***第一章 十年目の手紙***
神崎健太の元に、今年も父からの手紙が届いた。十年前、胃癌であっけなく逝ってしまった父が、生前に手配したという、ふざけたサービスだ。毎年、七月十五日の命日きっかりに。
「また来たのか」
ダイニングテーブルの上、無遠慮に置かれた白い封筒を、健太はバターナイフを持つ手で無造作に指した。妻の美咲は「あなたのお父さんらしいじゃない」と、淹れたてのコーヒーの湯気の向こうで微笑む。
これまでの九年間、手紙の内容は決まって他愛のないものだった。自由奔放に生きた木工職人の父らしい、説教じみた人生訓か、あるいは健太が忘れてしまったような幼い頃の思い出話。真面目にコツコツと生きることを是とする健太にとって、父の生き方は常に反発の対象だった。その残滓のような手紙に、毎年うんざりさせられる。
だが、小学校にあがったばかりの娘、ひかりだけは違った。
「おじいちゃんからのお手紙? 今年はなんて書いてあるの?」
トーストを頬張りながら、ひかりが目を輝かせる。会ったことのない祖父からの手紙は、彼女にとってサンタクロースからの便りのように特別なものらしい。その純粋な期待に、健太はいつも罪悪感にも似た居心地の悪さを覚える。
渋々と封を切る。いつもより少し厚みのある便箋。そこに綴られていたのは、見慣れた父の、丸みを帯びた力強い文字だった。だが、その内容は明らかにこれまでと異なっていた。
『健太へ。十年だ。長かったか、短かったか。お前にとっては、鬱陶しいだけの十年だったかもしれんな。だが、今年でこの手紙も最後だ。
最後に、お前に宝物をやろうと思う。最後の宝探しだ。
地図は、お前が一番嫌っていた場所に隠した。覚えてるか? 鼻をつまんで、いつも逃げ出そうとしていたあの場所だ。
見つけるも、見つけないもお前の自由だ。だが、親父からの最後の頼みだ。ひかりにも見せてやってくれ。あの子なら、きっと本当の宝物の価値が分かるだろうから』
健太は眉をひそめた。宝探し? 死んでまで人をからかうのが好きな男だ。そして「一番嫌っていた場所」と聞いて、すぐにピンときた。埃と木屑、そして機械油の匂いが染みついた、実家の工房の奥にある薄暗い倉庫。父に無理やり手伝わされては、ささくれだらけになった指先を眺め、なぜ自分はサラリーマンの息子に生まれなかったのかと、子供ながらに本気で憎んだ場所だ。
「宝物だって!」
ひかりが椅子から飛び降りんばかりに声を上げた。「行こうよ、パパ! おじいちゃんの宝物、見つけたい!」
その隣で、美咲が健太の顔を覗き込む。「行ってあげたら? きっと、お義父さんからの大事なメッセージよ」。
父への反発心と、家族の期待。二つの感情が胸の中でせめぎ合う。結局、健太は重い溜息と共に立ち上がった。十年目の命日に、健太は初めて、父の遺した言葉に真正面から向き合うことになったのだ。
***第二章 埃まみれの記憶***
父が亡くなって以来、足を踏み入れていなかった実家の工房は、時が止まったかのように静まり返っていた。ガラス窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う無数の埃をきらきらと照らし出している。鼻腔をくすぐる、懐かしくも忌まわしい木の匂い。健太は無意識に眉間に皺を寄せた。
「うわあ、木の匂い! いい匂いだね、パパ」
ひかりは対照的に、目を輝かせながら工房の中を駆け回る。壁に掛けられた錆びたノコギリや、作業台の上に放置されたままのカンナ。彼女にとっては、すべてが目新しい遊び道具に見えるらしかった。
「こっちだ」
健太は工房の奥、軋む床板を踏みしめながら、問題の倉庫の扉に手をかけた。重い引き戸を開けると、黴と埃が混じった淀んだ空気が、堰を切ったように流れ出てくる。
そこは、健太の記憶にある通りの場所だった。積み上げられた木材の山、用途の分からない古い機械、そして壁際には父の愛用した大きな作業台が鎮座している。
「このどこかに地図があるんだね!」
