時の残響、未来の秒針

時の残響、未来の秒針

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僕が通う私立刻ノ森(ときのもり)学園は、少しだけ特別な学校だ。生徒は皆、「時間」に関わる微細な異能を持っている。

といっても、映画のように時間を止めたり、過去へ飛んだりできる大層な能力者はいない。数秒先の未来が見える者、物の時間を少しだけ巻き戻せる者、自分の体感時間をわずかに加速させる者──その程度だ。そして僕、相馬刻也(そうまときや)の能力は、その中でも特に地味だった。「触れたモノに残る〝過去の残響〟を聴く」。ただそれだけ。戦闘にも役立たず、テストで良い点が取れるわけでもない。おかげで僕は、学園では常に日陰の存在だった。

そんな僕の憧れは、天音未来(あまねみく)。彼女の能力は「数秒先の未来予知」。学園トップクラスの実力者で、明るく、誰にでも優しい。太陽のような彼女と、日陰の僕。住む世界が違う。そう思っていた。

その日までは。

ゴォォン……!

突如、学園の象徴である大時計塔の鐘が、不気味な重低音を響かせた。正午を知らせる鐘ではない。聞いたこともない、耳障りな不協和音。その瞬間、学園の〝時〟が狂い始めた。

「きゃっ!」

廊下で悲鳴が上がる。歩いていた生徒が突然つまずき、次の瞬間には数メートル後ろに戻っている。食堂では、食べたはずのパンが皿の上に再構成され、生徒たちが青ざめていた。時間の逆流、跳躍、停滞。あちこちで起こる小規模なタイムパラドクスに、学園はパニックに陥った。

「みんな、落ち着いて!」

混乱の渦中、未来の声が響いた。彼女は予知能力を駆使して、落下物を避けさせたり、時空の歪みに巻き込まれそうな生徒を誘導したりと、獅子奮迅の働きを見せていた。だが、その顔色は明らかに悪い。乱れた時間のせいで、予知の精度が落ちているのだ。

「危ない!」

僕が叫んだのと、彼女がよろめいたのは同時だった。未来が避けようとした先に、新たな時間の亀裂が発生したのだ。僕はとっさに彼女の腕を掴んで引き寄せた。

「……助かった。ありがとう、相馬くん」
「天音さんこそ、無茶しすぎだ」

僕の手に、彼女の腕の感触が残る。そして、僕の能力が発動した。

──チリ、と耳の奥でノイズが走る。彼女がさっきまで見ていたであろう、断片的な未来のビジョン。生徒たちの悲鳴。そして、「また、間に合わなかった」という、彼女自身の小さな後悔の声が、残響として流れ込んできた。

「原因は、あの大時計塔だ」僕は時計塔を睨みつけた。「あそこから、おかしな〝音〟が聴こえる」
「音?」
「僕の能力だよ。時計塔が、泣き叫んでいるみたいなんだ」

誰も見向きもしなかった僕の地味な能力が、この異常事態の核心を指し示していた。

僕と未来は、二人で大時計塔へ向かうことを決めた。未来の「未来予知」で目前の危機を回避し、僕の「過去の残響」で進むべき道を探す。最高の能力者と、最低の能力者。奇妙なコンビの誕生だった。

時計塔の内部は、まさに時空の迷宮だった。階段を上っているはずが下降していたり、存在しないはずの壁が突然現れたりする。

「次、右!床が抜ける!」

未来の鋭い声に従って、僕は右に跳ぶ。直後、僕がいた場所の床が砂のように崩れ落ち、奈落へと消えた。冷や汗が背中を伝う。

「今度は僕の番だ」

目の前には三つの扉。僕は中央の扉にそっと手を触れた。

──ギィ、という軋む音。そして、安堵のため息の残響。

「こっちだ。誰かがこの扉を通って、先に進んでる」

僕らは互いの能力を補い合い、数々のトラップを潜り抜け、ついに時計塔の心臓部である機械室にたどり着いた。

部屋の中央では、巨大な振り子と無数の歯車が、火花を散らしながら狂ったように回転していた。原因は一目瞭然。中心にある黄金の歯車「クロノスの歯車」が、黒い靄のようなものに覆われている。

「あれが……時間の澱(よどみ)……!」未来が息を呑んだ。

生徒たちが無意識に捨ててきた「やり直したい過去」「忘れたい一瞬」。そういった負の時間が凝縮され、時計の機構を狂わせているのだ。

「僕がやる」

僕は覚悟を決め、クロノスの歯車に手を伸ばした。

瞬間、僕の頭の中に、膨大な〝過去の後悔〟が濁流となって流れ込んできた。

『あの時、ごめんって言えてたら』
『もっと速く走れていれば』
『なんで、あんな酷いことを』

無数の声、痛み、悲しみ。他人の過去が、僕の精神を喰らおうとする。

「だめっ!相馬くん!」

未来の悲鳴が遠くに聞こえる。意識が呑まれる寸前、彼女が僕の手を強く握った。

「一人で背負わないで!」

彼女の手を通して、未来自身の残響が聴こえた。『私の予知のせいで、彼を危険な目に……』。彼女もまた、自分の能力に苦しみ、過去を悔やんでいた。

僕らだけじゃない。この学園の誰もが、後悔を抱えて生きている。

「違うんだ、天音さん」僕は歯を食いしばって言った。「この声は、ただのノイズじゃない。忘れられたくないって叫んでる、誰かの〝時間〟そのものなんだ」

僕の能力は、過去を聴くだけの力じゃない。その過去を受け入れ、肯定するための力だ。

「聴かせてくれ、君たちの物語を!」

僕は濁流に抗うのをやめ、意識を研ぎ澄ませた。一つ一つの声に耳を傾け、その痛みを、悲しみを、丸ごと受け止める。それは、他人の人生を追体験するような、途方もない作業だった。

未来は、僕の手を握りしめたまま、すぐそばで僕を守ってくれていた。彼女の予知が、澱の奔流から僕の意識を繋ぎとめる錨(いかり)になっていた。

どれくらいの時間が経っただろう。

気づけば、歯車を覆っていた黒い靄は消え失せ、黄金の輝きを取り戻していた。狂ったように回っていた歯車は穏やかな動きを取り戻し、時計塔は、再び正しい時を刻み始めた。

学園に、平穏が戻った。

「……終わった」

僕はその場にへたり込んだ。未来が、優しい手で僕を支えてくれる。

「ありがとう、刻也くん。君の能力は、誰よりも優しい力ね」

彼女は初めて、僕を名前で呼んだ。

時計塔の窓から差し込む夕日が、僕ら二人を照らしていた。自分の地味な能力を、僕は初めて誇らしいと思えた。

時の残響を聴き、未来の秒針と共に歩む。僕らの、そしてこの学園の新しい時間が、今、静かに動き出した。

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