江戸の夜風は、悪党の囁きと、醤油の香りを運んでくる。
神田の蕎麦屋「長寿庵」の出前持ち、龍吉は、とにかく気弱で間が抜けていた。岡持ちを揺らし、威勢のいい威嚇一つで道を譲る。そんな彼が、大店の呉服問屋「越後屋」に蕎麦を届けるのが日課だった。
「龍吉さん、またため息ばかり。何かあったのかい?」
盆を受け取る越後屋の看板娘、お妙は心配そうに眉を寄せた。彼女の憂いの原因は、近頃江戸を騒がす辻斬りだった。越後屋の用心棒が立て続けに二人、闇討ちに遭い、店には不穏な空気が漂っていた。
「いえいえ、あっしなんぞは…。それよりお妙様こそ、お気をつけくだせえ。そういえば、辻斬りを退治してくれるっていう『月影の龍』の噂は聞きましたかい?」
龍吉は、わざとらしく声を潜めた。
「ええ、聞いたわ。闇に紛れ、悪人だけを斬るっていう正義の味方なんでしょう? でも、どこにいるのか皆目…」
その夜更け。
越後屋の蔵に忍び込もうとする三人組の刺客がいた。彼らは、商売敵である新興の呉服問屋「近江屋」が差し向けた者たちだ。目的は、越後屋が仕入れた極上の反物を盗み出すこと。
三人がほくそ笑みながら蔵の錠前に手をかけた、その時だった。
「――月夜の散歩には、ちと物騒なものをお持ちのようだ」
屋根瓦の上に、黒い着流しの男が立っていた。月光を背負い、その顔は影になって見えない。ただ、腰に差した一振りの刀の鞘だけが、鈍い光を放っていた。
「て、てめえ、何者だ!」
刺客の一人がドスを抜く。
男は音もなく地面に降り立った。
「通りすがりの、蕎麦好きだ」
刹那、空気が震えた。
男が動いたと思った瞬間には、三人の刺客は地面に転がり、苦悶の声を上げていた。誰一人として斬られてはいない。刀の峰で、急所を的確に打ち据えられたのだ。
男は懐から手ぬぐいを取り出し、刀身を拭うと、再び闇へと姿を消した。後には、気絶した悪党と、ふわりと香る蕎麦つゆの匂いだけが残されていた。
翌日、龍吉がいつものように蕎麦を届けると、お妙は興奮気味に昨夜の出来事を話した。
「本当に現れたのよ! 月影の龍が!」
「へ、へえ、そいつは良かった」
龍吉は、頬をかきながら相槌を打つ。その頬には、うっすらと擦り傷があった。
しかし、近江屋の主、甚兵衛は諦めなかった。彼は最後の切り札として、京から呼び寄せた凄腕の用心棒を差し向ける。その名は、赤不動の玄斎。血を好み、人を斬ることに何のためらいもない、鬼と恐れられる男だった。
その晩、龍吉は夜道を歩いていた。昼間、お妙から「あなたが月影の龍だったらいいのに」と冗談めかして言われた言葉が、胸にチクリと刺さっていた。
不意に、殺気が肌を焼いた。
路地の暗がりから、大柄な侍がぬっと姿を現す。その眼は飢えた獣のようにぎらついていた。
「てめえが月影の龍か。噂の不殺(ころさず)の剣、この玄斎様が血祭りにあげてやる」
玄斎は、鞘走りの音も不気味に、大太刀を抜き放った。
龍吉の気弱な表情が、すっと消えた。岡持ちを持つ手つきとは全く違う、淀みない動きで腰の刀に手をかける。
「貴殿とは斬り結ぶ理由がない。道を開けてもらおう」
「ふん、その余裕がいつまで続くかな!」
玄斎の斬撃が、闇を切り裂いて龍吉に襲いかかる。それは、風を唸らせる剛剣だった。
龍吉は、紙一重でそれをかわす。彼の動きは、まるで風に舞う木の葉のように捉えどころがない。
「ほう、やるな。だが!」
玄斎の剣が速さを増す。一合、二合と打ち合ううちに、龍吉は次第に追い詰められていった。峰打ちで応戦するも、玄斎の殺気は衰えることを知らない。
「終いだ!」
玄斎が渾身の力を込めて振り下ろした一撃を、龍吉は刀の腹で受け止めた。キィン、と耳障りな金属音が響く。
その瞬間、龍吉は受け流す力を利用して体を反転させ、空いた片手で懐から何かを取り出し、玄斎の顔めがけて投げつけた。
「なっ!?」
玄斎の顔面にぶつかったのは、蕎麦屋の勘定書きをまとめた帳面だった。一瞬、視界を奪われた玄斎の体に、龍吉の刀の柄がめり込む。
「ぐっ……!」
玄斎は膝から崩れ落ちた。
「なぜ殺さぬ…」
うめく玄斎に、龍吉は静かに言った。
「蕎麦は、伸びる前に食うのが一番うめえ。あんたの剣も、錆びつく前に鞘に納めるのが一番だ」
そう言い残し、彼は再び夜の闇に消えた。
翌日。越後屋には平穏が戻り、悪事の露見した近江屋には奉行所の役人が踏み込んでいた。
お妙は、店先で龍吉から蕎麦の盆を受け取っていた。
「龍吉さん、ありがとう。なんだか、あなたに愚痴をこぼしてから、全部うまくいったみたい」
「そ、そんなことないですよぅ」
龍吉は照れて頭を下げた。その拍子に、彼の着物の襟元が少しはだける。
お妙の目が、彼の鎖骨のあたりにある痣に留まった。それはまるで、刀の柄で強く突かれたような、生々しい痣だった。
「……龍吉さん、その痣どうしたの?」
「へ? あ、ああ、これは、昨日、階段から盛大に転んじまって!」
龍吉は慌てて襟を直し、顔を真っ赤にして駆け去っていった。
その後ろ姿を、お妙は微笑みながら見送る。
江戸の空は、今日も青く澄み渡っていた。そして、どこからか、ふわりと蕎麦つゆのいい香りが漂ってくるのだった。
月影の剣、蕎麦の香り
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