***第一章 虹色の侵入者***
放課後の美術室は、僕だけの聖域だった。油絵の具とテレピン油の混じり合った匂い、西陽が差し込み床に落ちる埃を金色に照らし出す静寂。僕は、誰にも邪魔されないこの空間で、キャンバスの上の四角い世界と向き合うのが好きだった。葉山湊、高校二年生。人付き合いは得意じゃない。言葉よりも、絵の具を混ぜ合わせる方がずっと雄弁だと思っていた。
その日も、僕は窓の外に広がる、ありふれた校庭の風景を描いていた。特別なものは何もない。けれど、光と影が織りなす一瞬の均衡を捉えることに、僕は静かな興奮を覚えていた。
「わあ、すごい!」
突然、背後から弾むような声がした。聖域を破る、虹色の光のような声だった。驚いて振り返ると、そこに一人の女子生徒が立っていた。見慣れない制服。最近クラスに来た転校生だと、誰かが話していたのを思い出す。長くもなく短くもない髪が、夕陽を吸い込んで柔らかく輝いている。
「君が、葉山湊くん? 私、七瀬陽菜。よろしくね」
彼女は屈託なく笑い、僕のイーゼルの前に回り込んだ。人との距離感が妙に近い。僕は思わず一歩後ずさった。
「この絵……すごい。なんだか、前から知ってる気がする」
陽菜は僕の描きかけの絵を、瞳を輝かせて見つめた。前から知っている? ありふれた校庭の、描きかけの絵だ。そんなはずはない。戸惑う僕をよそに、彼女はぺらぺらと話し続けた。
「私、絵とか全然わかんないんだけど、湊くんの絵は違う。ただの景色なのに、キラキラしてる。なんで?」
キラキラ、という言葉が、僕には理解できなかった。僕が描いているのは、くすんだ土と、色褪せた芝生と、ありきたりな空だ。そこに「キラキラ」した要素など、どこにもない。
「……別に」
「えー、教えてよ。ねえ、美術部って、入ってもいいの?」
断る隙も与えず、陽菜は僕の聖域の住人になることを宣言した。それから毎日、彼女は美術室にやってきた。まるで初めてこの場所に来たかのように目を丸くし、僕の絵を見ては「すごい!」と声を上げた。その新鮮な驚きは、一日として色褪せることがなかった。僕は彼女を、少し風変わりで、物覚えの悪い、だけど太陽みたいなやつなんだと、そう思うことにした。
***第二章 重ならない昨日***
陽菜が美術室に通い始めて一ヶ月が経った。僕の日常は、すっかり彼女の色に染められていた。一人きりの静寂は失われたが、不思議と不快ではなかった。むしろ、キャンバスに向かう僕の背中に向けられる、彼女の期待に満ちた視線が、心地よくさえあった。
彼女との会話は、いつも奇妙なデジャヴに満ちていた。
「湊くんの描く空って、どうしてそんなに青いの?」
昨日も同じ質問をされた気がする。僕が同じように答えると、彼女は初めて聞いたかのように感心する。まるで、僕たちの「昨日」は存在せず、毎日が新しい「今日」として始まっているかのようだった。
ある日のことだ。僕が新しい風景画を描き始めると、陽菜が隣に座り込んで言った。
「ねえ、昨日の絵の続きは描かないの? あの、夕焼けのやつ」
僕は驚いて筆を止めた。彼女が、昨日のことを覚えている。些細なことだが、僕の心に小さな波紋が広がった。嬉しかったのかもしれない。僕たちの間に、ようやく共有できる「昨日」が生まれた気がして。
だが、翌日。
「湊くん、おはよう! わ、新しい絵? すごいね!」
陽菜は、僕が昨日から描いている絵を指して、初めて見るかのように言った。僕が「これ、昨日も見てただろ」と言うと、彼女はきょとんとした顔で首を傾げるだけだった。
違和感が、確信に変わっていく。彼女は、本当に「昨日」を覚えていないのではないか?
