月詠学園の影踏み遊戯

月詠学園の影踏み遊戯

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俺、高槻湊が私立月詠学園に転校してきた初日、最初に感じたのは強烈な違和感だった。
広大なキャンパス、最新鋭の設備、そしてすれ違う生徒たちの誰もが優秀そうな雰囲気を纏っている。非の打ち所がないエリート校。だが、何かがおかしい。休み時間の廊下は生徒でごった返しているのに、まるで全員が অদৃশ্যの壁を意識しているかのように、互いに奇妙な距離感を保って歩いているのだ。

「あの、高槻くん」

隣の席の女子生徒、氷川詩織が小さな声で話しかけてきた。長く綺麗な黒髪が印象的だが、どこか影のある少女だ。

「この学園には、一つだけ、絶対に守らなきゃいけないルールがあるの」
「ルール?」
「うん。――他人の影を踏んじゃいけない」

俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。影を踏むな? 小学生の遊びじゃないんだから。
俺の訝しげな顔を見て、氷川は真剣な瞳で続けた。
「冗談じゃない。これは、この学園の絶対の校則。破れば、取り返しのつかないことになる」

その言葉は、まるで呪いのようだった。事実、生徒手帳の片隅には、『学園敷地内において、他者の影を意図的に踏む行為を固く禁ずる』という一文が、申し訳程度に記されていた。理由はない。ただ、禁止されている。

数日後、俺はその言葉の意味を目の当たりにすることになる。
中庭で、二人の生徒が口論していた。一人は体格のいい上級生、もう一人は気弱そうな下級生だ。カッとなった上級生が、足元のコンクリートに伸びる下級生の影を、その革靴でぐり、と踏みつけた。
悲鳴も、怒声も上がらない。ただ、影を踏まれた生徒が、一瞬、全身から力が抜けたようにふらついただけだった。そして、何事もなかったかのように、虚ろな目をしてその場を去っていった。
翌日から、その下級生は変わってしまった。彼は美術部の期待の星で、コンクールで何度も入賞していると聞いていた。だが、今の彼が描く絵には、以前の鮮やかな色彩も、大胆な構図も、何もなかった。ただ、色が塗りたくられただけの、魂のない板切れ。まるで、彼の「才能」そのものが、あの影と共に踏み潰されてしまったかのようだった。

「やっぱり、気づいたんだ」
放課後の教室で、氷川が静かに言った。
「影は、ただの光の副産物じゃない。この学園ではね、影はその人の才能や情熱、個性……魂の輪郭そのものなの。そして、『影踏み』は、それを奪うための行為」
「奪う……?」
「そう。影を踏んだ者は、踏まれた相手の才能を、一時的に自分のものにできる。テストの前に学年トップの秀才の影を。大会の前にエースの影を。……この学園の上位層は、そうやって他者から才能を搾取して、その地位を維持してる」

背筋が凍るような話だった。エリート校の輝かしい実績は、才能の略奪によって成り立っていたのだ。生徒たちは奪われないように、あるいは奪う機会を窺うために、互いに不自然な距離を保って生活している。ここは、弱肉強食の狩場だった。

「そんなの間違ってる!」
俺の叫びに、氷川は悲しそうに微笑んだ。
「……私の兄も、かつてピアニストを目指してた。でも、コンクールを目前にして、生徒会長に影を踏まれた。それ以来、兄は二度とピアノに触れようとしなかった」

生徒会長、桐生院雅(きりゅういんみやび)。学園の頂点に君臨し、あらゆる分野でトップの成績を修める完璧な人間。その完璧さは、数え切れないほどの生徒たちの犠牲の上に成り立っていたのだ。

許せなかった。こんな歪んだ遊戯を、終わらせなければならない。
俺は決意した。この狂ったシステムの頂点、桐生院雅に挑むことを。

決戦の場は、夕暮れ時の時計塔の前。一日のうちで、影が最も長く、濃く伸びる時間だ。噂を聞きつけた生徒たちが、遠巻きに俺たちを取り囲んでいる。
「面白い余興だね、転校生。君は一体、どんな才能を持っているんだい?」
桐生院は優雅に微笑む。その足元には、まるで生き物のように濃く、巨大な影が広がっていた。数多の才能を吸収し、肥大化した影だ。

「あんたが奪ったものを取り返しに来た!」
俺は叫び、地面を蹴った。ルールは単純。相手の影を踏めば勝ち。だが、桐生院の動きは尋常ではなかった。彼はまるで自分の影を意のままに操るように、伸縮させ、あるいは蛇のようにしならせて、俺の攻撃をことごとく躱す。これが、才能を吸収し続けた者の力か。

何度も足元の影を狙われるが、俺は必死に飛び跳ねて避ける。だが、体力の差は明らかで、徐々に追い詰められていく。
「終わりだ」
桐生院が俺の真上に跳躍し、その巨大な影が俺を飲み込もうとした、その瞬間。

「今よ、高槻くん!」
氷川の鋭い声が響いた。見ると、彼女が時計塔の窓から大きな鏡をこちらに向けている。夕陽が鏡に反射し、強烈な光の筋が地面を走った。光は桐生院の真下の地面を照らし、一瞬だけ、彼の足元から影を完全に消し去った。

影の拠り所を失った桐生院が、空中で体勢を崩す。
好機は、一瞬。

俺は最後の力を振り絞り、彼が着地するであろう地点に滑り込んだ。俺の影が、彼の足元に重なる。

――踏んだ。

桐生院の体から、ふっと力が抜けるのが分かった。しかし、俺の中に彼の才能が流れ込んでくる感覚はなかった。俺には、才能を奪う気など毛頭ない。
俺はただ、彼の影を踏んだ足に力を込めて叫んだ。
「全部、持ち主に返せ!」

すると、桐生院の濃すぎる影から、無数の小さな影が分離し、蛍のように舞い上がった。それらは意思を持つかのように、観衆の中にいた生徒たちの元へと吸い込まれていく。絵の具の匂いを纏った影、楽譜の形をした影、ボールの軌跡を描く影……。
「ああ……」「色が、見える……」「指が、動く……」
あちこちから、歓喜とも嗚咽ともつかない声が上がった。失われた魂の輪郭が、元の持ち主へと帰っていく。

才能を失った桐生院は、抜け殻のようにその場に座り込んだ。肥大化した影は消え、彼の年齢相応の、頼りない影だけが残っていた。

翌日、月詠学園の絶対校則は、静かに撤廃された。生徒たちはまだ少しぎこちないながらも、廊下で笑い合い、肩をぶつけ合っている。当たり前の、しかしこの学園が失っていた光景だ。

「ありがとう、高槻くん」
隣で氷川詩織が、初めて屈託のない笑顔を見せた。
「礼を言うのは俺の方だ。一人じゃ何もできなかった」

夕陽が、俺と彼女の影を長く、隣り合わせに伸ばしていた。もう、誰もその影を恐れる者はいない。俺たちの新しい学園生活は、今、始まったばかりだ。

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