約束のオルロージュ

約束のオルロージュ

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***第一章 錆びついた時間***

アスファルトの匂いと、クレーンの金属音が支配する街。桐島健吾は、その無機質な交響曲の指揮者だった。三十五歳にして都市開発コンサルティング会社のエースである彼は、古い街並みを更地に変え、そこにガラスと鉄の巨塔を打ち立てる仕事に、誇りさえ感じていた。感情は非効率なノイズであり、記憶は感傷という名のコストだ。それが、健吾の信条だった。

今回の再開発プロジェクトも、最終局面を迎えていた。計画区域内でただ一軒、立ち退きを拒む古びた時計店が残るのみ。店の名は「時田時計店」。埃を被ったショーウィンドウの奥で、時間の流れから取り残されたかのように、老店主がただ一人、頑なに抵抗を続けていた。

「桐島さん、また来たのかね」

店主の時田は、レンズの分厚い眼鏡の奥から、穏やかだが芯の強い瞳で健吾を見据えた。店内は、オイルの微かな匂いと、無数の時計が刻む微細な音が混じり合い、独特の空気を醸し出している。

「時田さん、ご納得いただけていないのは承知の上です。ですが、提示額は地域の相場を大きく上回るものです。これ以上の条件は…」

健吾の言葉を遮るように、時田は店の奥にある巨大なからくり時計に視線を移した。それは見事な木彫りが施されているが、今は沈黙し、針は錆びつき、まるで巨大な骸のようだった。

「わしは金が欲しいんじゃない。ただ、約束を果たしたいだけだ」

「約束、ですか?」健吾は眉をひそめた。またその非合理的な話か、と内心で舌打ちする。

「ああ。この時計が、もう一度あの音色を奏でるまでは、この場所を動くわけにはいかんのだよ」

壊れて動かない時計が奏でるはずのない音。健吾には、老人の戯言としか思えなかった。効率を重んじる彼の世界では、到底理解できない論理だった。しかし、その時、健吾は不意に奇妙な感覚に襲われた。店の奥から聞こえる、時田が工具で歯車を調整する甲高い金属音。それがなぜか、鼓膜のずっと奥にある、忘れていたはずの記憶の扉を、ほんの少しだけ軋ませたような気がした。

「時田さん。期限は一週間です。それまでにご決断を」

健吾は冷たく言い放ち、店を後にした。背後で、またカン、カン、と金属を叩く音が響く。その音は、まるで健吾の合理的な世界に打ち込まれる、小さな楔のように思えた。

***第二章 歯車の囁き***

それから毎日、健吾は時田時計店に足を運んだ。説得のため、という名目だったが、その本当の理由は彼自身にも分からなかった。時田は立ち退きの話には一切耳を貸さず、ただ黙々と、あの巨大なからくり時計の修理を続けていた。

健吾は、店の隅にある椅子に腰を下ろし、その姿を眺めるのが日課になった。時田の皺だらけの指が、ピンセットを巧みに操り、米粒よりも小さな歯車を組み付けていく。オイルが注され、磨かれた真鍮の部品が、鈍い光を放つ。その光景は、健吾が普段見慣れた、CADデータや完成予想CGとはまったく違う、生々しい手触りのある世界だった。

「時計というのは、不思議なもんでな」ある日、時田がぽつりと語りかけた。「ただ時を刻むだけじゃない。持ち主の喜びも、悲しみも、全部その歯車に記憶していくんだ。だから、古い時計ほど優しい音を出す」

健吾は何も答えなかったが、その言葉は彼の心に小さな波紋を広げた。自分が壊してきた数々の古い建物。そこにも、誰かの人生が記憶されていたのだろうか。考えたこともなかった問いが、頭をもたげる。

その日を境に、健吾の中で何かが変わり始めた。時計店に満ちるオイルの匂いが、なぜか懐かしく感じられる。無数の時計が立てるカチコチという音が、心地よい子守唄のように聞こえる。そして、断片的なイメージが、霧の中から浮かび上がるように、彼の脳裏をよぎるようになった。

温かい、小さな手。甘い綿菓子の味。商店街の賑わい。そして、優しいメロディを奏でる大きな時計を見上げる、幼い自分の姿……。

「……っ」

健吾はこめかみを押さえた。頭の奥がじんわりと痛む。それは、忘却という固い土を突き破って、記憶の芽が顔を出そうとする痛みだった。時田は、そんな健吾の様子を、何も言わずにただ静かに見つめていた。その瞳は、まるで健吾の心の奥底まで見透かしているかのようだった。

***第三章 約束の音色***

立ち退きの最終期限が、翌日に迫っていた。健吾の心は、これまでにないほど揺れていた。合理性と、芽生え始めた名付けようのない感情との間で。彼は最後の通告をするために、重い足取りで時田時計店へと向かった。

