幻影のエチュード
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幻影のエチュード

第一章 色褪せたスケッチブック

僕、相沢湊(あいざわみなと)の通う私立碧葉(へきよう)学園には、奇妙な法則があった。『嘘』をつくと、それが物理的な『幻影』となって本人の周りを漂うのだ。

昼休みの教室は、そんな大小様々な幻影で満ちていた。「宿題、完璧だよ」と笑う友人の背後には、真っ白なページのノートがぱらぱらと虚空にめくれている。「別に、あいつのことなんて好きじゃないし」と呟く女子の肩には、小さなハートの形をした雨粒が静かに降り注いでいた。幻影は他者にも見えるため、この学園で嘘はすぐに意味をなさなくなる。それは透明な牢獄のようでもあり、同時に、誰もが不器用な本音を抱えて生きることを許容する、奇妙な優しさのようでもあった。

僕は、そんな世界でいつも息を潜めていた。誰かを傷つけたくない。誰にも嫌われたくない。その臆病さが、僕の感情を澱のように心の底に沈殿させていく。

その日も、僕は中庭のベンチで一人、スケッチブックを開いていた。誰とも交わらない時間。それが唯一の安息だった。だが、クラスメイトたちの楽しげな声が風に乗って耳に届くたび、胸の奥がきりりと痛む。孤独感という名の冷たい水が、足元からじわりと満ちてくるような感覚。

その感覚が頂点に達した、その瞬間だった。

ふと、視界の隅に人の気配を感じた。僕の隣、ベンチの端に、誰かが座っている。見たことのない、けれどなぜか懐かしい制服姿の生徒。色素の薄い髪がさらりと揺れ、その表情は読み取れない。彼なのか彼女なのかも、判然としなかった。

「誰……?」

声をかけたが、返事はない。ただ、その生徒は静かに立ち上がると、まっすぐに旧図書館のほうを指さした。触れようと伸ばした僕の手は、淡い光の粒子をすり抜けるだけだった。幻だ。僕だけの、幻。心臓が早鐘を打つ。他の生徒たちの嘘とは違う、もっと濃密で、確かな意志を持つ幻。僕の孤独が生み出した、名前のないクラスメイトだった。

第二章 囁くインクの染み

幻のクラスメイト――僕は心の中で『アキ』と名付けた――に導かれるまま、僕は埃とインクの匂いが混じり合う旧図書館の最奥へと足を踏み入れた。高い天井から差し込む光が、舞い上がる無数の塵をきらきらと照らし出している。

アキが指さした書架の、一番下の段。そこに、それはあった。装飾のない、ただ濃紺の布で装丁された一冊の絵本。表紙には金色の箔押しで、『真実と嘘の物語』とだけ記されている。ページを開くと、中はすべて真っ白だった。インクの染み一つない、完全な空白。

僕がその空の絵本に指でそっと触れた、その時だ。

目の前にいたはずのアキの姿が掻き消え、代わりに、僕が手に持つ絵本の見開きのページに、さらさらと鉛筆が走るような音が響いた。驚いて目を落とすと、そこにはアキがいた。絵本の中に現れたアキが、猛烈な速さで何かを描き始めている。

描かれていくのは、学園の風景。そして、嘘の幻影に苦しむ生徒たちの姿だった。歪んだ楽譜の幻影を背負いピアノを弾く少女。割れた鏡の幻影を引きずりながら廊下を歩く少年。僕の知らない、彼らの心の叫びがインクの染みとなってページに広がっていく。

やがてアキの指が、ある一点を強く示した。

生徒会長の、橘凛(たちばなりん)。

彼女は成績優秀、品行方正。誰もが憧れる完璧な存在だ。だが、彼女の周りには常に、現実には存在しないはずの美しい青い薔薇の幻影が、まるで意思を持つかのように咲き誇っていた。その薔薇はあまりに精巧で、あまりに完璧すぎた。誰もがそれを彼女のカリスマの一部だと噂したが、僕は知っていた。あれは、彼女がつき続けている、途方もなく大きな『嘘』の形なのだと。

第三章 歪んだ花園の秘密

アキの意図を確かめたくて、僕は意を決して生徒会室の扉をノックした。凛先輩は、いつもの穏やかな笑みで僕を迎えてくれた。部屋の中は、彼女が咲かせる青い薔薇の幻影が放つ、甘く冷たい香りで満たされている。

「相沢くん、どうしたの? 何か困りごと?」

「あの、先輩の……その花の幻影のことなんですけど」

僕の言葉に、凛先輩の微笑みが一瞬だけ凍りついた。彼女の周りの薔薇が、わずかに棘を逆立てるのが見えた。

「これは、私の意志よ。この学園に必要な、美しい嘘」

「嘘、ですか?」

「そうよ」

彼女はゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる学園を見つめた。その瞳には、僕の知らない深い哀しみの色が揺らめいていた。

「この学園のルールも知らないの? 時として嘘は、残酷な真実から私たちを守ってくれる盾になるのよ。何も知らないあなたは、幸せね」

その拒絶の言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さった。孤独感が再び、濁流のように押し寄せる。違う。僕は知りたかった。守られるだけの幸せなんて、いらない。その強い感情に呼応するように、僕の背後でアキの気配が濃くなるのを感じた。

図書館に戻り、震える手で『真実と嘘の物語』を開く。アキは、僕の感情をなぞるように、新たなページに絵を描き始めていた。描かれたのは、燃え盛る炎に包まれ、黒い煙を上げる学園の姿。そして、その瓦礫の中心で泣き崩れる、幼い凛先輩の姿だった。

