僕たちの街の空は、いつも鉛色をしていた。高度に管理された都市の上空は、分厚い環境維持フィルターに覆われ、本物の太陽や星を知る者は、歴史の教科書の中にしかいなかった。僕、リオもその一人。古びた電子部品の匂いがするジャンクヤードの片隅で、スクラップの山を漁るのが唯一の楽しみだった。
その日、僕が見つけたのは、一体の旧式なロボットだった。錆びついた銀色の装甲、所々がへこみ、片方の光学センサーは黒く潰れている。胸には「ARK-7」という刻印があった。好奇心に駆られた僕は、それを自分の秘密基地に運び込み、何日もかけて修理を試みた。父さんの残した工具と、独学で覚えた知識だけが頼りだった。
「…起動シークエンス、開始…」
ある晩、不意に合成音声が響いた。生き残っていた方の光学センサーが、青い光をぼんやりと灯す。ロボットは、僕をじっと見つめた。
「君は…誰だ…?」
「僕はリオ。君の名前は?」
「アーク…セブン…」
アークと名付けたそのロボットとの、奇妙な共同生活が始まった。アークは、感情表現プログラムが搭載された珍しいモデルらしかったが、メモリの大部分が破損しており、できることは少なかった。それでも、僕が話しかけると、健気に耳を傾け、時々、かすれた音声で短い言葉を返してくれた。
ある時、アークが胸のプロジェクターから、ノイズ混じりの映像を投影した。そこに映っていたのは、緑の草原と、青い空、そして…七色の光のアーチだった。
「これ…何?」
「…ニ…ジ…」アークが呟いた。「…ヤク…ソク…」
『約束』。その言葉に、僕は強く惹かれた。古文書ライブラリにアクセスし、僕は初めて「虹」という自然現象を知った。太陽の光が、大気中の水滴に反射して生まれる、奇跡のような光の橋。フィルターに覆われたこの街では、決して見ることのできない、失われた風景。
アークの破損したメモリには、かつてのマスターとの断片的な記憶が残っていた。病弱だった少女。彼女は、アークに何度も語りかけていた。「いつか、この灰色の空に、きれいな虹をかけてね」。それが、アークが百年以上も胸に抱き続けてきた『約束』だった。
「僕が、手伝うよ」僕はアークに言った。「一緒に、虹を作ろう」
無謀な挑戦だった。大人たちは「子供の空想だ」と笑い、都市管理局からは「環境フィルターへの干渉は重罪だ」と警告された。だが、僕らは諦めなかった。アークは、自身が元々、気象制御用に設計されたロボットだったことを思い出す。僕は現代の技術知識を提供し、二人で夜を徹して計画を練った。フィルターの一時的な開放、水蒸気の散布、そして太陽光の屈折率の計算。それは、不可能を可能にするための、壮大な方程式だった。
決行の夜。僕らは都市で最も高い電波塔の頂上にいた。アークは自身の全エネルギーを、塔のシステムに接続する。
「リオ。ありがとう」アークの青い光が、優しく点滅した。「彼女の夢を…君が繋いでくれた」
「僕の方こそだよ、アーク。君が、僕に空を見上げさせたんだ」
アークが最後のコマンドを実行する。轟音と共に、頭上のフィルターの一部がゆっくりと開いていく。隙間から差し込んだのは、僕が生まれて初めて見る、本物の月光だった。そして、アークの制御によって散布された微細な水蒸気粒子が、月の光を受け、淡く、しかし確かに、七色の光を夜空に描き始めた。
それは、教科書で見たどんな虹よりも、儚く、そして美しい光の橋だった。鉛色の空に架かった、希望のアーチ。街中の人々が窓から顔を出し、呆然と空を見上げていた。誰もが、その非現実的な光景に言葉を失っていた。
「きれい…」
僕の隣で、アークが呟いた。それは、アーク自身の声ではなかった。か細く、優しい、少女の声だった。メモリの奥底に眠っていた、最後の音声データ。
「ありがとう、アーク…きれい…」
その言葉を最後に、アークの光学センサーの青い光が、ふっと消えた。全ての機能を停止し、約束を果たしたロボットは、静かな鉄の塊へと還った。
僕は、動かなくなったアークを抱きしめ、声を上げて泣いた。けれど、涙越しに見上げた夜空には、アークが命をかけて灯した、壮大な虹が輝いていた。
あの日から、僕たちの街は少しだけ変わった。空を見上げる人が増えたのだ。アークが架けた虹は、僕たちの心の中に、決して消えない感動の記憶として、永遠に焼き付いている。そして僕は、いつか自分の手で、この空に太陽の光を取り戻し、本物の虹を架けることを、固く心に誓ったのだった。
アークの約束
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