***第一章 古いカメラと見知らぬ笑顔***
放課後の空気は、いつも微かな埃と薬品の匂いが混じり合っている。俺、相沢湊が所属する写真部の部室は、北校舎の最も隅に追いやられた、いわば学園の盲腸のような場所だった。部員は俺を含めてたったの三人。情熱なんてものはとっくに乾ききっていて、俺たちはただ、帰宅するまでの気怠い時間をやり過ごすためだけに、この場所に集まっていた。
「なあ相沢、このガラクタ、そろそろ捨てないか?」
部長の田中が指差したのは、部室の奥に鎮座する古びたロッカーだった。錆び付いた扉は、もう何十年も開けられたことがないように見える。どうでもいい、と返そうとした口が、不意に動いた。何故だか、その日は無性にあのロッカーの中身が気になったのだ。
バールでこじ開けた扉が、軋みながら悲鳴を上げた。中からカビ臭い空気が溢れ出す。そこにあったのは、埃を被ったアルバムや、黄ばんだ薬品瓶、そして一台の古めかしいフィルムカメラだった。ずしりと重い、黒い金属の塊。その手触りは、今の軽量なデジタルカメラとは全く違う、時代の重みそのものだった。
好奇心に駆られて裏蓋を開けてみると、信じられないことに、一本のフィルムが装填されたままになっていた。フィルムカウンターは「1」を示している。つまり、あと一枚だけ撮れるか、あるいは、一枚だけ撮られた状態で忘れ去られていたか。
「現像してみようぜ」
田中の軽薄な声に後押しされ、俺たちは暗室に籠った。赤いセーフライトの光が、俺たちの顔を不気味に照らす。現像液のツンとした匂いが鼻をつく。揺れる液の中で、像がゆっくりと浮かび上がってくるのを、俺は息を詰めて見つめていた。
やがて、印画紙の上に現れたのは、一枚のポートレートだった。
長い黒髪を風になびかせ、少しはにかむように微笑む女子生徒。背景は、間違いなくこの写真部の部室だ。壁の染みや、窓の形に見覚えがある。だが、何かが違う。全体的にセピアがかった色調もそうだが、それ以上に、写っている少女の雰囲気が、この学園の誰とも似ていなかった。
そして何より奇妙なのは、彼女が着ている制服だった。デザインは、俺たちが今着ているものと全く同じなのだ。数十年前の代物に見える写真なのに、制服だけが現代と繋がっている。
「誰だ、この子……」
田中も、もう一人の部員も、首を横に振るだけだった。俺の知る限り、こんな生徒はいない。卒業アルバムを遡っても、該当者はいなかった。まるで、この世に存在しない人間が、時空の隙間からファインダーを覗き込み、一枚だけ自分の姿を焼き付けて消えてしまったかのような、不気味な現実感。
俺は、そのセピア色の笑顔から目が離せなかった。冷めていたはずの胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに音を立てて動き始めるのを、感じていた。
***第二章 時の迷子と不器用な共犯者***
その日から、俺の日常はあの写真一枚に侵食されていった。授業中も、休み時間も、ふとした瞬間にあの少女の笑顔が脳裏をよぎる。真実なんてものは信じない。目に見えるものが全てだ。そう嘯いて生きてきた俺が、一枚の正体不明な写真に心を掻き乱されている。我ながら滑稽だった。
手がかりを求めて、俺は無意識にカメラを片手に校内を彷徨っていた。そんな俺に声をかけてきたのが、月島栞だった。同じクラスだが、ほとんど話したことがない。読書が好きで、いつも物静かに本の世界に浸っている、そんな印象の女子だった。
「その写真、見せてもらってもいいですか?」
栞は、俺が現像した写真の噂をどこからか聞きつけたらしい。俺が訝しげに写真を手渡すと、彼女はそれを食い入るように見つめ、やがてぽつりと言った。
「この人……『時の迷子』なのかもしれない」
「時の、迷子?」
「うん。この学校には、時々、過去や未来から迷い込んでくる人がいるっていう、古い言い伝えがあるの」
馬鹿馬鹿しい。オカルトや都市伝説の類だろう。そう一蹴しようとした俺を、栞の真剣な眼差しが縫い止めた。彼女の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。むしろ、その存在を心の底から信じているかのようだった。
「信じない、ですよね。でも、相沢くんが撮ったんじゃない。カメラが撮ったの。古いカメラには、持ち主の記憶や想いが宿るって言うから」
栞の言葉は非科学的で、俺の信条とは真逆だった。だが、他に手掛かりがないのも事実だった。何より、彼女と一緒にいれば、この謎の正体に近づけるかもしれないという、奇妙な予感がした。
こうして、俺と栞の、不器用で奇妙な共同調査が始まった。栞は学校の古い伝承や歴史に詳しかった。彼女に導かれるまま、俺たちは普段足を踏み入れないような場所を巡った。今は使われていない旧図書館の螺旋階段、夕暮れになると美しい影を落とす音楽室の窓、創立記念に植えられたという中庭の大きな楠。
栞は、那些の風景に宿る見えない物語を、俺に語って聞かせた。俺は相変わらず懐疑的な態度を崩さなかったが、ファインダー越しに彼女が指し示す風景を切り取っていくうちに、無機質に見えていた学園が、少しずつ色を帯びていくのを感じていた。
彼女の隣で過ごす時間は、不思議と心地よかった。目に見えないものを信じる彼女の純粋さが、頑なだった俺の心の壁を、少しずつ溶かしていくようだった。いつしか俺は、この謎が解けてしまうことを、少しだけ恐れている自分に気づいていた。
***第三章 セピア色の真実***
調査は、意外な形で核心に近づいた。栞が、郷土資料館で古い卒業アルバムの閲覧許可を取ってくれたのだ。俺たちはページを一枚一枚、丁寧にめくっていく。そして、ついにその顔を見つけた。