僕は、陽菜がいつも大切そうに胸のポケットに入れている、一冊の小さなノートの存在に気がついた。表紙には「私の記憶」と書かれている。彼女は時々、そのノートをこっそり開いては、何かを確認するように真剣な目つきで文字を追っていた。そして、顔を上げると、またいつもの太陽のような笑顔に戻るのだ。
あのノートに、彼女の秘密がある。そう直感した。
陽菜に感化され、僕の絵は少しずつ変化していた。彼女が言う「キラキラ」の正体を探すように、僕は光の粒を意識して描くようになった。くすんでいた世界に、陽菜というフィルターを通すことで、鮮やかな色彩が生まれていく。僕の絵は、僕一人だけの世界ではなく、彼女と共有する世界へと変わり始めていた。僕の内面も、少しずつ、硬い殻を破り始めていたのかもしれない。
***第三章 零れ落ちる記憶の欠片***
秋風が学園の銀杏を黄金色に染める頃、文化祭の季節がやってきた。美術部の出し物は、巨大なキャンバスに描く共同制作の壁画に決まった。テーマは「私たちの見る世界」。僕は、迷わず陽菜をモデルに描きたいと思った。僕に新しい世界の色を教えてくれた、僕だけのミューズ。
「え、私がモデル? いいよ、嬉しい!」
陽菜は満面の笑みで頷いた。制作が始まると、彼女は楽しそうにポーズをとったり、僕たちの作業を応援したりした。活気に満ちた美術室。その中心には、いつも陽菜の笑い声があった。僕たちの「昨日」は重ならなくても、この輝くような「今日」が続けばいい。そう願いながら、僕は一心不乱に筆を動かした。
悲劇は、些細な偶然から訪れた。床に置かれた絵の具を取ろうとかがんだ陽菜のポケットから、あのノートが滑り落ちた。彼女は気づかずに、友人との会話に夢中になっている。僕は、床に落ちたノートを拾い上げた。見てはいけない。頭では分かっていた。だが、僕を支配したのは、抗いがたい好奇心だった。
ページを、開いてしまった。
そこには、流れるような、しかし少し震えた文字で、信じがたい事実が綴られていた。
『私の記憶は、眠るとリセットされる。前向性健忘症』
『朝、このノートを読んで、自分が誰で、今日何をすべきか思い出すこと』
『クラスは二年三組。席は窓際の後ろから二番目』
『葉山湊くん。美術部。彼の描く絵は特別。心が動く。今日も、美術室に行くこと。彼の絵を見ることは、私にとって一番の楽しみ』
指が震えた。頭を鈍器で殴られたような衝撃。彼女が毎日新鮮だった理由。毎日僕の絵に感動してくれた理由。毎日「初対面」のようだった理由。全てが、この数行に凝縮されていた。
僕たちが積み重ねてきたはずの時間は、陽菜の中には存在しなかったのだ。僕が感じていた心地よさも、共有できたと思った喜びも、すべては僕だけの幻想だった。彼女にとって、僕は毎日「はじめまして」の、絵が少し上手いクラスメイトでしかない。
絶望が、僕の体から絵の具の色を全て奪い去ったようだった。
次の日、美術室で陽菜に会っても、どう接していいか分からなかった。同情か? 憐れみか? 自分の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、言葉が出てこない。僕の絵筆は、完全に止まってしまった。
「どうしたの、湊くん? 手、止まってるよ」
陽菜が、心配そうに僕の顔を覗き込む。その純粋な瞳が、ナイフのように僕の心を抉った。君が忘れてしまうからだ、とは言えなかった。君と僕の間には、何も積み重ならないからだ、と。僕はただ、力なく首を振ることしかできなかった。壁画の中の、描きかけの陽菜の笑顔が、僕を嘲笑っているように見えた。
***第四章 君がくれた世界***
何日も、僕は描けなかった。キャンバスの白さが、僕の空っぽの心を映しているようで恐ろしかった。陽菜は毎日、心配そうに僕のそばにいた。記憶はなくとも、僕の様子の異変は感じ取っているらしかった。
ある放課後、一人で思い悩む僕の前に、陽菜が小さなスケッチブックを差し出した。
「これ、見て」
そこには、拙い線で描かれた僕の横顔があった。似ているとはお世辞にも言えない。でも、その絵には、僕が絵を描いている時の、真剣な眼差しが捉えられていた。
「湊くんが描いてる時の顔、すごく好きだから。私、記憶はできないけど、この『好き』って気持ちは、なんだか胸に残るんだ。だから、明日もきっと、湊くんの絵が見たいって思う」
彼女は、ノートに頼らずに、そう言った。
記憶は失くしても、感情は残る。その言葉が、雷のように僕を撃ち抜いた。
そうか。それでいいじゃないか。
彼女が忘れてしまうのなら、僕が全て覚えていればいい。僕が「記憶」そのものになればいい。彼女が毎日、新鮮な感動を味わえるように、僕が最高の「今日」を描き続ければいいんだ。
僕の中で、何かが吹っ切れた。僕は再び、壁画の前に立った。もう迷いはなかった。僕の筆は、かつてないほど自由に、滑らかに動いた。
文化祭当日、完成した壁画が披露された。そこには、一つの壮大な世界が広がっていた。光に満ちた教室、笑い声が響く渡り廊下、夕暮れの美術室、黄金色の銀杏並木。僕が陽菜と過ごした、何気ない日々の断片が、全て一枚の絵の中に凝縮されていた。そしてその中央には、僕が初めて見た時と同じ、虹色の光をまとって屈託なく笑う陽菜の姿があった。
壁画の前に立った陽菜は、息を呑んだ。
「すごい……」
彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「どうしてだろう。知らない景色のはずなのに、全部知ってるみたい。すごく……懐かしい……」
記憶にはない光景に、彼女の心が確かに震えていた。感情の記憶が、僕の絵によって呼び覚まされたのだ。
僕は、そっと彼女に言った。
「これは、君が僕にくれた景色の全部だよ」
文化祭が終わると、陽菜は専門的な治療を受けるため、遠くの街へ転校していくことになった。別れの日、彼女は僕に言った。
「ありがとう、湊くん。明日になったら、今日のことも、湊くんのことも、忘れちゃうかもしれない。でもね、この胸のあたたかい感じは、きっと忘れないと思う」
その笑顔は、僕が描いた壁画の笑顔と、少しも変わらなかった。
陽菜が去った美術室は、また元の静寂を取り戻した。でも、そこはもう、僕だけの孤独な聖域ではなかった。彼女が残してくれた、たくさんの光と色と、あたたかい感情に満ちていた。
僕は、真っ白な新しいキャンバスに向かう。
これから僕が描く世界は、もう二度と、くすんだ色になることはないだろう。
儚い記憶を、失われない想いを、永遠に繋ぎとめるために。
彼女がいつかどこかで僕の絵を見た時に、理由も分からず「懐かしい」と涙を流してくれることを信じて。
それは、僕にとって、祈りのような、明日のための一枚のエチュードだった。
明日のためのエチュード
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