夜明けのキャンバス

夜明けのキャンバス

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埃と西日の匂いが混じる放課後の教室は、私の聖域であり、同時に牢獄でもあった。創立記念祭のメインイベント「クラス対抗壁画コンクール」。そのリーダーという役職を、くじ引きでもジャンケンでもなく、ただ押し黙っていたというだけの理由で押し付けられたのは、一週間前のことだ。

テーマは「未来」。壮大で、あまりに漠然としたテーマを前に、クラスメA組の熱量は面白いほど低かった。スマートフォンをいじる者、イヤホンで耳を塞ぐ者、窓の外を虚ろに眺める者。彼らの無関心は、透明な壁となって私を取り囲んだ。

「水野さん、なんか適当に描いといてよ」

誰かが投げた無責任な言葉が、重りとなって足首に絡みつく。私はただ、小さく頷くことしかできなかった。

一人きりの教室で、巨大なベニヤ板のキャンバスと向き合う。真っ白なそれは、私の無力さを嘲笑っているかのようだった。スケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。光に向かって手を伸ばす、ありきたりな構図。描けば描くほど、自分の表現の陳腐さに吐き気がした。これは未来じゃない。ただの願望の押し付けだ。

「つまらない絵だな」

背後から聞こえた声に、心臓が跳ねた。振り向くと、美術部の黒崎蓮が、腕を組んで私のスケッチブックを覗き込んでいた。彼は学年で有名な一匹狼で、その鋭い目はいつも他者を値踏みするように細められている。

「何が描きたいのか、さっぱり伝わってこない。自己満足の極みだ」
「……あなたには、関係ないでしょ」

絞り出した反論は、蚊の鳴くような声だった。黒崎くんは鼻で笑うと、何も言わずに教室を出て行った。残されたのは、彼の言葉の棘と、さらに深まった孤独感だけ。悔しくて、情けなくて、涙が滲んだ。けれど、心のどこかで分かっていた。彼の言葉は、的を射ている。この絵には、魂がこもっていなかった。

締め切りが三日後に迫った日、私はついに限界を感じていた。クラスメイトへの声かけは空振りに終わり、キャンバスは未だ真っ白なまま。もう、諦めてしまおうか。そう思った時、がらりと教室のドアが開いた。また黒崎くんだった。

彼は無言で私の隣に立つと、机に放り出されていたスケッチブックを勝手にめくり始めた。そして、あるページで指を止める。それは、誰にも見せるつもりのなかった、授業が始まる前の、静かな朝の教室を描いた一枚の落書きだった。

「こっちのほうが、まだマシだ」
「え……?」
「未来なんて大げさなテーマに振り回されるから、何も描けなくなるんだ。お前が見たいのは、そんな大層なものじゃないだろ」

黒崎くんはそう言うと、おもむろにペンキの缶を一つ手に取り、その蓋をこじ開けた。そして、刷毛を手にすると、真っ白だったキャンバスに、夜明けの空を思わせる淡い藍色を、一気に塗り始めたのだ。

「……何、してるの」
「見てわからないか。手伝ってやるって言ってんだよ。ただし、デザインはお前のその絵だ」

迷いのないその動きに、私は言葉を失った。ただ、彼の横顔を見ていた。いつも皮肉ばかりの唇が、今は固く結ばれている。その時だった。

「……なあ、水野。それ、俺らにも手伝わせろよ」

教室の入り口に、数人のクラスメイトが立っていた。いつもは一番騒がしいサッカー部の男子たちだ。彼らは、黒崎くんの意外な行動と、呆然と涙を浮かべる私の姿を、ただ見ていた。一人の声が呼び水となり、廊下から次々と人が集まってくる。

「悪かったな、今まで押し付けちまって」
「黒崎がやるなら、面白そうじゃん」

嘘みたいだった。今まで透明な壁だと思っていたものが、音を立てて崩れていく。私の牢獄だった教室が、一瞬にして、希望に満ちたアトリエへと姿を変えたのだ。

それからの三日間は、まるで奇跡だった。私の描いた「夜明けの教室」を元に、クラスが一つになった。黒崎くんが的確な技術指導をし、私は全体の色彩や光のバランスを指示する。運動部の男子は力仕事を担当し、手先の器用な女子たちは細かい部分を丁寧に仕上げていく。ペンキの匂いと、時折響く笑い声。今まで知らなかったクラスメイトの横顔を、たくさん見つけた。私が本当に描きたかった「未来」は、この光景そのものだったのかもしれない。そう思った。

創立記念祭当日。体育館の壁に掲げられた私たちの壁画は、静かな光を放っていた。誰もいない教室。しかし、窓から差し込む朝日は床に温かな光だまりを作り、一つ一つの机や椅子に、これから始まる一日への期待感を宿しているようだった。

結果は、最優秀賞ではなかった。けれど、私たちの絵の前には、審査員特別賞のプレートが誇らしげに置かれていた。そんなことより、壁画を見上げて「すげえじゃん、俺たち」と肩を組んで笑いあうクラスメイトたちの姿が、何よりも眩しかった。

「まあ、悪くないんじゃないか」

隣に立った黒崎くんが、ぶっきらぼうに言った。その横顔は、体育館の窓から差し込む夕日に照らされて、少しだけ優しく見えた。

「うん」

私は、今まで誰にも届かなかった声で、はっきりと答えた。

「ありがとう」

私のキャンバスは、もう真っ白じゃない。夜が明けたのだ。新しい明日を描くための、確かな色がそこには満ちていた。

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