***第一章 天蓋の囁き***
放課後のチャイムは、僕にとって世界の終わりと始まりを告げる合図だった。喧騒が遠ざかり、静寂が校舎を満たすまでの短い時間。僕はいつも、旧校舎の最上階、屋上へと続く階段の踊り場でその瞬間を待つ。ひんやりとしたコンクリートに背を預け、文庫本のページをめくる。そこは僕だけの聖域だった。
その日も、夕陽が教室の窓ガラスを茜色に染め上げる頃、僕はいつもの場所にいた。読みかけの物語に没頭していた耳が、不意に、ある音を捉えた。それは音楽ではない。人の声だ。低く、穏やかで、まるで古いラジオから流れてくるような、温かみのある男性の声。
『……ごらん。西の空、ひときわ明るく輝いているのが、宵の明星、金星です。地球のすぐ内側を回る、私たちの隣人ですよ』
声は、すぐ隣の扉から漏れ聞こえてきていた。分厚い木の扉には、『天体観測室』という古びたプレートが掲げられ、その下には錆びついた南京錠がぶら下がっている。もう何年も、誰も入ったことのないはずの場所だ。教師たちですら、鍵の在処を知らないと噂されている。
背筋に冷たいものが走った。幽霊だろうか。だが、声には不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、その落ち着いた響きは、乾いた心に染み渡る水のように、心地よかった。僕はそっと息を殺し、扉に耳を寄せる。
『夏の夜空を飾る大三角形。その一つ、こと座のベガは、七夕の織姫星として知られていますね。天の川を挟んで、対岸に輝くのがわし座のアルタイル、彦星です。二つの星が会えるのは、一年にたった一度だけ……』
声は、まるで僕一人に語りかけるように、星々の物語を紡いでいく。僕は本のことを忘れ、ただその声に聴き入っていた。錆びた鉄の匂いが混じる夕暮れの風が、頬を撫でていく。誰なんだろう。なぜ、誰もいないはずの部屋から?
謎は、僕の退屈な日常に投じられた、美しく、静かな波紋だった。その日から、放課後の踊り場は、僕にとってただの聖域ではなく、秘密の約束の場所になった。
***第二章 星屑の対話***
僕は声の主を、心の中で「星詠み(ほしよみ)」と名付けた。毎日、同じ時刻になると、彼の声は決まって聞こえてくる。北極星の見つけ方、月の満ち欠けの仕組み、遠い銀河の神話。彼の言葉は、僕が本の世界でしか知らなかった宇宙を、現実の夜空へと繋げてくれた。
「すごいな……ペルセウス座流星群って、そんなふうに見えるのか」
扉に向かって、思わず小さな声で呟く。もちろん返事はない。けれど、僕には彼が微笑んだような気がした。この一方的な対話は、僕の孤独を少しずつ溶かしていった。今まで灰色に見えていた世界が、星詠みの言葉をフィルターに通すことで、ほんのりと色づき始める。夜、自室の窓から空を見上げる習慣ができた。星座早見盤を買い、星の名前を覚えた。
そんな変化は、他人の目にも明らかだったらしい。
「水月くん、最近、なんだか楽しそうだね」
ある日、教室で後片付けをしていると、クラスメイトの朝比奈陽菜(あさひなひな)に話しかけられた。太陽みたいな笑顔が眩しくて、僕は思わず視線を逸らす。
「……そう、かな」
「うん。前はもっと、本の中に閉じこもってる感じだったから。何かいいことあった?」
彼女の屈託のない問いに、どう答えていいか分からなかった。「閉鎖された天体観測室から聞こえる謎の声に夢中なんだ」なんて、言えるはずもない。
「別に……何も」
素っ気なく答えると、陽菜は少し寂しそうに笑って、「そっか」とだけ言った。彼女の親切を無下にしてしまった罪悪感が、ちくりと胸を刺す。でも、僕にはまだ、星詠みとの秘密を誰かと分かち合う勇気はなかった。僕だけの、大切な秘密だったからだ。
日を重ねるごとに、星詠みへの想いは募っていった。どんな顔をしているんだろう。どんな瞳で星空を見つめているんだろう。会いたい。声の主に、会ってみたい。その気持ちは、やがて抑えきれないほどの渇望に変わっていった。
***第三章 空っぽの天球儀***
決行の日は、雲ひとつない満月の夜だった。僕は昼間のうちに、用務員室の壁にかかっていた古い鍵の束を、誰にも見咎められずにポケットに忍ばせていた。心臓が早鐘のように鳴り響き、指先が冷たい。小さな罪悪感と、それを遥かに上回る大きな期待が、僕の全身を支配していた。
放課後。星詠みの声が始まるのを待ち、僕は震える手で鍵束を南京錠に押し当てた。いくつもの鍵を試すうち、カチリ、と乾いた音がして、錠が開いた。何十年もの間、閉ざされていた封印が解かれる。僕は唾を飲み込み、重い木の扉をゆっくりと押し開けた。
「……あの、すみません」
部屋の中は、月明かりが差し込み、うっすらと見渡せた。堆積した埃の匂い。中央には、巨大な天体望遠鏡が鎮座し、壁際には古い星座盤や天球儀が並んでいる。しかし、人の気配はどこにもなかった。いるはずの星詠みの姿は、どこにも。
