残像のフィラメント
第一章 塵と残像
街は情報の洪水に満ちていた。高層ビルの壁面を流れるテキストの滝、人々の耳に埋め込まれたイヤーピースから絶え間なく囁かれる最新ニュース、アスファルトに投影される広告の明滅。この世界では、情報は空気であり、生命そのものだった。誰もが情報の奔流に身を委ね、一瞬でも流れから取り残されれば、その存在が希薄になることを本能で知っていた。
そんな喧騒の只中に、古びたレンガ造りの建物が、まるで時が止まった孤島のように佇んでいた。その一階にある古書店「時紡ぎ」が、僕、カイトの仕事場だ。
人々が追い求める刹那的な情報の対極にある、古紙の匂いと乾いたインクの香り。僕はその静寂に安らぎを感じていた。客はほとんど来ない。だが、それでよかった。
「まただ……」
僕は小さく呟き、手にした革張りの本から顔を上げた。古い博物誌の一葉。そこに描かれていたはずの、今は絶滅したという『空翔ける鯨』の精緻なスケッチが、インクの染みが滲んだように白紙に戻っている。ここ数ヶ月、こんなことが頻繁に起きていた。特定のページを読み込んでいると、ふいに意識が途切れ、気づけば内容が頭からも、そして本そのものからも消えているのだ。
僕はポケットから手帳を取り出し、「博物誌、p.112、空翔ける鯨の項、消失。記憶の混濁」と書き込んだ。僕の記憶が曖昧なだけなのだ。きっと、最初からそこには何も書かれていなかったのだろう。そう自分に言い聞かせた。
その時、白紙になったページの隅で、何かが微かに煌めいた。陽光を浴びて舞う塵の一粒。だが、それはただの塵ではなかった。虹色の光を内包し、まるで生きているかのように明滅している。僕はそれに引き寄せられるように指を伸ばした。触れる直前、その光の粒の中に、一瞬だけ幻影が見えた。見たこともない紺碧の空を、巨大な影が悠然と泳いでいく姿。――空翔ける鯨の、残像。
そう認識した瞬間、光は掻き消え、僕の指先には何も残らなかった。ただ、世界の空気が、ほんのわずかに薄くなったような奇妙な感覚だけが、胸に冷たくまとわりついた。
第二章 観測者の影
情報管理局のメインサーバー室は、冷却ファンの低い唸りと、明滅する無数の光に満ちていた。シオリは巨大なホログラムディスプレイに映し出された世界地図を睨みつけていた。地図上には、赤い警告アイコンが不気味に点在している。
「ブランクアウト事象、今月に入って七件目。消失したのは『古代地質学』の根幹データ。まただ……」
同僚が吐き捨てるように言った。ブランクアウト――世界の根源を成すはずの『不変の真実』が、ある日突然、人々の記憶からも、あらゆる記録媒体からも、物理的に消失する現象。歴史上の偉人、古くからの宇宙の法則、生物の進化の系譜。まるで世界の土台が、一つ、また一つと抜き取られていくようだった。
シオリは警告アイコンが集中するエリアを拡大した。旧市街の、情報密度の低い一角。「またここか」。彼女はディスプレイをタップし、その中心点に存在する施設の情報を表示させた。
古書店「時紡ぎ」。
シオリは眉をひそめた。情報の摂取こそが存在の証明であるこの世界で、時代遅れの紙媒体を扱う店。そこが、世界の根幹を揺るがす現象の特異点だというのか。
翌日の午後、シオリは客を装って「時紡ぎ」の扉を開けた。カラン、と寂しげな鈴の音が鳴る。店内は、外の情報の洪水が嘘のような静寂に包まれていた。彼女のイヤーピースが、情報不足による警告音を微かに発している。
カウンターの奥で、カイトという名の青年が静かに本を読んでいた。情報の奔流から切り離されても、彼の存在は少しも希薄になっていない。むしろ、異常なほどに安定している。シオリは彼のその佇まいに、説明のつかない違和感を覚えた。
カイトは彼女の鋭い視線に気づき、顔を上げた。その穏やかな瞳の奥に、シオリは世界の深淵に繋がる何かを見た気がした。
第三章 消えた星図
その夜、カイトは店の奥で、偶然見つけた一冊の古い天文学の本を読んでいた。そこに描かれていたのは、夜空を埋め尽くす無数の星座たち。かつての人々が、星々の配置に神話や運命を読み解き、それを『真実』として信じていたという記述に、彼は心を奪われた。
「これが、昔の人が信じた宇宙の真実……」
彼は指で、精緻に描かれた星図をなぞった。オリオンの三ツ星、北天で輝く北極星、天の川を渡る白鳥。その配置の数学的な美しさと、そこに込められた物語の壮大さに、彼は心の底から感動した。これは、まぎれもない『真実』だ。そう、強く、強く思った。
その瞬間。
ギシリ、と店の棚が軋む音がした。窓の外、夜空に浮かんでいたはずのいくつかの星々が、まるで黒いインクが空に滲むように、その輝きを失っていく。カイトが「真実だ」と認識した星座が、一つ、また一つと、現実の空から消失していくのだ。
街は瞬く間にパニックに陥った。イヤーピースからは「原因不明の大規模天体消失現象!」という絶叫に近い速報が流れ、人々は空を見上げて怯えていた。だが、それ以前にそこに星座があったという事実そのものが、急速に曖昧になっていく。
