黄昏の帰宅部

黄昏の帰宅部

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「部活動調査票、まだ出してないの、相田だけだぞ」
ホームルームの終わり、担任の呆れた声が鼓膜を揺らす。俺、相田樹(あいだ いつき)は、「ああ、はい」と気の抜けた返事をして、さっさと鞄を肩にかけた。部活なんて冗談じゃない。貴重な放課後を汗と涙に捧げるなんて、コスパが悪すぎる。俺の青春は、家で新作のRPGを攻略するためにあるのだ。

廊下に出ると、同じクラスの月島澪(つきしま みお)が涼しい顔で俺の横を通り過ぎていった。成績優秀、眉目秀麗。近寄りがたいオーラを放つ彼女も、調査票には「帰宅部」と書いたらしい。俺たちの間には、目に見えない「帰宅同盟」が結ばれている、と勝手に思っていた。

その日はついてなかった。教室を出てから、スマホを机の中に忘れたことに気づいたのだ。昇降口で踵を返し、夕陽で茜色に染まる廊下を戻る。誰もいないはずの校舎は、奇妙なほど静かで、自分の足音だけがやけに大きく響いた。

目的の教室はすぐそこ。だが、その手前にある第一音楽室から、微かな音が聞こえてきた。ポツリ、ポツリと、鍵盤を叩く音。誰かの練習だろうか。しかし、その音はどこか不気味に歪んでいた。まるで、調律の狂った古いオルゴールのような……。

好奇心は猫を殺す。わかっているが、足は勝手に音楽室のドアに向かっていた。そっとドアの曇りガラスから中を覗き込む。

息を呑んだ。

そこにいたのは、月島澪だった。彼女は、誰もいないはずのピアノに向かって、凛とした表情で対峙していた。違う、よく見ろ。ピアノの周りには、陽炎のような黒いモヤが渦巻き、鍵盤が勝手に、不協和音を奏でているのだ。

「またお前か、『調律師の嘆き』。いい加減、成仏してくれないかな」

月島が呟いた瞬間、彼女が手にしていた生徒手帳がまばゆい光を放ち、一振りの光の剣へと姿を変えた。非現実的な光景に、俺の脳は処理を放棄する。なんだ、あれは。特撮か?

黒いモヤは、月島の言葉に呼応するように蠢き、ピアノの蓋を怪物のアギトのように大きく開閉させた。ガシャン!ガシャン!と耳障りな金属音が鳴り響く。

「面倒な……」

月島が光の剣を構え、黒いモヤに斬りかかろうとした、その時。

ギィ、と俺が寄りかかっていたドアが、情けない音を立てた。しまった、と後ずさるより早く、月島の鋭い視線と、黒いモヤから伸びるおぞましい影の腕が、同時に俺を捉えた。

「――ッ!馬鹿、なんでここに!」

月島の焦った声が響く。影の腕が、俺の胸ぐらを掴まんと迫る。もうダメだ。RPGならここでゲームオーバーの音楽が流れる。

しかし、影が俺に届く寸前、月島が間一髪で割り込み、光の剣でそれを両断した。霧散する影。俺は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

「……何、今の……お化け?」
「『バグ』よ。この学園に時々発生する、人の記憶や感情が起こすシステムの歪み。そして私たちは、それを人知れず修正する『帰宅部』」

月島は剣を消し、平然と言い放った。混乱する俺の背後から、ひょっこりと別の人物が顔を出す。

「やあ、見られちゃったか。新入部員候補くんだね」
にこやかな笑顔の、一つ上の神崎(かんざき)先輩。俺はこの人を知っている。いつも飄々としていて、女子にやたら人気のある生徒会長だ。
「部長……!説明は後です!まだ『コア』が残ってます」
「わかってるよ、月島さん。……で、相田くん。君には、あのピアノ、どう見える?」

神崎先輩に促され、俺は恐る恐るピアノに視線を戻す。黒いモヤは晴れたが、ピアノはまだ不気味なオーラを放っている。そして、俺の目には、他の二人には見えていないだろう”何か”が映っていた。

ピアノの椅子に、半透明の女子生徒がうなだれて座っている。泣いているようだった。

「……女の子が、座ってる……」

俺の言葉に、月島と神崎先輩がハッとした顔を見合わせた。
「正解。それがこのバグの『コア』。去年のコンクールで失敗して、ピアノを憎んで辞めていった子の未練の記憶だ。普通のデバッガーには見えないコアを、君は見つけ出した。……君、才能あるよ」

神崎先輩は楽しそうに笑う。
「月島さん、コアの座標は特定できた。あとは頼む」
「……了解」

月島は再び光の剣を構えると、一直線にピアノへ向かった。だが、彼女は剣を振り下ろさない。その切っ先を、俺が示した座標――泣いている少女の幻影の、その胸元にそっと触れさせた。

「大丈夫。あなたの音は、綺麗だったよ」

優しい声だった。いつもの彼女からは想像もできない、慈愛に満ちた響き。光が溢れ、少女の幻影は驚いたように顔を上げた。そして、満足したかのようにふっと微笑み、光の粒子となって消えていった。

ピアノを包んでいた不気味なオーラは完全に消え失せ、音楽室には夕暮れの静寂だけが戻ってきた。

「……これが、『帰宅部』の仕事。学園の平穏を正常に『帰す』ための部活。どう?面白そうだろう?」
神崎先輩が俺の肩を叩く。

面白い、か。腰はまだ抜けたままだし、心臓はバクバクいっている。正直、今すぐ家に帰って毛布にくるまりたい。

でも。
光の中で微笑んだ月島の横顔と、初めて知った学園の裏側。退屈だと思っていた日常が、一瞬で色鮮やかな冒険の世界に反転したような、奇妙な高揚感が胸の奥で燻っていた。

「……で、活動時間は、何時までなんですか?あんまり遅いと、ゲームのログインボーナス、逃しちゃうんですけど」

俺の精一杯の虚勢に、月島は呆れたように小さく息を吐き、神崎先輩は腹を抱えて笑った。

こうして、俺の全く意図しない形で、二つ目の「帰宅同盟」が結ばれた。面倒くさいけど、ちょっとだけワクワクする、黄昏時の秘密の部活動。俺の新しい日常が、今、始まった。

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