昭和五十年代の卒業アルバム。そこに、写真の少女と瓜二つの人物がいた。色素の薄い写真の中でも、その柔らかな微笑みは鮮やかだった。名前は、「相沢響子」。
「相沢……?」
俺は自分の名字と同じであることに動揺した。まさか。震える手でスマートフォンを取り出し、実家に電話をかける。祖母にその名前を告げると、電話の向こうで息を呑む気配がした。相沢響子は、祖母の妹。高校二年生の時に、病気でこの世を去った、俺の大叔母だった。
全身の血が逆流するような感覚。時の迷子などではない。俺の、血の繋がった親族だったのだ。だが、だとしたらなぜ、彼女の写真は現代の制服を着て、あの部室に存在したのか。謎は解けるどころか、さらに深まった。
混乱する俺の隣で、栞はずっと黙り込んでいた。そして、俺が電話を切ったのを見計らったように、小さな声で言った。
「ごめんなさい、湊くん。私、ずっと嘘をついてた」
栞は鞄から、一枚の古びた写真を取り出した。それは、幼い日の栞と、あの相沢響子が、満開の桜の木の下で微笑んでいる写真だった。
「これは……どういうことだ?」
「響子さんは、私のおばあちゃんの、たった一人の親友だったの」
栞の告白は、俺が築き上げようとしていた脆い信頼を、根底から破壊するものだった。
栞の祖母は、亡き親友・響子のことをずっと忘れられずにいた。そして、孫である栞に、響子の面影を探してほしいと、彼女の魂がまだあの学園にいるかもしれないから、見つけてあげてほしいと、そう託したのだという。
栞は、俺が響子の大甥だと知って、意図的に近づいた。あの部室のカメラも、中にフィルムが入っていることも、全て知っていた。そして、俺が現像したあの写真は、栞が祖母から譲り受けた響子の未公開写真を、あたかもカメラに残されていたかのように見せかけた、巧妙な嘘だったのだ。
「『時の迷子』なんて、私が作ったお話。ごめんなさい……でも、そうでもしないと、湊くんはきっと、信じてくれなかったから」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。俺が感じていた不思議な縁も、高揚感も、全ては彼女の掌の上で踊らされていた結果だったのか。信じ始めていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。俺は栞の顔を見ることができず、その場から逃げるように立ち去った。セピア色の写真は、まるで俺の愚かさを嘲笑うかのように、手の中で冷たくなっていた。
***第四章 ファインダー越しの答え***
部室にも行かず、栞を避け、俺は再び元の無気力な日々に逆戻りした。いや、以前よりもっとひどかった。世界から色が抜け落ち、全てが灰色のノイズのように感じられた。裏切られた怒りと、信じてしまった自分への嫌悪が渦巻いていた。
だが、一人きりの部屋で、壁に貼り付けた数々の写真を見ているうちに、俺は気づかざるを得なかった。栞に導かれて撮った、学園の風景の数々。夕暮れの音楽室、雨に濡れた楠の葉、旧図書館に差し込む光の筋。それらは、紛れもなく俺自身の心が動いた瞬間の記録だった。
栞の嘘は許せない。だが、彼女が俺にくれたものは、本当に全てが偽物だったのだろうか。誰かと真剣に向き合うことの戸惑いも、目に見えない物語に耳を澄ませた時の静かな興奮も、俺の中で生まれた感情は、疑いようもなく「本物」だった。嘘から始まった関係かもしれない。しかし、その過程で俺は、確かに変わったのだ。
俺はカメラを掴んで、家を飛び出した。栞を探して、学園を走る。彼女がいるとしたら、きっとあそこだ。響子が一番好きだったと、栞が話してくれた場所。
校舎裏の、古い桜の木の下。果たして、栞はそこにいた。散り始めた桜の花びらが、彼女の肩に静かに舞い落ちている。
「栞」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。その瞳は、泣き腫らしたように赤かった。
「君の嘘は、まだ許せない。多分、すぐには無理だ」
俺は正直な気持ちを伝えた。栞は俯き、唇を噛みしめる。
「でも」と俺は続けた。「君と過ごした時間や、君が教えてくれたことは、俺にとって本物だった。だから……」
俺はカメラを構え、ファインダーを覗いた。レンズの先で、驚いたように目を見開く栞の顔が捉えられる。
「だから、今度は本当の君を撮らせてほしい。嘘じゃない、今の君を」
一粒の涙が、栞の頬を伝った。だが、その口元には、ふわりと柔らかな微笑みが浮かんでいた。それは、悲しみと安堵と、そしてほんの少しの喜びが混じり合った、とても複雑で、美しい表情だった。
カシャッ。
乾いたシャッター音が、春の午後に響き渡る。
ファインダー越しに見た栞の笑顔は、不思議と、あのセピア色の写真の中で微笑んでいた大叔母・響子の笑顔に重なって見えた。それは「時の迷子」なんていう幻想ではない。世代を超え、人から人へと受け継がれていく想いや絆という、目には見えないけれど確かに存在する「真実」の姿なのかもしれない。
現像された新しい一枚の写真は、俺の世界に、鮮やかな色彩を取り戻してくれた。このファインダーを通して、俺はこれから、どんな真実を見つけていくのだろう。答えはまだ、どこにもない。だが、その問いを抱きしめて生きていくのも、悪くないと思えた。
ファインダー越しの蜃気楼
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