佐藤さんちの秘密の食卓

佐藤さんちの秘密の食卓

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佐藤家の朝は、いつだって戦場だ。

「パパ、またコーヒーこぼしたの!?」
「す、すまん!」

父・健一が慌ててテーブルを拭こうとするより早く、床に広がっていた黒い染みが、まるで逆再生映像のようにシュルシュルと収縮し、ひっくり返ったカップの中へと吸い込まれていった。カップはひとりでに立ち上がり、元の位置にカタンと収まる。健一は「ふぅ」と安堵のため息をつき、何事もなかったかのように新聞を広げた。彼の能力は『5秒巻き戻し』。失くし物探しと、こういう小さな失敗の隠蔽においては、右に出る者はいない。

「お父さん、能力の無駄遣いよ」

キッチンから呆れた声で言ったのは、母の美咲だ。彼女は味噌汁の味見をしながら、そっとお椀に指を触れた。ほんの少しだけ塩気が足りなかった味噌汁は、次の瞬間、料亭で出されるような完璧な旨味とコクを帯びていた。触れた液体の成分を自在に変える『錬金術師の指』を持つ彼女にとって、最高の食卓を整えることなど造作もない。

「凛! あんたも早くしないと遅刻するわよ!」
「わかってるって!」

階段を駆け下りてきたのは、高校生の長女・凛。その足取りは、まるで羽毛のように軽い。彼女は食パンを一枚ひったくると、重力を無視したかのような跳躍で玄関へ向かう。彼女の能力は『質量変化』。体重を紙切れ同然に軽くして走れば、どんな急な坂道も平地のように駆け上がれるのだ。

そして、リビングのソファの陰で、末っ子の湊がこっそり携帯ゲーム機で遊んでいた。ピコピコという操作音も、ゲームから流れる軽快なBGMも、彼の周囲3メートルだけは完全に無音の世界と化している。半径内の音を奪う『サイレント・ワールド』。授業中に居眠りをするにも、夜更かしをするにも、これほど便利な能力はなかった。

そう、佐藤家は、一見すればどこにでもいるごく普通の四人家族。
しかしその実態は、それぞれが秘密の特殊能力を持つ、超人一家なのである。

その日の夕食も、美咲の完璧なハンバーグを囲み、平和な時間が流れるはずだった。
湊が唐突に言った。
「ねえ、なんか家の周り、変な感じしない?」
「変な感じって?」と凛が聞き返す。
「なんていうか……静かすぎるんだ。虫の音も、遠くの車の音も聞こえない」
湊の能力は音を消すだけだが、その分、彼の聴覚は異常に鋭い。家族は湊の言葉に、箸を止めた。
その瞬間だった。

ガッシャーン!

リビングの窓ガラスが、けたたましい音を立てて砕け散った。黒い戦闘服に身を包んだ男たちが、特殊な形状の銃を構え、次々と室内に雪崩れ込んでくる。
「な、なんだお前たちは!」
健一が叫ぶ。リーダー格の男が、冷たい声で言った。
「『因子』保持者、佐藤一家だな。我々は『箱舟』。お前たちのその忌まわしき力を、回収しに来た」

絶体絶命。しかし、佐藤家はただの超人一家ではなかった。彼らは、最強の『家族』だった。

最初に動いたのは健一だった。
「美咲! 凛! 湊! いつものフォーメーションだ!」
その号令が、反撃の狼煙だった。

「はいはい、お掃除の時間よ!」
美咲がシンクの蛇口をひねる。迸ったただの水は、彼女が床に叩きつけると同時に、超強力な粘着液へと変化した。男たちの足が床に張り付き、動きが鈍る。

「そこっ!」
その隙を突き、凛が踏み込んだ。彼女は自分の体重を一気に数トンまで増加させ、重戦車のような踏み込みで男たちをなぎ倒していく。軽々と人を吹き飛ばすその姿は、朝の軽やかな姿とは似ても似つかない。

だが、敵もさるもの。一人が体勢を立て直し、銃口を湊に向けた。
「まずい!」
健一が叫んだ瞬間、湊は自分の能力を全開にした。
『サイレント・ワールド』――しかし、今回は音を消すためではない。銃声が生まれる『瞬間』、その衝撃音と発射音のエネルギーそのものを『無』に変換したのだ。
カチリ、と空虚な撃鉄の音だけが響き、弾丸は銃口から発射されることなく、力なく床に落ちた。男が驚愕に目を見開く。

「うちの息子に、なにしてくれるんだ」

背後から聞こえたのは、健一の静かな怒りの声だった。男が振り向くと同時に、彼の持っていた銃が手から消え、5秒前の状態――壁に立てかけられていた位置へと瞬間移動していた。
「なっ……!?」

家族の完璧な連携プレー。それは、日々の食卓で、何気ない会話の中で、くだらない喧嘩の中で育まれた、誰にも真似のできない絆の形だった。

リーダー格の男が、忌々しげに舌打ちした。
「ちっ……噂以上の連携だな。だが、これで終わりだ!」
男が懐から取り出したのは、小さな球体だった。
「半径50メートル以内の『因子』を暴走させる爆弾だ。お前たちは自らの力に飲み込まれて消える!」
男がスイッチを押そうとした、その刹那。

「『5秒巻き戻し』」

健一の低い声が響いた。
男の指は、スイッチを押す寸前で止まり、ゆっくりと元の位置へ戻っていく。
「なにっ!?」
男は再びスイッチを押そうとする。だが、また指が戻される。何度繰り返しても、彼の時間は『スイッチを押す5秒前』に固定され、永遠に目的を達成できない。まるで無限ループの牢獄だった。

「僕の能力は、時間を巻き戻すだけだ」
健一は、呆然とする男に歩み寄りながら言った。
「派手な攻撃も、派手な防御もできない。だがな、お前がこれからしようとすること、その『未来』だけは、俺が絶対に許さない」

それは、家族の未来を守ろうとする、父親の最も強く、そして優しい宣言だった。

後始末は大変だったが、警察には「過激な訪問販売のトラブル」で押し通した。割れた窓ガラスを見ながら、美咲がため息をつく。
「もう、夕食が台無しだわ」
「大丈夫だよ母さん!」凛が笑う。「また作ってよ、世界一のハンバーグ!」
「僕、今度から能力で家の警備する」と湊が得意げに胸を張る。
健一は、そんな家族の顔を優しく見つめ、静かにつぶやいた。
「さて、明日の朝食は何にしようか」

佐藤家の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
だが、この家族がいる食卓が、世界で一番安全な場所であることだけは、間違いなさそうだった。

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