海を見下ろす丘の上に建つ、全寮制の私立蒼穹(そうきゅう)学園。僕たちの学び舎には、年に一度だけ行われる奇妙な伝統があった。
その名も、『影踏み祭』。
ルールは至ってシンプル。満月の夜、二人一組で校内に隠された三つの『月の欠片』を探し出す。ただし、自分の影を他のペアに踏まれたら、その時点で失格。優勝したペアには、たった一つだけ『学園の校則を任意に書き換える権利』が与えられる。
「ねえ湊(みなと)! 今年こそ優勝しようよ!」
カフェテリアでパフェを頬張りながら、幼馴染の陽菜(ひな)が目を輝かせる。運動神経抜群で、考えるより先に体が動く彼女は、この祭りが大好きだった。対照的に、運動音痴で図書室の住人である僕は、毎年憂鬱で仕方がない。
「どうせ生徒会の連中が優勝するさ。僕らじゃ無理だよ」
「去年優勝した先輩、覚えてる? 『誰も覚えていない校則』を書き換えたって噂だよ。気にならない?」
陽菜の言葉に、僕はスプーンを止めた。確かに、そんな奇妙な噂が流れていた。まるで、祭りが終わるたびに、小さな何かが世界からこぼれ落ちていくような、そんな言い知れぬ違和感。僕の胸に、小さな好奇心の火が灯った。
祭りの夜、銀色の満月が学園を青白く照らし、僕たちの影を黒々と地面に引き伸ばしていた。校内に散らばった生徒たちの影が、まるで意思を持った生き物のように蠢いている。
「最初の欠片は、きっと光が最も強い場所にあるわ」
「逆だよ、陽菜。影が主役の祭りなんだ。光の死角を探すべきだ」
僕たちはまず、古めかしい時計台の裏手に向かった。月光が作る巨大な影の中、蔦の絡まる壁に、一つ目の『月の欠片』――鈍い光を放つ乳白色の石が埋め込まれていた。石には、こう刻まれている。
『影は光の子供、虚構の双子。真実は影なき場所にこそ眠る』
「影なき場所……?」陽菜が首を傾げる。
「光源の真下か、あるいは完全に光が遮断された場所か……」
僕の脳裏に、学園の地図が広がる。渡り廊下の中央に吊るされた常夜灯。その真下だ。
僕たちは、他のペアの影を避けながら、猫のように身を潜めて移動した。体育会系の屈強なペアがすぐそばを走り抜ける。陽菜が僕の腕を掴み、咄嗟に植え込みの影に引きずり込んだ。心臓が早鐘を打つ。踏まれれば、終わり。このスリルこそが、祭りの醍醐味なのだろう。
予測通り、常夜灯の真下、床のタイルが一枚だけ僅かに浮いていた。その下に、二つ目の『月の欠片』。今度は黒曜石のような石だった。
『影は記憶を喰らう。最も古き影の下で、最後の欠片は主を待つ』
「最も古き影……」
学園で最も古いもの。それは、創立者の銅像だ。広場の中央に立つ、巨大なブロンズ像。そこは身を隠す場所のない、最も危険なエリアだった。すでに何組ものペアが、銅像の周りを牽制し合っている。
「どうするの、湊? あれじゃ近づけないよ」
「いや、行ける。『最も古き影の下』……銅像そのものの影の中だ」
月光によって作られた、巨大な創立者の影。その濃密な闇の中は、他の光がほとんど届かない、いわば『影なき場所』だ。
「陽菜、僕が影に飛び込む。君は全力で、あいつらの注意を引いてくれ」
「……分かった! 私の足なら、誰にも捕まらないんだから!」
陽菜が囮になって広場を駆け抜ける。その俊敏な動きに、他のペアの視線が一斉に集中した。今だ。僕は息を殺し、銅像の影の中へと滑り込んだ。
そこは、異様な静寂に包まれていた。影の内側と外側で、世界の音が違う。足元に、最後の『月の欠片』が落ちていた。漆黒の、光を一切反射しない石。
それを手にした瞬間、僕の脳内に、奔流のように映像が流れ込んできた。
――この学園は、かつてこの地に封印された『何か』を鎮めるための楔。
――『影踏み祭』は、その封印を維持するための儀式。
――影を踏まれ失格となった生徒は、記憶の一部を『何か』への供物として喰われる。
――優勝者が校則を書き換えるというのは、封印システムを微調整するための、巧妙なカバーストーリー。
そうか、だから誰も去年の優勝者が書き換えた校則を覚えていないのか。そもそも、そんな事実自体が、祭りの後に人々の記憶から消去されていたのだ。僕が感じていた違和感の正体は、これだったのか。
翌日、僕と陽菜は学園長室に呼び出された。白髪の学園長は、静かな瞳で僕たちを見つめている。
「優勝おめでとう。さて、どんな校則を書き換えたいかね?」
僕は、震える声で尋ねた。
「その前に、教えてください。この祭りの、本当の意味を」
学園長は驚くでもなく、ただ静かに頷き、全てを語ってくれた。そして、僕に選択を委ねた。この忌まわしい儀式を終わらせることもできる、と。
僕は陽菜と顔を見合わせる。彼女もまた、真実の重みに言葉を失っていた。でも、その瞳の奥には、恐怖ではなく、確かな覚悟の光が宿っていた。
僕は、用意された羊皮紙に、新しい校則を書き込んだ。
『一、影踏み祭の優勝者は、この祭りの真実を知る権利を得る』
儀式を終わらせるのではない。真実を知り、理解した上で、この学園と、その下に眠る『何か』を、僕たちの手で守っていく。それこそが、僕たちが見つけた、たった一つの答えだった。
学園長は、僕が書いた羊皮紙を見て、深く、優しい笑みを浮かべた。
次の満月まで、あと一年。僕と陽菜の、秘密を抱えた新しい学園生活が始まる。それは、ただの日常じゃない。世界の片隅で、大切な秘密を守るという、最高にワクワクする冒険の始まりだった。
影喰らいの満月
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