星屑の宿題

星屑の宿題

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父の一周忌を終えた日の夜、母がおずおずと差し出したのは、一冊のくたびれた手帳だった。表紙には父の几帳面な文字で「調査記録」とある。郷土史家だった父が、生前肌身離さず持ち歩いていたものだ。

「これ、湊にって」
母・咲子の言葉に、俺、水野湊は眉をひそめた。三十にもなって、死んだ親父から何だというのか。ページをめくると、案の定、見慣れた父の癖字が並んでいた。タイトルは「湊への最後の宿題」。

一、夜明けの蝉時雨が満ちる場所で、北斗を探せ。
二、錆びた鉄の巨人が見下ろす丘で、影が最も短くなるのを待て。
三、……

続く奇妙な指示の羅列に、俺は深い溜息を漏らした。また親父の奇行だ。生前から、こうした突拍子もない思いつきで家族を振り回す人だった。現実主義者の俺とは、正直言って反りが合わなかった。
「くだらない」
そう吐き捨てると、母が悲しそうに顔を伏せた。「お父さんの、最後の頼みだから……」。細く震えるその声に、俺は弱い。結局、数日分の有給を申請し、この馬鹿げた宝探しに付き合う羽目になった。

翌朝、俺は眠い目をこすりながら、最初の指示にあった「夜明けの蝉時雨が満ちる場所」へ向かった。霧がかった朝靄の中、記憶を頼りにたどり着いたのは、町の外れにある神社の裏山。そうだ、ここは幼い頃、父に連れられてカブトムシを捕りに来た場所だ。ジジ、ジジ、と空気を震わせる蝉の声が、忘れていた記憶の蓋をこじ開ける。
「北斗を探せ」。意味が分からず、しばらくあたりを見回していると、ふと、苔むしたクヌギの古木に目が留まった。幹に、ナイフで彫られたような七つの傷。北斗七星の形だ。柄杓の先が指し示す根元を掘り返すと、果たして、小さなフィルムケースが出てきた。中には、次の指示が書かれた紙片が入っていた。

「錆びた鉄の巨人が見下ろす丘」。すぐにピンと来た。かつて町にあった遊園地の、大きな観覧車が見える小高い丘だ。閉園して久しく、観覧車は赤錆に覆われた骸のように空を突いている。指示通り、太陽が真上に来る正午にそこを訪れた。家族三人で弁当を広げた、あの日の光景が幻のように揺らめく。
「影が最も短くなるのを待て」。丘の隅に立つ、小さな石碑。その影が足元に縮こまった瞬間、影の先端部分の地面に、またしてもフィルムケースが半ば埋まっていた。

行く先々で蘇るのは、自分でも驚くほど鮮明な家族の思い出だった。父の大きな背中。母の朗らかな笑い声。くだらないと切り捨てていたはずの時間が、胸の奥をじんわりと温める。親父は、一体何がしたかったんだろう。面倒だという気持ちは、いつしか切実な疑問に変わっていた。

最後の指示は、こうだった。「始まりの場所で、思い出の音を探せ」。
始まりの場所? 俺が生まれた病院か。それとも、この実家か。いくら考えても、答えは出なかった。途方に暮れて母に相談すると、母はしばらく宙を見つめた後、ぽつりと言った。
「始まりの場所……。お父さんと私が、初めて会った場所のことかしら」
それは、町の中心にあった小さなプラネタリウムだった。だが、数年前に老朽化で閉館したはずだ。万策尽きたか、と俺が肩を落としたその時、母が「あそこなら」と俺を父の書斎へ導いた。

埃っぽい書斎の奥、大きな布がかけられた一角。母が布をめくると、そこには古びた機材と、傘の骨組みのような奇妙な機械が鎮座していた。父が自作した、手製のプラネタリウム投影機だった。星が好きで、郷土の歴史と同じくらい、夜空の物語を愛した人だった。
スイッチを入れると、モーターの低い唸りと共に、書斎の壁と天井に無数の光の点が散りばめられた。息を呑むほど美しい、満天の星空。そして、どこからか、掠れた音質の音楽が流れ始めた。古いカセットデッキからだ。父が好きで、家族旅行の道中、車の中でいつもかかっていた、あの曲。

懐かしいメロディが終わり、静寂が訪れる。テープが終わったのかと思った、その時だった。
『……湊、咲子。ここまで、たどり着いてくれたか』
スピーカーから響いたのは、紛れもない父の声だった。少し照れたような、それでいて温かい、あの声。
『この宿題はな、俺がいなくなった後、お前たちが寂しくないようにって考えたんだ。金や土地じゃなくて、俺たちの宝物は、一緒に過ごした時間そのものだろう。だから、もう一度思い出してほしかった。……湊、これからは、お母さんを頼むな。そして咲子、愛しているよ。また、この星空の下で会おう』
最後の方は、明らかに声が震えていた。俺は、父の不器用で、あまりにも深い愛情の形に、ただ立ち尽くすしかなかった。頬を伝う熱い雫を拭うことも忘れ、隣で静かに肩を震わせる母の手を、そっと握った。父が遺した最後の宿題は、バラバラになりかけた家族の心を、もう一度強く結びつけるための、壮大な仕掛けだったのだ。

東京へ戻る日、俺は母を連れて、宿題の場所をもう一度巡った。錆びた観覧車を見上げる丘の上で、母は「お父さん、不器用だけど、本当はロマンチストだったのよ」と、少女のように微笑んだ。今まで知らなかった両親の物語が、そこにはあった。

駅のホームで別れる間際、俺は母に言った。
「またすぐ帰ってくるよ。今度は、母さんの行きたいところに付き合うから」
驚いたように目を見開いた母が、嬉しそうに頷く。その顔を見届け、俺は新幹線に乗り込んだ。

走り出した車窓の景色を眺めながら、父の手帳をもう一度開く。宿題が書かれたページの隅に、見落としていた小さな文字があることに気がついた。

『追伸:答え合わせは、いつかそっちでな』

悪戯っぽく笑う父の顔が目に浮かび、俺は思わず吹き出した。親父との対話は、まだ終わっていない。家族という名の物語は、この先も続いていく。俺は窓の外に広がる空を見上げ、そう確信した。

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