弁護士の乾いた声が、グランドピアノの置かれただだっ広いリビングに響き渡った。「——以上をもちまして、故・柏木宗一郎氏の遺言といたします」
そこにいたのは、柏木家の四人。しがない町工場を営む父・雄一郎、パート主婦の母・恵子、エリート商社勤めの長女・沙織、そして夢に破れてフリーターをしている俺、次男の健太。
遺言の内容は、あまりに突飛だった。
「我が全財産は、この屋敷に隠された『私の最も大切な宝』を、日没までに見つけ出した者に相続させる。ルールは一つ。家族で協力すること。健闘を祈る。柏木宗一郎」
「……ふざけてる」最初に沈黙を破ったのは、姉の沙織だった。きっちりアイロンのかかったブラウスが、怒りでかすかに震えている。「最後まであのじいさんらしいわ。宝探しごっこなんて」
「まあまあ、沙織。おじいちゃんなりの、最後のジョークなのよ」母さんがおっとりとなだめる。
父さんは腕を組んだまま、複雑な表情で天井のシャンデリアを見上げていた。
俺、健太は内心で舌打ちした。祖父は発明家であり、冒険家であり、一代で財を成した怪物。そして、人を食ったような冗談が三度の飯より好きな男だった。そんな祖父が建てたこの屋敷は、隠し扉やからくりが満載の、巨大なびっくり箱だ。
「くだらない。俺は帰る」立ち上がろうとした俺を、沙織が鋭い視線で射抜いた。「あんたはいいでしょうね、失うものがないから。こっちは人生かかってるのよ。この遺産があれば……!」
その言葉に、俺の中の何かがカチンときた。「どうせ姉さんが欲しいのは金だけだろ。宝なんてどうでもいいくせに」
「当たり前でしょ! あんたみたいにフラフラしてる人間には分からないでしょうけどね!」
火花が散ったその時、壁に掛かっていた古めかしい鳩時計が、けたたましく鳴り響いた。時刻は正午。すると、文字盤がくるりと回転し、一枚の羊皮紙が滑り落ちてきた。
『最初のヒント:家族が初めて四人揃って笑った日、時計の針は何を指していた?』
「四人揃って笑った日……?」母さんが首を傾げる。
「そんなの覚えてるわけないだろ」俺が吐き捨てると、父さんがぽつりと言った。
「……健太が生まれた日だ。病院からの帰り、このリビングで撮った写真がある」
父さんは埃をかぶったアルバムを引っ張り出してきた。そこには、赤ん坊の俺を抱いてぎこちなく笑う父さんと、その横で少し得意げな幼い沙織、そして幸せそうに微笑む母さんが写っていた。写真の隅には、祖父の字で『午後三時、新メンバー加入!』と記されている。
「午後三時……」沙織が鳩時計の長針を掴み、三の位置まで動かした。すると、カチリ、と軽い音がして、暖炉の奥から冷たい風が吹き込んできた。暖炉の壁が、隠し扉になっていたのだ。
「す、すごい……」
さっきまでの険悪なムードはどこへやら、俺たちは顔を見合わせた。まるで冒険映画の主人公になった気分だった。
隠し通路の先は、三つの部屋に分かれていた。それぞれの扉には、俺たち子供の名前と、父さんの名前が記されている。
沙織の部屋には、彼女が小学生の頃に描いた油絵が飾られていた。コンクールで入賞を逃し、悔し紛れに破り捨てたはずの絵だ。壁には『敗北の先に、何を見る?』という謎の言葉。
俺の部屋には、高校時代に組んでいたバンドの壊れたギターと、手書きの楽譜。「挫折のメロディを、完成させよ」とある。
父さんの部屋は、もっとすごかった。世に出ることなく失敗に終わった発明品の山。その中央に『夢の残骸に、再び火を灯せ』というメッセージ。
一人では、どの謎も解けなかった。
沙織は、絵の具の配合を思い出せずに行き詰まった。それを見ていた母さんが、「あら、この青色、あなた昔、お父さんの工場のペンキをこっそり混ぜて作ってたわよね」と呟いた。
俺は、楽譜のコード進行が分からず頭を抱えた。すると、意外にも父さんが「その旋律、昔じいさんが口ずさんでいたアイルランド民謡に似てるな。確か……」と鼻歌を歌い始めた。
父さんの発明品は、動力源が足りずに動かなかった。それを見た沙織が、「待って、この構造、私の会社の最新バッテリーで応用できるかもしれない!」とスマホで設計図を検索し始めた。
俺たちはいつの間にか、互いの欠点をなじり合うのではなく、互いの知識と記憶を補い合っていた。沙織は父の発明の意図を理解し、俺は姉の絵に込められた情熱を初めて知った。父さんは、俺の音楽を馬鹿にすることなく、そのルーツを教えてくれた。
全ての謎を解いた時、三つの部屋の床から、それぞれ奇妙な形の鍵がせり上がってきた。それらを組み合わせると、屋根裏部屋へと続く、一つの鍵が出来上がった。
日没まで、あとわずか。
息を切らして屋根裏部屋の扉を開けると、そこには拍子抜けするほど何もない、がらんとした空間が広がっていた。金塊も、証券の束もない。ただ中央に、ポツンと一台の古びた8ミリ映写機が置かれているだけ。
「……これだけ?」沙織の声が震えている。「宝って、これのこと? じいさん、私たちをからかったのよ!」
悔しそうに床を叩く姉の横で、俺はフィルムを手に取り、映写機にセットした。スイッチを入れると、カタカタと音を立てて、壁に光の四角が映し出される。
そこにいたのは、俺たちが生まれるずっと前の、若き日の家族だった。
まだ小さな町工場で、油にまみれながら夢中で機械をいじる父さん。それを茶化しながらも、誰より楽しそうに手伝う祖父。二人に温かいお茶を運び、幸せそうに見守る母さん。三人が、ただひたすらに笑い合っている。失敗しても、貧しくても、希望に満ち溢れていた。
やがて映像が終わり、壁に祖父の震えるような手書きの文字が映し出された。
『私の宝物は、金じゃない。お前たちが、夢を見て、笑い合っていた時間そのものだ。この屋敷も、会社も、金もくれてやる。だから、もう一度、夢を見てみろ。家族でな』
光が消えた屋根裏部屋に、沈黙が落ちた。窓の外は、燃えるような夕焼けに染まっている。
最初に、母さんが静かに泣き出した。それにつられるように、沙織が声を上げて泣いた。父さんは、天井を仰いで涙をこらえている。
俺も、鼻の奥がツンとして、視界が滲んだ。
遺産なんて、どうでもよかった。俺たちは、祖父が仕掛けた最後にして最高の宝探しで、金よりもずっと大事なものを見つけ出したのだ。
「……腹、減ったな」
父さんが、無理やり作ったみたいな笑顔で言った。
「そうね。今日は、健太の好きな唐揚げにしましょうか」
母さんが涙を拭って笑う。
「異議なし。ただし、お会計は相続人でお願いするわ」
沙織が、まだ赤い目で意地悪く笑った。
俺は、声を出して笑った。バラバラだったはずの柏木家が、何年かぶりに、四人揃って笑った瞬間だった。時計の針は、新しい未来を指して、確かに動き始めていた。
柏木家、最後にして最高の宝探し
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