
すらりとした長身に、理知的な黒縁メガネ。仕事は常に完璧で、それでいて驕らない。たまに見せる、少し困ったような笑顔に心を撃ち抜かれた同僚は、美桜だけではないはずだ。
彼と関わるな、だなんて。まるで恋の邪魔をする、意地悪な神様のお告げみたいだ。
気味が悪い。美桜はすぐにそのメールを削除した。しかし、悪夢は翌日から始まった。
『彼は危険。信じて』
『忘れたの? 小学校の卒業式、桜の木の下に埋めたタイムカプセルの中身』
『あなたが一番好きだった絵本は『空色ソーダの夏休み』。主人公のチカに自分を重ねてた』
矢継ぎ早に送られてくるメールには、美桜しか知り得ないはずの過去が、恐ろしいほど正確に記されていた。背筋が凍る。これはただの悪戯じゃない。未来の私からの、本物の警告なんだ。
それ以来、美桜は必死に長谷川蓮を避けるようになった。廊下で姿を見れば引き返し、エレベーターで一緒になりそうなら階段を使う。しかし、運命は皮肉なもので、大きなプロジェクトの責任者に彼が、そしてサブ担当に美桜が任命されてしまったのだ。
「よろしく、柏木さん。いいチームにしよう」
会議室で差し出された彼の手を、美桜は一瞬ためらった。握り返したてのひらは、想像していたよりもずっと大きくて、温かかった。その温かさが、未来からの警告を鈍らせていく。
二人きりでの打ち合わせが増えるたび、美桜は蓮の魅力に抗えなくなっていた。彼は、美桜が詰まるところを的確にフォローし、斬新なアイデアを褒めてくれた。「柏木さんの視点は面白いね」と言われた夜は、嬉しくて眠れなかった。
危険な人、だなんて嘘だ。こんなに優しくて、誠実な人が、どうして私を不幸にするっていうの?
未来の私は、何をそんなに後悔しているの?
疑問と恋心が渦を巻いて、美桜を混乱させる。警告を無視してこの想いに身を委ねてしまいたい。でも、怖い。
プロジェクトが佳境に入った金曜の夜。終電を逃し、二人きりでオフィスに残っていた時のことだ。一段落つき、自販機のコーヒーを飲みながら、蓮が不意に切り出した。
「柏木さんってさ、時々、すごく怯えた目で僕を見るよね」
ドキリとして、言葉に詰まる。彼の真っ直ぐな視線が、美桜の心の壁を突き崩そうとしていた。
「何か、僕に言えないことでもある?」
優しい声が、逆に美桜を追い詰める。もう、限界だった。
「あの……信じてもらえないと思うんですけど……」
震える声で、未来からのメールのことを打ち明けようとした、その瞬間。ポケットのスマホが、また不気味に震えた。画面には、見慣れた送信元からの新着通知。
『今すぐそこから離れて! 彼があなたを不幸にする原因は――』
そこまで読んだところで、すっと影が差し、スマホが手から抜き取られた。驚いて顔を上げると、すぐ目の前に蓮が立っていた。彼の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。
「……やっぱり、君にも届いてたんだ」
「え?」
「僕にも来てるんだよ。未来の自分から、メールが」
蓮はそう言うと、苦しそうに顔を歪めた。
「『柏木美桜を全力で守れ。ただし、真実を告げるな』ってね」
頭が真っ白になる美桜に、蓮は自分のスマホ画面を見せた。そこには、美桜に届いていたものとは全く逆の指令が記されていた。
「どういう、こと……?」
「僕の推測だけど」と蓮は続けた。「未来の僕らは、何かとてつもないトラブルに巻き込まれるんだと思う。そして、未来の君は、過去の君を僕から引き離すことで、君自身を守ろうとした。……でも、未来の僕は、それを良しとしなかった」
蓮の目が、熱を帯びて美桜を捉える。
「過去の僕に、君を守らせることを選んだんだ。たとえ、それがどんな未来に繋がるとしても」
二つの未来。二つの食い違うメッセージ。けれど、その根底にある想いは同じ。相手を、大切に想う心。
「未来からの警告は、もうどうでもいい」
蓮は美桜のスマホをテーブルに置くと、もう一度、彼女の手を強く握った。
「僕が知りたいのは、今の君の気持ちだ。未来がどうなるかなんて分からない。でも、僕は君と一緒にいたい。君を不幸にする未来があるなら、二人で変えてみせないか?」
未来からのアンチ・キューピッドは、皮肉にも二人の心をかつてなく強く結びつけていた。恐怖は、まだ胸の奥にくすぶっている。でも、それ以上に、目の前の彼を信じたいという想いが込み上げてくる。
美桜は、握られた手に力を込めて、精一杯の笑顔で答えた。
「はい。私も、あなたと未来を変えたい」
まだ見ぬ未来の危険も、二人の恋を止められない。警告から始まった恋は、今、運命に抗うという、最高にワクワクする冒険へと変わったのだ。
未来からのアンチ・キューピッド
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