鳴かぬ蝉の唄

鳴かぬ蝉の唄

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***第一章 割れた願い***

神田の裏通り、陽の当たらぬ一角に桐山誠十郎の仕事場はあった。元は腕利きの武士だったという噂もあるが、今では刀を解き、筆や硯、破れた障子から壊れた下駄の鼻緒まで、ありとあらゆるものを直す「繕い屋」として、細々と暮らしている。

その日、誠十郎が煤けた指で煙管を燻らせていると、戸口に小さな影が立った。年の頃は十六か七。洗い晒しの藍染めの着物をまとった娘が、不安げな眼差しでこちらを見ている。

「ごめんください。こちらで繕い物をお願いできると伺いました」

透き通るような声だった。誠十郎は無言で頷き、中へ入るよう目で促す。娘は、お葉と名乗った。そして、懐から大切そうに風呂敷包みを取り出し、恐る恐る誠十郎の前に差し出した。

「これを……これを、元通りにしていただけないでしょうか」

包みを解くと、現れたのは真っ二つに割れた木彫りの蝉だった。見事な黒檀の一刀彫だが、その胴体はまるで鋭利な刃物で断ち切られたかのように、無残な姿を晒している。羽の繊細な彫り、脚の力強さ。ただの置物ではない、作り手の魂が込められた逸品だと一目で分かった。

「なぜ、このようなものを?」
誠十郎の問いに、お葉は俯いた。長い睫毛が震えている。
「父の……形見でございます。これが元に戻らなければ、父は浮かばれません」

事情はそれ以上語ろうとしなかった。代わりに、彼女は小さな銭袋を差し出す。中には、庶民が一年暮らせるほどの大金が入っていた。ただの木彫りの修復には、あまりに不釣り合いな報酬。誠十郎の眉間に、僅かに皺が寄る。

面倒事はごめんだった。人と深く関われば、ろくなことにならぬ。そうやって生きてきた。だが、断ろうと口を開きかけた誠十郎の目に、娘の縋るような瞳が映った。その瞳の奥に、かつて自分が斬り捨てた何かに似た、悲痛な光を見た気がした。

「……三日、時間をくれ」

低く呟くと、お葉の顔がぱっと明るくなった。その安堵の表情に、誠十郎は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。なぜ引き受けてしまったのか。この割れた蝉は、ただの形見ではない。不吉な何かの香りを、確かに放っていた。

***第二章 蝉に宿る影***

蝉の修復は困難を極めた。断面はあまりに鋭く、接着剤となる膠(にかわ)だけでは心許ない。誠十郎は、髪の毛ほどの細さに削った竹の楔を幾本も作り、内部に仕込むことにした。作業に没頭するうち、彼は奇妙な点に気づく。蝉の腹の部分が、僅かに空洞になっているのだ。そしてその内壁には、墨で書かれたような微かな痕跡が残っていた。まるで、小さな巻物でも仕込んであったかのように。

お葉は毎日、仕事の進み具合を確かめにやって来た。彼女は誠十郎の傍らで、ただ静かにその手元を見つめている。はじめは警戒していた彼女も、誠十郎の真摯な仕事ぶりに、少しずつ心を許しているようだった。

ある日、お葉がぽつりと語り始めた。
「父は、書物ばかり読んでいる、ただの学者でした。半年前に、流行り病で……あっけなく逝ってしまいました」
その声は、悲しみを無理に押し殺しているように聞こえた。
「この蝉は、父が『我が生涯の証だ』と、そう申しておりました。それなのに、亡くなる間際に、父は自らの手でこれを……」
言葉を詰まらせ、お葉は唇を噛んだ。父が自ら、己の「生涯の証」を叩き割ったというのか。謎は深まるばかりだった。

誠十郎は、お葉が帰った後、仕事場の周りをうろつく人影に気づいていた。チンピラではない。統制のとれた動き、獲物を探るような鋭い視線。明らかに、お葉か、あるいはこの蝉を狙っている。