店の扉を開けると、いつもと違う静けさが彼を迎えた。オイルの匂いだけが、濃厚に漂っている。

「時田さん?」

返事はない。店の奥へ進むと、健吾は息を呑んだ。巨大なからくり時計の前で、時田が倒れていたのだ。傍らには、工具と小さな歯車が散らばっている。

健吾は我を忘れて駆け寄り、救急車を呼んだ。病院に運ばれ、意識を取り戻した時田は、か細い声で健吾を呼んだ。そして、震える手で、古びた一枚の写真を彼に差し出した。

「これを……君に」

それは、セピア色に変色した写真だった。そこに写っていたのは、満面の笑みを浮かべる幼い少年と、その肩を抱く若い女性。そして、彼らの隣で優しく微笑む、若き日の時田。三人が立つ背景には、あのからくり時計が、美しい姿で時を刻んでいた。

写真の少年は、紛れもなく幼い頃の自分だった。そして、隣の女性は、彼が小学生の頃に病で亡くした、母だった。

「……どうして、これを……」健吾の声は震えていた。

「君のお母さんはな、わしの恩人だったんだ」時田は、ゆっくりと語り始めた。「この店が苦しい時、何度も助けてくれた。君は、お母さんによく連れられて、この店に来ていたんだよ。そして、このからくり時計が大好きだった」

記憶の洪水が、健吾を襲った。そうだ、思い出した。母と手を繋いでこの店に来たこと。時田さんが「坊主」と呼んで、時計の仕組みを見せてくれたこと。そして――。

「君は言ったんだ。『大きくなったら、僕がこの時計を修理するんだ。もっと素敵な音が出るようにするんだ』ってな」

時田の声が、遠い昔の約束を呼び覚ます。

「君のお母さんは、亡くなる直前、わしに頼んだ。『あの子がいつか、夢を忘れてこの場所を訪れることがあったら、どうかこの時計の音を聞かせてやってください。あの子が、本当に大切なものを思い出せるように』と。……わしは、その約束を守りたかっただけなんだ。君が、君自身の力で、思い出してくれるのを、ずっと……ずっと待っていた」

健吾は、愕然とした。自分が壊そうとしていたもの。それはただの古い店ではなかった。母の最後の願い。時田さんの人生を懸けた誠意。そして、自分が捨て去ったはずの、幼い日の夢そのものだった。効率だの、利益だのといった、彼が築き上げてきた価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。熱いものが頬を伝い、乾いたアスファルトのようにひび割れていた彼の心に、染み込んでいった。

***第四章 未来を刻む針***

健吾は、会社に辞表を叩きつけた。驚く上司を振り切り、彼は時田時計店へと走った。もはや、彼を縛るものは何もなかった。

店の扉を開け、巨大なからくり時計の前に立つ。それは、彼が向き合うべき過去であり、取り戻すべき未来だった。幸い、健吾の祖父は時計職人だった。幼い頃、祖父の工房で遊んだ記憶が、血のように彼の身体を巡っていた。

健吾は、時田が残した設計図と、自身の奥底に眠っていた知識を頼りに、修理に没頭した。ネジを締め、歯車を噛み合わせ、ゼンマイを巻く。その一つ一つの作業が、バラバラだった記憶のピースを繋ぎ合わせ、彼の心を癒していくようだった。

三日三晩、ほとんど眠らずに作業を続けた。そして、運命の朝が訪れる。健吾が最後の調整を終え、ゆっくりと時計の始動レバーを引いた。

カチリ、と小さな音が響く。一瞬の静寂の後、ギ、ギギ……と、錆びついた時が動き出す音がした。針がゆっくりと進み、文字盤の上で人形たちが踊り始める。そして――。

ポロロン……ポロン……。

優しく、どこまでも懐かしいオルゴールのメロディが、店内に溢れ出した。それは、幼い頃、母がいつも歌ってくれた子守唄だった。

奇しくもその時、病院で眠っていた時田が、静かに目を開けた。窓の外から微かに聞こえてくる音色に、彼は耳を澄ませる。そして、一筋の涙が、深い皺を伝って枕を濡らした。

健吾もまた、涙を流していた。時計の音は、忘れていた母の温もり、声、そして「人の心を豊かにするものを作りなさい」という言葉を、鮮やかに蘇らせた。彼は、ただ泣いていた。失われた時間を取り戻すかのように。

数週間後、健吾は再開発計画の大幅な見直し案を、古巣の会社に提出した。時田時計店を地域の歴史的シンボルとして保存し、古いものと新しいものが共存する、人の温もりが感じられる街づくりを提案するものだった。それは、かつての彼であれば一笑に付したであろう、非効率で感傷的な計画だった。だが、今の彼には、それこそが最も価値あるものだと信じられた。

夕暮れ時、健吾は修復されたからくり時計の前に立っていた。定刻を告げる優しいメロディが、オレンジ色に染まる街に響き渡る。行き交う人々が、足を止めてその音色に聴き入っていた。

時間は、ただ過ぎ去るのではない。それは人々の想いと共に積み重なり、記憶となり、未来を照らす光になるのだ。

健吾は、ゆっくりと動き出した自分の時間を確かめるように、空を見上げた。その横顔は、もう冷徹なビジネスマンのものではなかった。優しい音色を奏でる時計のように、穏やかで、深い輝きを湛えていた。

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