ひかりは探検家気取りで、小さな懐中電灯を片手に倉庫の隅々を照らし始めた。健太は、そんな娘の姿を眺めながら、子供の頃の苦い記憶を反芻していた。父はいつもこの場所で、何かに取り憑かれたように木を削っていた。学校から帰ると、決まって「健太、手伝え」と声をかけられる。友達と遊びたい盛りの健太にとって、それは苦痛でしかなかった。父の大きな背中は、息子ではなく、ただ目の前の木材にしか向いていないように見えた。
「パパ、見て! この引き出し、開かないよ」
ひかりの声に、健太は我に返った。娘が指差しているのは、作業台の一番下の、固く閉ざされた引き出しだった。健太が力を込めて引いても、びくともしない。何かコツがあるのだろうか。健太は引き出しの周りを指でなぞった。すると、側面の目立たない場所に、小さな窪みがあることに気づく。そこを押し込むと、カチリ、と微かな音がして、引き出しがわずかに開いた。父の、職人らしい細工だった。
引き出しの奥には、桐でできた小さな箱が一つ、静かに収まっていた。蓋を開けると、中から出てきたのは、羊皮紙のように茶色く変色した一枚の紙と、鈍い光を放つ小さな真鍮の鍵だった。
紙を広げると、それは手書きの地図だった。見慣れた近所の公園の略図だが、中央に立つ一本の大きな桜の木に、赤いインクでバツ印がつけられている。
「宝の地図だ!」ひかりが歓声を上げた。
健太は、その単純な仕掛けに、またしても父にからかわれているような気がして、溜息をついた。しかし、ひかりの満面の笑みを見ては、もう後には引けなかった。
「よし、行くか」
父の掌の上で踊らされているのは癪だったが、娘の期待に満ちた手を握りしめ、健太は埃まみれの記憶の場所を後にした。
***第三章 桜の下の真実***
公園の桜は、町の名物だった。春には薄紅色の花が咲き乱れ、夏には力強い緑の葉が涼やかな木陰を作る。地図が示すのは、その一番大きな古木の根元だった。
「ここだね、バツ印の場所」
ひかりが指さす先には、しかし宝箱の類は見当たらない。ただ、苔むした小さな石碑が、ひっそりと佇んでいるだけだった。健太は首を傾げた。石碑には、見慣れない文字が刻まれている。
『愛する妻、陽子と共に』
陽子。それは、健太が五歳の時に病気で亡くなった、母の名前だった。しかし、母の墓は町の共同墓地にあるはずだ。なぜ、こんな公園の片隅に? 混乱する健太の思考を遮るように、ひかりが声を上げた。
「パパ、これ見て! 鍵の穴があるよ!」
見ると、石碑の土台部分に、草に隠れるようにして小さな鍵穴があった。まさか、と思いながら、健太はポケットからあの真鍮の鍵を取り出す。震える手で鍵を差し込み、回すと、重い石が擦れる音と共に、石碑の一部が静かに横にずれた。
現れたのは、人が屈んで入れるほどの小さな空洞だった。その奥に、工房で見つけたものより一回り大きな木箱が置かれている。宝箱だ。しかし、健太の胸は、期待よりも不吉な予感で早鐘を打っていた。
箱は重かった。ひかりと二人でやっとの思いで引きずり出し、蓋を開ける。中身は、金銀財宝ではなかった。そこにあったのは、丁寧に束ねられた、夥しい数の手紙の束だった。一番上の束には、父の字でこう書かれていた。
『天国の陽子へ』
それは、父が亡き母に宛てて、何十年も書き続けた手紙だった。健太は、まるで禁断の書物を開くかのように、最初の一通を手に取った。日付は、健太が六歳の誕生日を迎えた翌日。
『陽子、健太が六つになったぞ。お前がいなくなって、もう一年だ。あいつはまだ、「お母さんはお星さまになった」という俺の嘘を信じている。本当のことを言えるわけがない。お前が、俺たちのことを忘れていく病気になってしまったなんて。日に日に幼女のように戻っていくお前を見るのが辛くて、施設に入れるしかなかった俺を、許してくれるな』
健太の全身から、血の気が引いていくのが分かった。次の手紙、また次の手紙へと、憑かれたように目を走らせる。そこには、健太の全く知らない「家族の真実」が綴られていた。
