オペレーション・家族旅行

オペレーション・家族旅行

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「いいか、健太。家族旅行で最も大切なものは何か、わかるか?」
リビングに響く父・雄一の芝居がかった声に、高校生の俺、佐藤健太は内心で盛大にため息をついた。毎年恒例、夏休みの地獄が今年も幕を開けたのだ。
「……絆?」
「その通り! 家族の絆! この旅行は、我々佐藤家の絆を再確認し、より強固なものにするための聖なる儀式なのだ!」
大げさな身振りを交えて熱弁する父。キッチンでは、母・美咲がおっとりと微笑みながら、紫色のどろりとした液体をシェイカーで振っている。「健ちゃん、特製の栄養ドリンクよ。これで旅行中も元気いっぱいだからね」。姉の遥は、ソファの隅でスマホをいじり、イヤホンで外界をシャットアウトしているフリだ。
これが俺の家族。過剰に団結を強要する父、マッドサイエンティストじみた料理を作る母、クールを装う姉。正直、うんざりしていた。早くこの家を出て、一人暮らしをするのが俺の夢だった。

今年の目的地は、南の海に浮かぶ孤島の最新リゾートホテル。パンフレットの写真だけは、確かに楽園のようだった。だが、俺たちの家族旅行が普通に終わったためしはない。去年は山奥のキャンプで、父の指示で夜通し「方位磁石だけを頼りに指定ポイントまで到達する訓練」をさせられたし、一昨年は温泉旅行で「気配を殺して女湯の秘密を探る(という名の、姉へのお土産運び)」ミッションを課せられた。父曰く、「すべては人生を生き抜くためのサバイバル術」らしい。馬鹿馬鹿しい。

ホテルに到着すると、その豪華さに俺は少しだけ胸を躍らせた。しかし、すぐに違和感に気づく。やけに体格のいいベルボーイ、耳にインカムをつけた清掃員、そして、すれ違う客の目が妙に鋭い。
「素敵なホテルねえ」と母が言う隣で、父は鷹のような目でロビーの人間配置をスキャンしていた。姉の指は、スマホの画面上を恐るべき速度でタップし続けている。いつものことながら、俺だけが蚊帳の外だった。

その夜、事件は起きた。
自室のベッドで寝つけずにいると、リビングから微かな話し声が聞こえてきた。好奇心に負けてドアをそっと開けると、信じられない光景が広がっていた。
父と母、そして姉が、テーブルに広げられたホテルの立体図面を囲み、真剣な顔で話し込んでいる。父の声は、いつものようなふざけた調子ではなく、冷徹で理知的だった。
「ターゲットのコードネームは『カメレオン』。世界中の送電網を無力化するデータが入ったマイクロチップを所持している。奴がいるのは最上階のペントハウス。警備は厳重だ」
「私が従業員に変装して、ディナーに接触するわ。ハル、セキュリティシステムの掌握は?」と母が尋ねる。
「三十分あれば、メインサーバーを乗っ取れる。監視カメラはループ映像に切り替えるけど、赤外線センサーだけ厄介ね」
姉が、スマホの画面に表示された複雑なコードを見ながらこともなげに言う。
何だ、これは。ドラマか? それとも、俺の知らない壮大なドッキリか?
俺が息を呑んだ、その瞬間。
「――健太、いつからそこにいた?」
父が、背中を向けたまま静かに言った。全員の視線が俺に突き刺さる。空気が凍りついた。

観念したように、父はすべてを打ち明けた。
俺たち佐藤家は、国際平和を維持するための非公式諜報機関「ファミリー」に所属するエージェント一家であること。
父・雄一は、チームを率いる司令塔兼戦略家。母・美咲は、変装と薬品調合のプロ。姉・遥は、天才的なハッカー。そして、これまでの奇妙な家族旅行はすべて、俺を未来のエージェントとして育てるための、実践的な訓練だったのだ。キャンプはサバイバル術、温泉旅行は潜入スキル、父とのチェスは戦略的思考、母の手伝いは化学知識を養うため。すべてが、この日のために繋がっていた。
「お前を巻き込むつもりはなかった。だが、もはや選択の余地はない」
父がそう言った直後、けたたましい警報がホテル中に鳴り響いた。姉が「クソッ! 罠だ! こっちの動きが読まれてた!」と叫ぶ。どうやら、敵はこちらの潜入に気づき、ホテルごと封鎖してしまったらしい。

廊下から、複数の屈強な男たちが迫ってくる。絶体絶命のピンチ。
だが、俺の家族の顔に絶望はなかった。
「プランBに移行する! 美咲は撹乱、遥は脱出ルートを確保! 俺が敵を引きつける!」
父の号令一下、母は近くにあったリネンカートからシーツを掴むと、即席の煙幕弾を投げつけた。姉はノートパソコンを開き、猛烈なタイピングでホテルの電子ロックを次々と解除していく。
俺はただ、その光景に立ち尽くすだけだった。
「健太! ぼさっとするな!」
父の怒声が飛ぶ。その時、俺の頭に、これまでの「訓練」の記憶がフラッシュバックした。父に叩き込まれた、建物の構造を瞬時に把握するコツ。母とやった、換気ダクトを使ったかくれんぼ。姉と攻略した、難解なパズルゲーム。
「……父さん、ペントハウスに行くルートなら、もう一つある!」
俺は叫んでいた。
「ゴミ収集用のダストシュートだ! このホテルの設計図、前に父さんが見せてくれたパンフレットの隅に小さく載ってた!」
子供じみた、しかし誰も気づかなかった盲点。
父が一瞬目を見開き、ニヤリと笑った。「よくやった、健太! さすが俺の息子だ!」

そこからの展開は、まるで映画のようだった。
俺の提案したルートを使い、俺たちは敵の意表をついてペントハウスに侵入した。父の的確な指示が飛び、母が気配を消して警備員を無力化し、姉がハッキングで金庫のロックを解除する。
そして、ついにターゲット「カメレオン」を追い詰めた時、最後の護衛が俺に銃口を向けた。
死を覚悟した瞬間、横から飛んできた母の「特製栄養ドリンク」の瓶が男の顔面で炸裂した。強烈な異臭と煙に男がひるんだ隙に、俺は父から教わった体術で男の腕を捻り上げ、銃を奪い取っていた。自分でも信じられない動きだった。
マイクロチップを確保し、屋上のヘリポートから脱出する。眼下には、大混乱に陥ったリゾートホテルが見えた。

帰りの車内は、奇妙な静けさに包まれていた。
これまでうっとうしいだけだった家族が、今は最高にクールなチームに見える。
「……悪くなかったな、今年の家族旅行」
俺がぽつりと呟くと、父がバックミラー越しに笑った。
「だろ? で、来年はどこがいい? アマゾンの奥地で古代遺跡の謎を追うか、シベリアの秘密基地に潜入するか」
母が「あら、北欧でオーロラを見ながら、衛星ハッキングっていうのも素敵よ」と提案し、姉が「たまには宇宙もいいんじゃない? 無重力空間での戦闘訓練とか」と付け加える。
冗談なのか本気なのかわからない会話に、俺は初めて心の底から笑っていた。
「どこでもいいよ。面白ければね」
俺の新しい日常は、どうやら退屈とは無縁らしい。ワクワクする地獄へ、ようこそ。俺はもう、この家族から逃げ出したいなんて思わなかった。

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