かつて人を斬った手のひらが、汗ばむ。刀を捨て、平穏を望んだはずなのに、血の匂いが蘇ってくる。深入りするな、と理性が囁く。だが、一心に父の形見を見つめるお葉の横顔が、脳裏から離れなかった。守らねばならない。その思いが、錆びついたはずの誠十郎の心を突き動かし始めていた。

その夜、風が唸りを上げる中、仕事場の戸が乱暴に蹴破られた。覆面を被った三人の男が、ぎらつく刃を手に雪崩れ込んでくる。狙いは作業台の上の蝉。

「渡してもらおうか」

誠十郎は、咄嗟に作業台を蹴り倒し、背後の壁に立てかけてあった古びた刀掛けから、埃を被った一振りを抜き放った。鞘を払う音は、鈍く、重い。しかし、その刀身が月明かりを反射した瞬間、繕い屋の男の姿は消え、冷徹な剣客・桐山誠十郎がそこに立っていた。

男たちは驚愕に目を見開いた。だが、もう遅い。誠十郎の刃は、闇の中を閃光のように走り、賊の得物をことごとく弾き飛ばす。それは殺すための剣ではなかった。ただ、相手の戦意を的確に削ぐ、恐ろしく精密な剣技だった。賊は命からがら逃げ去っていった。

静寂が戻った部屋で、誠十郎は己の手の中にある刀を見つめた。二度と握るまいと誓ったはずの、忌まわしい鉄の塊。だが、今、それは確かな熱を帯びていた。もはや、後戻りはできない。この蝉に宿る影の正体を、突き止めねばならなかった。

***第三章 断罪の刃***

誠十郎は、かつて同じ藩に仕えていた元御庭番の旧友、矢崎宗助を訪ねた。今は裏稼業の情報屋として生きる宗助だけが、誠十郎の過去を知る唯一の男だった。

割れた蝉と賊の話を聞いた宗助の顔から、いつもの軽薄な笑みが消えた。
「誠十郎、お前はとんでもないものに首を突っ込んでしまったぞ」

宗助が調べ上げた事実は、誠十郎の想像を遥かに超えるものだった。
お葉の父、名は長谷部景秋(はせべ かげあき)。彼はただの学者ではなかった。幕政にも影響力を持つほどの碩学であり、老中・水野の一派による不正の証拠を掴んでいた。病死ではない。半年前に水野派の刺客によって暗殺されたのだ。

「景秋殿は死の間際、不正を記した密書を二つに分け、一つをあの蝉に隠した。そして自ら蝉を割り、片割れをお葉殿に託したのだ。『この蝉が元に戻る時、父の無念は晴れる』という言葉を添えてな。もう半分は、最も信頼する者に託したという」

誠十郎は息を呑んだ。では、自分が今、繋ぎ合わせようとしているのは、幕政を揺るがすほどの証拠そのものだったのだ。
だが、宗助の口から続いた言葉は、誠十郎の全身を凍りつかせた。

「……その長谷部景秋を暗殺したのが、誰だか分かるか」
宗助は、苦渋に満ちた目で誠十郎を見つめた。
「五年前、お前が藩命で斬った『謀反の疑いある学者』。あれこそが、長谷部景秋殿だったのだ」

雷に打たれたような衝撃が、誠十郎を襲った。
五年前。誠十郎はまだ、藩の剣術指南役だった。上意討ちの命が下った。理由は「幕府転覆を企む危険人物」。誠十郎は、疑いもせずに命に従った。雨の降る夜、屋敷に忍び込み、書斎にいた学者を一刀のもとに斬り捨てた。その男が、お葉の父親。

あの時、男は抵抗すらしなかった。ただ、驚いたような、そしてどこか悲しい目で誠十郎を見つめていた。その最期の眼差しが、今も脳裏に焼き付いて離れない。

信じていた正義が、音を立てて崩れ落ちる。自分は、権力者の描いた偽りの筋書きの上で、無実の人間を、お葉から父親を奪った殺人者だった。己の手は、ただの繕い屋の手ではなかった。罪なき者の血に染まった、断罪されるべき手だった。