母は、若年性のアルツハイマー病を患っていた。家族の記憶を失っていく自分に耐えられず、自ら療養施設に入ることを選んだのだ。父は、幼い健太を傷つけまいと「母は死んだ」という嘘をつき、たった一人で息子を育て上げた。そして、毎週欠かさず施設に通い、自分のことも分からなくなってしまった妻に、この手紙を読み聞かせていたのだ。
健太が嫌っていた工房での時間も、父が不器用ながらに息子との絆を繋ぎ止めようとした、必死の努力だった。仕事に没頭しているように見えたのは、愛する妻を失った悲しみと、一人で息子を育てる重圧から逃れるための、唯一の術だったのだ。
母が亡くなった後、父は遺骨の一部を、母が大好きだったこの桜の木の下に埋めた。「お前がいつでも会いに来られるように」と。
手紙の束の底から、最後の一通が出てきた。それは、父が亡くなる一週間前に書かれたものだった。
『健太は、立派な男になった。俺とは違う、堅実で、優しい男だ。あいつは俺を嫌っているだろうが、それでいい。俺の不器用な愛情が、あいつをがんじがらめにするよりずっといい。
陽子、もうすぐそっちへ行く。長かったな。今度こそ、ずっと一緒だ。
健太に残す宝物は、この真実だけだ。あいつがいつか、本当の意味で家族を愛せる男になった時、この場所に辿り着いてくれると信じている』
健太は、もう立っていられなかった。桜の木の根元に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。父への長年の誤解、反発、憎しみ。それらがすべて、巨大な後悔と感謝の波となって押し寄せる。父が遺した最後の宝物は、金では買えない、何よりも尊い「愛の記憶」だったのだ。
***第四章 見えない宝物***
どれくらいの間、そうしていただろうか。不意に、小さな手が健太の背中を優しく撫でた。見上げると、ひかりが心配そうな、それでいて全てを理解したような瞳で、じっとこちらを見つめていた。
「おじいちゃん、パパのこと、大好きだったんだね」
その言葉に、健太の涙腺は再び決壊した。そうだ、父は、不器用なやり方でしか伝えられなかったけれど、確かに自分を愛してくれていた。その計り知れない愛に、自分は今まで気づくことすらできなかったのだ。
健太は娘を強く抱きしめた。温かい体温が、凍てついていた心をゆっくりと溶かしていく。
数日後、健太はひかりを連れて、再び父の工房を訪れた。かつては忌まわしいだけだった木の匂いが、今は父の温もりそのもののように感じられた。作業台の上に残された使い古しのノミを、健太はそっと手に取る。そして、傍らにあった木片を、おそるおそる削り始めた。ぎこちない手つきで、形にもならない。だが、不思議と心は満たされていた。何かを創り出すことで、父と繋がれるような気がした。
その夜、健太は書斎で、父が毎年送ってきた十通の手紙を、一通目から丁寧に読み返した。かつては鬱陶しいだけだった言葉の一つ一つが、今は父の深い愛情を帯びて胸に染み渡る。そこには、息子への気遣い、成長を喜ぶ声、そして言外に滲む寂しさが、痛いほどに詰まっていた。
リビングに戻ると、ひかりがソファで健太を待っていた。
「パパ、おじいちゃんとおばあちゃんのお話、もっと聞きたいな」
健太は娘の隣に腰を下ろし、穏やかな声で語り始めた。
「おじいちゃんはな、とても不器用な人だったんだ。でも、誰よりもおばあちゃんのことを、そしてパパのことを愛してくれていた。おばあちゃんは、病気で僕たちのことを忘れちゃったけど、きっと心のずっと奥の方で、僕たちのことを想っていてくれたんだよ」
父から子へ。そして、孫へ。
見えない愛のバトンが、確かに受け継がれた瞬間だった。健太の顔には、もう長年の葛藤の影はない。父が遺した最後の宝物は、健太自身の中に、新しい家族の物語として、今、確かに息づき始めていた。桜の木の下で、父はずっと待っていたのだ。息子が、本当の宝物を見つけに来る日を。そしてその宝物は、これから健太が家族と紡いでいく未来そのものなのだった。
桜の下で、父は待っていた
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