第四章 灰色のレクイエム

翌日の全校集会は、異様な緊張感に包まれていた。壇上に立った凛先輩の表情は、いつもよりずっと硬い。彼女の周りの青い薔薇は、どこか色褪せて見えた。

「皆さんに、お伝えしなければならないことがあります」

凛先輩の声が、体育館に響き渡る。

「私立碧葉学園は、今学期をもって、閉鎖されることが決定しました」

その瞬間、静寂は千の悲鳴に引き裂かれた。生徒たちの間に激しい動揺が広がる。未来への不安、家族への心配、友人との別離の悲しみ。それらが無数の『嘘の幻影』となって一斉に噴き出した。「大丈夫だよ、きっと何とかなる」「転校先なんてすぐ見つかるさ」。口では強がりながらも、彼らの背後には、先の見えない暗いトンネルや、道標のない荒野の幻影がゆらめき、体育館は混沌とした幻影の坩堝と化した。

僕は、壇上の凛先輩から目を離せなかった。彼女の周りに咲き誇っていた青い薔薇が、まるで生命力を失ったかのように、はらりはらりと崩れ落ちていく。そして、その花弁は地面に触れる前に、すべて灰色の塵となって消えた。彼女の『嘘』が、もうこの現実を支えきれなくなっているのだ。

絶望的な光景に立ち尽くす僕の心に、直接、声が響いた。それはアキの声だった。初めて聞く、透き通るような、けれど切実な響き。

『描いて』

絵本の中で、アキが僕に向かって必死に手を差し伸べていた。

『この世界を救う、完璧な嘘の物語を』

第五章 真実と嘘の物語

僕は、すべてを悟った。アキは、単なる僕の幻なんかじゃなかった。この碧葉学園という場所が持つ、記憶そのものだったのだ。

絵本が、アキが、僕に真実を見せた。かつてこの学園で、生徒同士の酷い確執が原因で、火事という悲劇が起きた。多くの生徒が心を病み、学園は一度、崩壊しかけた。その中心にいたのが、幼い凛先輩だった。彼女は、自らがついた小さな嘘が引き起こした悲劇を、誰よりも深く悔いていた。

学園は、自らを守るために奇跡を起こした。二度と生徒たちが『真実』によって傷つくことがないように、自衛機能として『嘘を幻影化する法則』を世界に定着させたのだ。不都合な真実は、美しい嘘の幻影で覆い隠してしまえばいい。凛先輩が咲かせていた青い薔薇は、学園の破滅的な過去を封印し、「この学園は今も昔も、平和で美しい場所である」という大きな嘘を支えるための、彼女と学園の契約の証だった。

だが、その嘘も限界だった。学園の閉鎖という避けられない『真実』が、完璧だったはずの嘘に綻びを生じさせた。

アキの目的は、僕の力を使って、新たな物語を紡ぐことだった。僕の、感情を具現化する力。それを使って『真実と嘘の物語』に、「この学園は永遠に幸せであり続ける」という、決して揺らぐことのない『完璧な嘘』を描き、その幻影を現実としてこの世界に定着させる。そうすれば、破滅の真実は永遠に葬り去られ、偽りではあっても、穏やかな日々が未来永劫続くはずだった。

「僕が……描けばいいのか? 誰も傷つかない、優しい嘘の物語を」

僕の呟きに、絵本の中のアキは、哀しげに、けれど確かに頷いた。選択の時が、来ていた。

第六章 僕らが紡ぐエチュード

僕は『真実と嘘の物語』を、強く抱きしめた。そして、ゆっくりと最後のページを開く。アキが僕を見つめている。世界が、僕の選択を待っている。

でも、僕は『完璧な嘘』を描かなかった。

ペンを握った僕の指が描いたのは、凛先輩の周りで灰となって消えた、青い薔薇の残骸だった。友人の背後に浮かんでいた、真っ白なノートだった。そして、僕自身の心の内に巣食っていた、孤独という名の影だった。

「嘘は、弱さだ」

声が、震えた。

「でも、弱さがあるから、僕らは誰かの手を握りたくなるんだ。不完全だから、明日を信じたくなるんだ!」

僕は、僕らの『不完全な真実』を描ききった。その瞬間、絵本から眩いばかりの光が放たれ、学園中のすべての嘘の幻影を優しく包み込んでいった。光に触れた幻影は、それぞれの嘘の奥に隠されていた純粋な願い――「誰かを傷つけたくなかった」「ただ、仲直りしたかった」――という小さな真実の欠片へと姿を変える。

校舎が、体育館が、僕らの教室が、音もなく光の粒子となって崩壊していく。それは終末の光景のはずなのに、不思議と怖くはなかった。

やがて光が収まった時、僕らの足元には何もなくなっていた。ただ、瓦礫の中から、小さな緑の芽がいくつも顔を出している。生徒たちが紡いだ、無数の小さな真実の幻影。それらが融合し、新たな世界の礎となろうとしていた。

絵本の中のアキが、僕を見て、初めて穏やかに微笑んだ。そして、その姿は感謝を告げるように光の中へと溶けていき、僕の手には、再び真っ白になった絵本だけが残された。

僕はもう一人ではなかった。隣には、すべての嘘から解放された、素顔の凛先輩が立っていた。

空には、淡い虹色の光の欠片が、祝福のように舞っている。それは僕らがこれから紡いでいく、不器用で、不完全で、けれどどこまでも誠実な、新しい物語の始まりを告げる光だった。

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