「う、あああああっ……!」

こらえきれない叫びが、喉の奥から迸った。足元が崩れ、世界が歪む。お葉の健気な顔が浮かび、心臓を鷲掴みにされるような激痛が走った。自分は、彼女にどんな顔で会えばいいのか。この手で、彼女の父親の形見を繕う資格など、あるはずもなかった。

***第四章 繕われし魂***

絶望の淵で、誠十郎は三日三晩、己の罪と向き合った。逃げ出すことも、自ら命を絶つこともできた。だが、彼の脳裏をよぎったのは、父の無念を晴らしたいと願うお葉の、あの真っ直ぐな瞳だった。

償わねばならない。この命に代えても。

誠十郎は、再び刀を握った。それはもはや、藩命のためでも、己の保身のためでもない。一人の娘への、そして自らが殺めた男への、唯一の贖罪のために。

宗助は、全てを打ち明けた。「景秋殿が密書の半分を託した相手は、この俺だ。友のお前に、あまりに重い罪を背負わせてしまった……」
彼は、誠十郎が景秋を斬った後、真相を知り、悔いと罪悪感から景秋の遺志を継ぐことを誓っていたのだ。

二人は、水野一派の屋敷に乗り込むことを決意した。宗助が持つ密書の片割れと、誠十郎が修復した蝉に隠された片割れ。二つが揃えば、悪事は白日の下に晒される。

月もない闇夜。屋敷は死のような静寂に包まれていた。だが、誠十郎と宗助が踏み込んだ瞬間、闇の中から無数の刺客が現れた。誠十郎は、お葉の父の密書を懐に、ただ守るためだけに剣を振るった。一閃が煌めくたび、刺客は倒れるのではなく、戦意を失い退いていく。それは、命を奪う剣ではなく、道を切り拓くための剣だった。

激しい死闘の末、二人はついに水野本人を追い詰めた。二つの密書が突きつけられ、悪事は露見した。夜が明ける頃には、全てに決着がついていた。

数日後、誠十郎は完全に修復された木彫りの蝉を手に、お葉の家を訪れた。継ぎ目はほとんど分からず、まるで最初から一つの命であったかのように、蝉は静かにそこにあった。

「お葉殿。君の父上の無念は、晴らされた」
誠十郎はそう言うと、深く頭を下げた。
「そして、君に詫びねばならぬことがある。君の父上、長谷部景秋殿を……斬ったのは、この私だ」

お葉は、息を呑んだ。その瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに涙で潤んでいく。憎しみ、悲しみ、混乱。あらゆる感情が渦巻き、彼女の小さな体を震わせた。だが、彼女は誠十郎を罵ることはなかった。ただ、父の死の真相と、目の前の男が命がけで父の名誉を取り戻してくれたこと、そして彼の背負ってきた深い苦悩を、その涙の中で受け止めていた。

「父の……父の魂を、繕ってくださったのですね」

それは、許しでもなく、断罪でもない、魂の底から絞り出されたような声だった。

誠十郎は、修復された蝉をお葉の手にそっと渡した。
「私は、江戸を離れる。この手で、もっと多くのものを繕わねばならぬようだ。人の心も……いつか繕える日が来るやもしれぬ」

旅支度を整えた誠十郎が、静かに去っていく。その背負う影は消えていない。罪が消えることはないのだ。だが、その一歩一歩は、過去から逃げるのではなく、未来へと向かう、確かな重みを持っていた。

お葉は、父の魂が宿る蝉を胸に強く抱きしめ、その背中が見えなくなるまで、ただ静かに見送っていた。夏の終わりの空に、どこからか本物の蝉の鳴き声が、まるで鎮魂歌のように、いつまでも響き渡っていた。

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