山田家の食卓協定(テーブルクロス・プロトコル)

山田家の食卓協定(テーブルクロス・プロトコル)

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山田家の朝は、いつもと同じ光景から始まる。
味噌汁の香りが漂うダイニング。父の髙志が新聞の株価欄に眉を寄せ、母の美咲が完璧な厚さに切られたトーストを皿に並べる。高校生の姉、玲奈は無表情でスマートフォンをスワイプし、小学生の弟、健太は口の周りにケチャップをつけながらソーセージを頬張っている。テーブルの下では、愛犬のポチが静かに尻尾を振っていた。
どこにでもある、日本の平凡な家族の朝だ。

「あら、あなた。今日のネクタイ、少し曲がっているわよ」
美咲が髙志の首元に手を伸ばす。それは「ターゲットAの監視網に変化あり」という合図だ。
髙志はネクタイを締め直しながら、わざとらしく咳払いをした。
「んん。どうも調子が悪い。週末はゆっくり温泉にでも行きたいもんだ」
それは「警戒レベルを一段階引き上げろ。週末までに状況を打開する必要がある」という意味だった。

「私、今日の体育、持久走だ。最悪」
玲奈がスマホから顔も上げずに呟く。翻訳すれば「敵のサーバーへの侵入経路、特定に時間がかかっている」。
「姉ちゃん、がんばれ! オレ、昨日ゲームで新記録出したんだぜ!」
健太が元気よく叫ぶ。これは「物理的潜入の準備は万端。いつでも行ける」という報告だ。

山田家。彼らの正体は、いかなる国家にも属さず、世界の均衡を陰から守る超法規的スパイ組織『ファミリー』の精鋭チームである。父・髙志は戦略担当のリーダー〈ファルコン〉。母・美咲は潜入と交渉のプロ〈ウィステリア〉。姉・玲奈は天才ハッカー〈エコー〉。そして弟の健太は、その小柄な体格と驚異的な身体能力を活かすフィールドエージェント〈タートル〉。愛犬ポチですら、最新鋭の光学迷彩とセンサーを備えたサイバネティック偵察犬だ。

その日の午後、事態は急変した。
髙志のスマートフォンが、家族にしか聞こえない特殊な周波数でアラートを鳴らした。全世界の金融システムを60秒で破壊するテロ計画――コードネーム『メルトダウン』が、今夜決行されるという。
夕食の食卓に並んだのは、熱々のクリームシチューだった。しかし、それはもはやただの夕食ではなかった。作戦前の最後の晩餐だ。

「今夜のシチュー、少し煮込みすぎたかしら」
美咲の言葉を皮切りに、山田家の作戦会議が始まった。
「いや、これくらいが丁度いい。だが、ジャガイモが少し硬いな」
髙志が言う。敵の本拠地は特定済み。だが、中枢部の警備が予想以上に強固だ、という意味だ。
リビングの壁に掛かった何の変哲もない家族写真が、カシャリと音を立てて裏返り、巨大なタッチスクリーンに変わる。そこに映し出されたのは、都心にそびえ立つ超高層ビルの立体図だった。

「私が最上階のパーティーに潜り込んで、CEOの網膜データをスキャンする」
美咲がサラダを取り分けるふりをして、指先でスクリーン上の侵入経路をなぞる。
「その隙に、オレが地下のサーバー室に忍び込む。冷却ダクトから行けるはずだ」
健太がスプーンを片手に、身を乗り出す。
「サーバー室のロックを解除するには、玲奈のハッキングが不可欠よ」
「分かってる。でも、最低でも3分は稼いでくれないと、こっちが焼かれる」
玲奈が冷めた口調で言う。その目は、高速で流れ落ちるデータコードを追うように、鋭く光っていた。
「全員、時計を合わせろ。作戦開始は22時ちょうど。……ごちそうさま」
髙志がナプキンで口を拭き、静かに立ち上がった。それは、出撃の合図だった。

夜の闇が街を包む頃、山田家はそれぞれの戦場にいた。
カクテルドレスを纏った美咲は、ターゲットのCEOに妖艶な笑みで近づき、会話の隙にコンタクトレンズ型のスキャナーを作動させる。一方、黒い特殊スーツに身を包んだ健太は、ポチのステルス機能を道案内に、レーザーセンサーが張り巡らされたダクト内を、重力を感じさせない身のこなしで進んでいく。
自宅の地下、要塞のような指令室では、玲奈の指が嵐のようにキーボードを叩いていた。
『――ママ、データ受信。解析開始』
『――健太、あと2メートルで赤外線トラップ。3秒間だけ解除する。駆け抜けろ!』
玲奈の冷静な声が、インカムを通して家族の耳に届く。
髙志は司令塔として、全ての情報をリアルタイムで把握し、的確な指示を飛ばしていた。それはまるで、百戦錬磨の指揮者がオーケストラを操るかのようだった。

だが、敵もまた一流だった。
美咲のスキャンが完了した直後、CEOの懐から警報が鳴り響いた。「侵入者だ!」。パーティー会場は一瞬にしてパニックに陥る。
同時に、サーバー室に到達した健太の目の前で、分厚い隔壁が閉まり始めた。罠だ。
「まずい!敵のAIに逆探知された!システムがロックされる!」
玲奈の悲鳴が響き渡る。

万事休すかと思われた、その時。
髙志が、静かに、しかし力強く告げた。
『プランBに移行する。――テーブルクロス・プロトコル、発動』
それは、山田家に伝わる最終奥義。各々が持つ即興性と、家族だからこそ可能な阿吽の呼吸を最大限に活かす、究極の連携技だった。

次の瞬間、美咲はハイヒールを脱ぎ捨てると、テーブルクロスを勢いよく引き抜いた。無数のグラスや皿が宙を舞い、シャンデリアのワイヤーに絡みついてショートさせる。停電で生まれた漆黒の闇の中、彼女は煙のように姿を消した。
健太は迫りくる隔壁に向かって、隠し持っていた特殊ワイヤーガンを発射。壁に突き刺さったフックを支点に体を振り子のように使い、閉まる寸前の隙間をスライディングで潜り抜ける。
「玲奈!今だ!」
健太がサーバー本体に直結させたデバイスから、膨大なデータが玲奈の元へ逆流する。それは敵AIの防御システムの生データだった。
「もらった!」
玲奈の口元に、初めて笑みが浮かんだ。彼女は敵の盾を矛に作り替え、システムの心臓部へとカウンターハッキングを仕掛ける。

発動まで、残り10秒。
玲奈の指がエンターキーを叩きつける。
世界中の金融機関のモニターに、破滅のカウントダウンではなく、山田家の愛犬ポチが間抜けな顔で昼寝をしている映像が映し出された。
『メルトダウン』は、回避された。

翌朝。
山田家の食卓は、昨夜の激闘が嘘のように平穏だった。
「昨日のクリームシチュー、ちょっと焦げ付いちゃったわね」
美咲が寝不足の目をこすりながら言う。
「いや、あの香ばしさがいいアクセントだったよ。また作ってくれ」
髙志が新聞から顔を上げて、笑った。
玲奈と健太は、互いの健闘を称えるように、テーブルの下でそっと拳を突き合わせる。

彼らの「家族の会話」は、今日も続く。
世界のどこかで新たな危機が生まれ、食卓に並ぶメニューが変わるその日まで。山田家の平凡な日常は、こうして守られていくのだ。

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