私立天頂学園は、完璧な秩序で支配された王国だった。王は、絶対的なカリスマを持つ生徒会長、皇 帝(すめらぎ みかど)。そして、その統治を支える法典が、分厚い一冊の『校則集』だ。
この学園では、すべての生徒が「学級貢献ポイント」で序列化される。ポイントは生活態度から成績、部活動の実績まで、あらゆる活動を数値化したもので、その裁定権は完全に生徒会が掌握していた。ポイントが高ければ、カフェテリアの豪華なランチから、進路指導の優先権まで、あらゆる恩恵を受けられる。逆に、ポイントが尽きれば即、退学勧告。それが天頂学園の絶対的なルールだった。
僕、高槻 蓮(たかつき れん)は、その他大勢の生徒の一人。本を読むことだけが取り柄の、ポイントも平凡な、目立たない存在。そんな僕の世界が揺らいだのは、親友の健太が、生徒会長の逆鱗に触れたあの日だった。
「皇会長の演説中にあくびをした、だと? 不敬である。全ポイントを剥奪する」
放課後の生徒会室。ガラス張りの壁の向こうで、健太が蒼白な顔で立ち尽くしていた。絶対王、皇の冷たい声が、僕の耳にまで届く。あまりに理不尽で、あまりに一方的な宣告。健太のポイントメーターが、目の前でゼロになった。
「待ってくれよ、蓮! 俺、どうしたら……」
泣きそうな顔で僕に助けを求める親友に、何もしてやれない自分が歯がゆかった。権力に逆らうなんて、この学園では自殺行為だ。誰もがそう思っていた。僕も、その一人だった。
その夜、僕は自室で、埃をかぶっていた『天頂学園校則集』を手に取った。絶望的な状況で、僕が唯一縋れるもの。それは、皇が作り上げた王国の、唯一の法典だった。ページを一枚一枚めくっていく。無味乾燥な条文の羅列。だが、諦めずに読み進めるうち、僕はある二つの条文に目を奪われた。
『第72条:生徒会によるポイント裁定への異議申し立ては、全校生徒の過半数の署名をもって行うことができる』
『第108条:生徒は、学園内のあらゆる情報媒体を、表現の自由に基づき、自由に使用することができる』
不可能と思われた反撃の糸口。それは、確かにこの法典の中に記されていた。全身に電撃が走るような感覚。僕は夜を徹して、作戦を練り上げた。
翌日の昼休み。学園中に衝撃が走った。
カフェテリアの大型モニター、各教室の電子黒板、廊下のデジタルサイネージ。学園中のあらゆるディスプレイが、一斉に同じ映像を映し出したのだ。
『これは、不当な権力に対する、正当な異議申し立てです』
僕が自室で撮った、覚悟を決めた僕自身の顔が、全校生徒の前に晒される。僕は映像の中で、健太に下された処分の理不尽さを淡々と訴え、そして高らかに宣言した。
「校則第72条に基づき、裁定への異議申し立てを行います! この訴えに賛同してくれる方は、学内ネットワークの特設ページから、あなたの署名をお願いします!」
学園は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。すぐに風紀委員たちが駆けつけ、放送室に乗り込んでくる。だが、僕は放送室のドアの前で、彼らを待ち構えていた。
「校則第108条により、僕にはこれを行う権利があります。妨害するなら、それは皆さんの校則違反になりますが、よろしいですか?」
僕が『校則集』の該当ページを開いて見せると、屈強な風紀委員たちも顔を見合わせ、立ち往生するしかなかった。
もちろん、王が黙っているはずがない。数分後、全校に皇自身の声が響き渡った。
「高槻 蓮君。君の行為は、校則第34条『学園内の情報媒体の私的利用の禁止』に抵触する、明確な校則違反である。即刻、その茶番を中止したまえ」
王からの直接の警告。だが、これも想定内だ。僕はマイクを握り、応戦する。
「皇会長。ならば、この場で『法廷』を開くことを提案します。全校生徒という陪審員の前で、どちらの解釈が正しいか、明らかにしようではありませんか」
公開討論。それもまた、校則で認められた生徒の権利だ。皇は一瞬沈黙したが、すぐに承諾した。王としての威信が、逃げることを許さなかったのだろう。
舞台は、全校集会が行われる大講堂へと移った。壇上には僕と、絶対王者の風格を漂わせる皇会長。講堂を埋め尽くした生徒たちが、固唾をのんで僕らを見守っている。署名サイトのカウンターは、まだ全体の二割にも満たない。この法廷で負ければ、僕も健太と同じ運命を辿るだろう。
「問おう、高槻君」
先手を取ったのは皇だった。その声は、講堂の隅々まで染み渡るように明瞭だ。
「君は、自らの個人的な目的のために学園の設備を占拠した。これが第34条の『私的利用』でなくて何だというのかね?」
会場の空気が、皇の意見に傾くのを感じる。だが、僕は怯まなかった。
「いいえ、違います。僕の目的は、友人を救うという個人的な感情から始まったかもしれません。ですが、僕が訴えているのは『不当な権力行使の是正』という、この学園全体の秩序に関わる公的な問題です。校則第108条に定められた『表現の自由』は、このような公的な訴えのためにこそ保障されるべき権利。それは、校則の序文に謳われた『個人の尊厳を守る』という基本理念にも合致します。よって、今回の僕の行動は『私的利用』には当たりません」
僕が言い切ると、客席から「おお……」というどよめきが起こった。
皇の眉が、わずかにピクリと動く。
「詭弁だな。君の理屈が通るなら、誰もが『公的な目的』を騙って好き勝手に校内放送を使えることになる。秩序が乱れるだけだ」
「その判断は、生徒の良識に委ねられるべきです。そして、その良識を最初に裏切ったのは、会長、あなたではありませんか?」
僕は、懐から一枚のプリントを取り出した。情報公開請求権を行使して手に入れた、先月の生徒会経費の明細書だ。
「会長は先月、ご自身の誕生日パーティーの告知に、学内メールを一斉送信しています。これは果たして『公的』な利用でしょうか? それとも、あなたのための『私的』利用でしょうか?」
決定的な一撃だった。会場が、今度こそ爆発的な熱気に包まれる。皇の完璧な表情が、初めて崩れた。僕のスマホが震える。署名サイトのカウンターが、凄まじい勢いで上昇していく。30%、40%、そして、ついに51%を超えた。
過半数。
その数字が表示された瞬間、講堂は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
壇上で立ち尽くす皇に、僕は静かに告げた。
「これが、生徒たちの答えです。法の下では、王も、一人の生徒も、平等なんです」
皇 帝は、しばらく僕を睨みつけた後、ふっと息を吐いて、マイクに向かった。
「……わかった。異議申し立てを認める。彼のポイントは、元に戻そう」
そして、僕に向き直り、誰にも聞こえない声で呟いた。
「面白い。実に面白いぞ、高槻 蓮。……君のような男を待っていた」
その目は、もはや怒りではなく、好敵手を見つけたかのような愉悦に満ちていた。
こうして、僕の、そして天頂学園の、長くて熱い一日が終わった。
絶対王政は、まだ終わらないかもしれない。だが、鉄壁の王国に、確かな亀裂が入ったことだけは事実だ。僕という名のルールブレイカーによって。
この学園は、きっとこれからもっと面白くなる。僕の胸は、新たな戦いの予感に、静かに、そして激しく高鳴っていた。
天頂学園、法廷開廷!
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