僕の目に飛び込んできたのは、部屋の中央、天体望遠鏡の傍らにポツンと置かれた、一台の古びた機械だった。大きなリールが二つ付いた、オープンリール式のテープレコーダー。そこから、聞き慣れたあの声が、静かに流れていた。
『……あれがカシオペヤ座。古代エチオピアの、美しい王妃の姿です』
声は、生身の人間の口からではなく、この時代錯誤な機械から発せられていたのだ。目の前が真っ暗になった。僕が焦がれ、対話を重ねてきた相手は、人ではなかった。ただの録音された音声だった。期待が大きかった分、裏切られた衝撃は僕の心を粉々に打ち砕いた。足元から世界が崩れていくような感覚に襲われ、僕はその場に立ち尽くした。空っぽの天球儀が、嘲笑うかのように僕を見下ろしている。そこは、僕が夢見た場所ではなく、ただの時の止まった、空虚な部屋だった。
***第四章 時を超えた光***
「……やっぱり、ここに来たんだね」
茫然自失としていた僕の背後から、不意に声がした。振り返ると、そこに立っていたのは陽菜だった。彼女は僕の驚きをよそに、静かな眼差しで部屋の中を見渡している。
「どうして、君がここに……」
「ごめんね、つけてきちゃった。水月くんが鍵を開けるの、見えちゃったから」
彼女は申し訳なさそうに言うと、ゆっくりとテープレコーダーに近づいた。
「この声、聴いてたんだね」
「……ああ」
かろうじてそれだけ答えるのが精一杯だった。僕の夢が、幻が、目の前で音を立てて崩れ去ったのだ。
「この声の主は、五十嵐先生っていうの。私の祖母の、高校時代の恩師だったんだって」
陽菜は、まるで遠い記憶を辿るように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「五十嵐先生は天文部の顧問で、星が大好きで、そして……生徒のことが大好きだった。でも、病気で教壇に立てなくなってしまった。学校に来たくても来られない生徒や、クラスに馴染めずに孤独を感じている生徒がいることを、ずっと気にかけていたそうよ」
彼女はそっと、回転するリールに指で触れた。
「だから、先生はこの部屋で、自分の声を録音したの。いつか、自分がいなくなった未来で、寂しい夜を過ごす誰かのために。星の光が何万年もかけて地球に届くように、自分の言葉も、時を超えて誰かの心に届けばいいなって。このタイマーで、毎日同じ時間に再生されるようにして」
陽菜の祖母もまた、この声に励まされた一人だったのだという。そして陽菜は、祖母からその話を聞き、この声の存在を知っていた。最近の僕の様子から、僕がこの声に惹かれていることに気づき、ずっと見守っていたのだと。
「君と同じように、この扉の前で耳を澄ませている人を見つけて、嬉しかったんだ」
真実のすべてが、雷のように僕を撃った。星詠みは、いなかった。でも、そこには、僕が想像していたよりもずっと温かく、切実な想いが存在していた。顔も知らない、何十年も前に生きた一人の教師が、未来の、名も知らぬ僕のような生徒のために、遺してくれたメッセージ。
孤独だったのは、僕だけじゃなかった。時を超えて、誰かが僕を想ってくれていた。その事実に、堪えきれずに涙が溢れ出した。それは、絶望の涙ではなく、凍てついていた心が温かな光に溶かされていくような、救いの涙だった。
***第五章 君と見る本当の星***
僕はテープレコーダーの停止ボタンを、そっと押した。回転が止まり、部屋は完全な静寂に包まれた。星詠みの声との、永遠の別れだった。でも、不思議と寂しくはなかった。彼の言葉は、もう僕の心の中に、星のようにしっかりと刻み込まれているからだ。
「ありがとう、五十嵐先生」
心の中で呟き、僕は陽菜に向き直った。
「教えてくれて、ありがとう」
「ううん」
陽菜は優しく微笑んだ。その笑顔が、もう眩しいとは思わなかった。
「ねえ、水月くん」と彼女が言った。「今夜、本物の星を、見に行かない?」
その誘いを、僕が断る理由はどこにもなかった。僕たちは天体観測室を後にし、今度は二人で、屋上へと続く階段を上った。ひやりとした夜風が心地いい。屋上のフェンスの向こうには、息をのむほど美しい星空が広がっていた。
「わあ……すごい」
陽菜が感嘆の声を上げる。僕も空を見上げた。もう、声の解説はない。けれど、僕は自分の知識で、自分の言葉で、星を見つけることができた。
「あれが、夏の大三角形。ベガと、アルタイルと、デネブ」
僕は指をさす。陽菜が「ほんとだ」と嬉しそうに僕の顔を見た。
僕たちは並んで、言葉少なに夜空を眺めていた。過去から届いた声はもうない。でも、僕の隣には、今を生きる温かい体温があった。時を超えた想いに救われた僕は、今、現実の世界で、人と繋がる第一歩を踏み出していた。
星詠みの声は消えても、その光は、僕の進む道を照らし続けるだろう。まるで、遠い星が放つ、何万年も前の光のように。僕は隣にいる陽菜の気配を感じながら、新しい物語が始まる予感に、静かに胸を高鳴らせていた。
星詠みのテープレコーダー
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