情報管理局で緊急警報を受け取ったシオリは、発生源が「時紡ぎ」であることを瞬時に特定し、現場へ急行した。彼女が店の扉を蹴破るように開けると、そこには、白紙になった星図の本を手に、呆然と夜空を見上げるカイトの姿があった。彼の周りだけ、世界の理が歪んでいるようだった。
「あなたが、やったの……?」
シオリの声は、静かな店内に震えて響いた。
第四章 虚無への導き
「僕が……? 何をです?」
カイトはシオリの言葉の意味が理解できず、混乱した表情で彼女を見返した。シオリは観測端末を取り出し、彼に突きつけた。ホログラムに映し出されたのは、ブランクアウトが発生した瞬間の情報エネルギーの波形。その中心で、ひときわ強い特異点として輝いているのは、間違いなくカイト自身だった。
「あなたの『認識』が、世界の情報を消している。あなたが何かを『真実だ』と強く信じ込むたびに、その『真実』は、この世界から完全に消滅するのよ」
シオリは世界の法則を語った。情報によって成り立つ、脆い世界。そして、その土台である根源情報が失われ続けた結果、世界の存在基盤そのものが崩壊を始めていることを。
「そんな……。じゃあ、僕の記憶が曖昧だったのは……」
「記憶が曖昧になったんじゃない。あなたが世界を書き換えていたのよ」
カイトは自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。自分の無邪気な「納得」が、世界を破壊していたという事実。彼は恐怖に身を震わせた。
その時だった。彼の足元に、今まで見たこともないほど無数の『真実の残像』が、まるで鉄粉が磁石に引かれるように集まり始めた。虹色の光の塵が渦を巻き、小さな銀河のようになる。
その光の渦は、カイトの脳裏に直接、一つのビジョンを送り込んできた。
音も、光も、時間も、いかなる情報も存在しない、完全な『無』。始まりも終わりもない、絶対的な静寂。
彼は直感した。これが、自分が消し去ってきた全ての『真実』が行き着く先なのだと。情報の奔流に疲れ果てたこの世界が、無意識に求め続けていた、究極の安息の場所なのだと。
第五章 最後の真実
世界の崩壊は、加速していた。建物の輪郭はノイズがかった映像のように滲み、人々の姿は半透明に揺らめき始めた。街を支配していた情報の洪水は途切れ途切れになり、不気味な静寂が世界を侵食していく。存在そのものが、薄まっていく。
カイトは、渦巻く残像の中心に立ち、静かに顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「僕が終わらせなくちゃいけない」
彼はシオリに向かって、穏やかに告げた。「この世界は、もう情報を抱えきれないんだ。だから、全ての情報が行き着く先……あの『虚無』こそが、この世界が本当に必要としている、たった一つの『真実』なんだ」
「やめて!」シオリは叫んだ。「それをあなたが信じ込んだら、あなた自身が消えてしまう! あなたという『真実』が!」
「大丈夫」カイトは、初めて心の底から微笑んだ気がした。「新しい始まりのために。誰かが、ゼロに戻してあげなくちゃいけないんだ」
彼はゆっくりと目を閉じた。
意識を、あのビジョンへと集中させる。
自分が消してきた全ての歴史。全ての法則。全ての物語。
それらの残骸が溶け合い、集積した、果てしない虚無。
彼はそれを、自身の存在の全てを懸けて、心の底から『そうである』と信じ込んだ。
「これが、世界の、最後の真実だ」
第六章 残像のフィラメント
カイトの身体が、足元から光の粒子となって、さらさらとほどけていく。彼の肉体も、記憶も、その存在を定義していた全ての情報が、彼自身が認識した究極の真実――『虚無』へと還元されていく。
「カイトくん!」
シオリは必死に手を伸ばしたが、その指は光の粒子を虚しくすり抜けるだけだった。粒子になって消えていくカイトの最後の表情は、見たこともないほど安らかだった。
彼が完全に消滅した瞬間、世界の崩壊がピタリと止まった。歪んでいた空間は水面のように静まり、途絶えていた情報の奔流が、穏やかなせせらぎとなって再び世界を満たし始める。
だが、世界は決定的に変容していた。街行く人々は、まるで生まれたての赤子のように、戸惑いながらも純粋な瞳で周りを見渡している。歴史も、文化も、科学も、人々が積み上げてきた全ての情報が、完全に白紙に戻っていた。
シオリだけが、全てを記憶していた。
彼女は、カイトが数秒前まで立っていた場所を、ただ見つめていた。その何もない空間に、一本だけ、儚く光を放つフィラメントのような『真実の残像』が、静かに揺れていた。
それは、カイトという青年がかつてこの世界に存在し、世界を救うために自らを犠牲にしたという、誰にも知られることのない、世界で唯一の証だった。
やがて、広場にいた子供が、空を指さして母親に尋ねた。
「ママ、あれは、なあに?」
子供の指さす先には、青く澄み渡る空が広がっているだけだ。しかし、その問いは、新しい世界が、新しい『真実』を求め始めた産声だった。
恐怖のループは、終わらない。ただ、彼の犠牲によって、新しい物語の最初のページが、静かに開かれただけ。シオリは、カイトの残した光のフィラメントを胸に抱くように見つめながら、その終わらない物語の、最初の目撃者となった。