サイレント・シンフォニア

サイレント・シンフォニア

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音のない世界。それが、俺の生まれた世界アルモニアの全てだった。

かつてこの世界は「歌魔法(ソング・マジック)」と呼ばれる奇跡で満ち溢れていたという。歌声が風を呼び、大地を潤し、人々の心を繋いでいた。だが、百年前の「大静寂(グレート・サイレンス)」が、その全てを奪い去った。風は無言で頬を撫で、雨は沈黙のまま降り注ぐ。笑いも涙も、声にはならない。人々は身振り手振りと、表情だけで想いを伝え合って生きていた。

俺、リオンは、そんな世界で唯一、音を取り戻す希望とされた「歌い手」の一族の末裔だった。けれど、音を知らない俺にとって、それはただの重荷でしかなかった。

「見つけたわ!『始まりの歌』の手がかりよ!」

考古学者の卵、エルラが息を切らして俺の家に飛び込んできた。彼女が広げた羊皮紙には、古代文字で「風鳴りの谷」「潮騒の洞窟」「天衝く塔」の三つの場所が記されている。そこに眠る「音の残響」を集めし時、世界は再び歌を取り戻す、と。
彼女の瞳は、まるで星を宿したようにキラキラと輝いていた。その強い光に引かれるように、俺は重い腰を上げた。音のない世界に、本当に意味があるのか分からない。それでも、この静寂に風穴を開けたいという衝動が、胸の奥で微かに震えた。

俺とエルラの二人旅は、すぐに試練に見舞われた。静寂の歪みから生まれる怪物「ノイズ」に襲われたのだ。それは音なき咆哮をあげ、俺たちの感情を喰らおうと迫ってきた。絶体絶命のその時、一本の巨大な剣がノイズを両断した。

屈強な体つきの男、グレイだった。元騎士だという彼は、俺たちが「音」を探していると知ると、忌々しげに顔を歪めた。

「音など、悲劇しか生まん。無意味なことだ」

そう言い放つ彼の瞳の奥に、深い絶望が澱んでいるのが見えた。彼は俺たちを突き放そうとしたが、結局、エルラの強引な説得(というよりは無視してついて行った)に根負けし、護衛として同行することになった。

最初の目的地、「風鳴りの谷」は、その名の通り、絶えず強風が吹き荒れる場所だった。もちろん、風の音はしない。ただ、肌を打つ空気の圧力が、そこにかつて音が満ちていたことを物語っていた。
一族に伝わる儀式に則り、俺は谷の中心で意識を集中させた。すると、全身の皮膚が粟立つような、不思議な感覚が襲ってきた。それは音ではなかった。だが、確かに「風の振動」だった。俺はその振動を、魂に刻み込むように受け止めた。世界が、ほんの少しだけ輪郭を帯びた気がした。

次に訪れた「潮騒の洞窟」では、「静寂の番人」と名乗る者たちの襲撃を受けた。音のない世界こそが平和だと信じる彼らは、俺たちの旅を執拗に妨害してきた。グレイが身を挺して俺とエルラを守る。彼の背中に深い傷を負いながらも、彼は一歩も引かなかった。
洞窟の最奥で、俺は「波の残響」に触れた。寄せては返す、大きく、そして優しい振動。それはまるで、巨大な生き物の寝息のようだった。

二つの残響を得た俺には、世界が違って見え始めていた。人々の心臓の鼓動、木の葉が擦れる微かな震え、グレイが握りしめる剣の柄の軋み。全てが、声なき「歌」を奏でている。

最後の目的地、「天衝く塔」の頂を目指す道中、グレイがぽつりと過去を語った。彼には歌い手の妹がいたこと。「大静寂」の日、世界を守るための歌を捧げ、光の中に消えていったこと。「音を取り戻すことは、妹の死を無意味にすることだと思っていた。だが…本当は、もう一度、あいつの歌が聞きたいだけなのかもしれない」
彼の震える肩が、何よりも雄弁にその想いを伝えていた。

塔の頂上で待ち受けていたのは、番人のリーダーと、彼が生み出した最大級のノイズだった。絶望が具現化したかのようなその怪物を前に、俺たちは為す術もなく追い詰められた。
もう駄目かと思った、その時だった。
グレイが、声にならない叫びを上げた。彼の全身から、妹を想う激しい感情の振動が迸る。エルラが、俺の手を固く握った。未来を信じる強い祈りの振動が、流れ込んでくる。
そうだ。音は、耳で聞くものじゃない。魂で感じるものだ。
俺は、これまで集めた「風」と「波」の残響を呼び起こした。そして、仲間たちの「心の振動」を、その流れに重ね合わせる。それは混じり合い、共鳴し、一つの巨大な奔流となった。
俺は、天を仰いで口を開いた。
声ではない。俺の魂そのものが、純粋な意志の塊となって世界に放たれた。

それが、「始まりの歌」だった。

歌は光となり、アルモニア全土に広がっていく。大静寂の呪いが、ガラスのように砕け散った。
最初に聞こえてきたのは、頬を撫でる風の、ささやくような優しい音だった。
「……ぁ…」
エルラの口から、小さな声が漏れた。グレイが、はっと息を呑む音がした。
世界に、音が戻ったのだ。
遠くの街から、人々のどよめきが聞こえる。やがてそれは歓喜の叫びとなり、泣き声となり、そして生まれたばかりの赤ん坊の産声へと変わっていった。鳥たちがさえずり、川がせせらぎ、木々がざわめく。
世界は、喜びに満ちたシンフォニーを奏で始めた。
俺は、目の前に立つ二人に向き直った。
「エルラ、グレイ」
初めて自分の声で紡いだ仲間の名前は、少し掠れていたけれど、間違いなくこの世界で一番、感動的な音だった。
静寂に沈んでいた世界は、今、無限の音楽で満たされている。俺たちの旅は終わった。そして、新しい世界の歌が、今、始まったのだ。

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