江戸八百八町が寝静まった丑三つ時、大店『近江屋』の堅牢な土蔵から千両箱が忽然と姿を消した。錠前は壊されておらず、扉には傷一つない。番人も不審な物音一つ聞いていないという。まるで狐か狸に化かされたような摩訶不思議な事件に、町奉行所の同心、立花重三郎は頭を抱えていた。
「手掛かり、一切なしか……」
現場検証を終え、馴染みの居酒屋『やまびこ』の暖簾をくぐった重三郎は、大きくため息をついた。
「おや、立花様。今宵はまた、難しいお顔で」
柔和な笑みで迎えたのは、この店の主、音吉だった。歳の頃は三十半ば。痩身で猫背、いつもどこか怯えたような目をしており、およそ威勢のいい江戸っ子とはかけ離れた男だ。
重三郎が事件のあらましを愚痴混じりに話すと、カウンターの隅で熱燗をちびちびやっていた音吉が、ふと顔を上げた。
「あの……立花様。昨夜、あっしも奇妙な音を聞きやした」
「音だと? 番人も何も聞いていないと言っていたぞ」
「へえ。本当に、ほんの些細な音で……。風が柳の枝を揺らす音に混じって、糸を張った琴を、露がぽつりと弾くような……そんな澄んだ音が、一瞬だけ」
戯言だ、と重三郎は一蹴しようとした。だが、音吉の目は真剣そのものだった。この男は、生まれつき耳が良すぎると評判だった。それも、常軌を逸するほどに。客が懐から銭を取り出す音だけで、その枚数をぴたりと当てたこともある。
「琴を弾く音、か……」
藁にもすがる思いで、重三郎は蔵の周辺を再度調べさせた。すると、屋根瓦のわずかな隙間に、一本の極細い絹糸が引っかかっているのが見つかった。その先は、隣家の屋根裏へと続いている。
「馬鹿な……こんな糸一本で千両箱を?」
誰もが首を捻る中、第二の事件が起きた。今度は材木問屋『遠州屋』。手口は全く同じ。だが、音吉はまたしても聞いていた。
「今度は、蝉の抜け殻が、ぱりんと乾いた土の上で砕けるような音でさぁ」
蝉の抜け殻。その言葉に、重三郎の脳裏に電光が走った。犯人たちは、蔵の天井板を音も立てずに外し、特殊な仕掛けで獲物を吊り上げているに違いない。絹糸は吊り上げるための道具の一部。蝉の抜け殻の音は、滑車か何かが軋む微かな音だったのだ。犯人は、音を立てぬことを極意とする盗賊団。
音吉の「地獄耳」だけが、奴らの気配を捉えていた。
「音吉、力を貸してくれ。お前の耳が頼りだ」
重三郎の真剣な頼みに、音吉は狼狽えた。
「あっしはただの居酒屋の親父で……めっそうもねえ」
「お前しかいないんだ。この江戸を騒がす『無音党』を捕らえるにはな!」
音吉は覚悟を決めた。
次の満月の夜。音吉の耳が、犯人たちの次の狙いを予測した。呉服問屋『伊勢屋』。店の周囲には、重三郎をはじめ腕利きの同心たちが息を潜めていた。
夜が更け、万物が沈黙に包まれる。その静寂を、音吉の耳だけが切り裂いた。
「……来た。北の屋根。二人。猫よりも静かな足音……。今、漆喰を剥がす音。まるで、熟れた柿の皮をゆっくりと剥くような……」
音吉の囁きが、闇の中を走る。その声を合図に、重三郎たちが一斉に屋根へと駆け上がった。
そこにいたのは、黒装束に身を包んだ二人組だった。驚くべきことに、彼らは一切声を発さず、身振り手振りだけで連携し、同心たちを翻弄する。その動きは滑らかで、まさに音なき幽鬼のようだった。
多勢に無勢。だが、無音党の動きはあまりに洗練されており、同心たちは次々と打ち倒されていく。重三郎も、首筋に冷たい刃を突きつけられ、絶体絶命の窮地に陥った。
その時だった。
「立花様! これを!」
階下から音吉の叫び声が響き、麻袋が投げ込まれた。袋が破れ、中から無数の小さな鈴が、夜の闇にきらめきながら畳の上へと散らばった。
チリン、チリンチリン!
黒装束の一人が僅かに身じろぎしただけで、鈴が甲高い音を立てた。その瞬間、彼らの顔に初めて動揺の色が浮かぶ。音を殺すことを極意としてきた彼らにとって、制御不能な音の乱舞は、己の存在を白日の下に晒されるに等しい恐怖だった。
「そこか!」
重三郎は音のした方角へ、渾身の力を込めて木刀を振るった。確かな手応え。鈴の音が一斉に鳴り響き、黒装束たちの位置が手に取るようにわかる。静寂という鎧を剥がされた無音党は、もはやただの盗人に過ぎなかった。
激しい捕物の末、盗賊団は一網打尽となった。
後日、奉行所から表彰されたのは、もちろん手柄を立てた立花重三郎だった。居酒屋『やまびこ』には、いつものように常連客が集い、無音党捕り物の噂話に花を咲かせている。
「それにしても、一体どうやって奴らの居場所を突き止めたんでございましょうねえ」
「天の助けでもあったんじゃねえか」
カウンターの隅で、音吉が黙々と徳利を温めている。その猫背の背中を見ながら、重三郎は盃を傾けた。
「天の助け、か。まあ、そんなところだろうな」
重三郎の言葉に、音吉はほんの少しだけ顔を上げ、はにかんだように笑った。
江戸の平和は、今日も守られた。表向きは屈強な同心たちの手によって。だが、その影には、どんな悪党の立てる微かな音も聞き逃さない、「地獄耳」を持つ一人の男がいることを、まだ誰も知らない。
地獄耳の音吉
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