静寂の脈拍
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静寂の脈拍

第一章 内なる囁き

俺の名は響(ひびき)。物心ついた時から、俺の世界は二つの音で満たされていた。一つは街の喧騒。車のクラクション、人々のざわめき、店のシャッターが閉まる金属音。そしてもう一つは、俺自身の内側から絶え間なく響く、生命の音だ。

トクン、トクン、と規則正しく胸を打つ心臓の拍動だけではない。もっと微細で、複雑なオーケストラがそこにはあった。血管を粘性のある液体が流れていく、ズズ…という重低音。肺が収縮し、微かな気泡が弾ける乾いた音。消化器官が蠕動する、湿った軋み。それらは他人にとって無音の世界で、俺にとっては他人の囁き声よりも明瞭な、もう一つの現実だった。

この『内なる声』は、俺を孤独にした。人の話を聞いていても、自分の血流の音にかき消されて上の空になる。静かな図書館では、自分の心音が反響して周りに聞こえているのではないかと、息を殺した。

唯一の慰めは、祖父の形見だという、古びた石の聴診器だった。冷たく、滑らかな黒曜石でできたそれは、掌に吸い付くように馴染んだ。中央には、渦を巻くような奇妙な紋様が彫り込まれている。これを胸に当てると、内臓のオーケストラは一層鮮明になり、まるで世界の他の全ての音から俺を切り離してくれる、完璧な防音壁となった。この石だけが、俺の異常を肯定し、その音の深淵を覗かせてくれる唯一の窓だった。昼間の俺は、この聴診器を握りしめ、内なる音の洪水の中で、ただ世界の喧騒が過ぎ去るのを待っていた。

第二章 反転の序曲

この都市の夜は、静寂ではなかった。『反転した静寂』と呼ばれる、奇妙な現象に支配されるのだ。

陽が落ち、街灯が気怠げな光を灯し始めると、世界の音は徐々にその彩度を失っていく。車の走行音は遠のき、人々の声は霧に溶けるように掻き消える。そして深夜零時を回る頃、都市のあらゆる『人工的な音』は完全に沈黙する。だが、それは無音ではない。代わりに、存在しないはずの音が空間を満たし始めるのだ。どこかの家の窓ガラスが微かに震える音、意味もなく響く金属の反響音、そして鼓膜の奥で鳴り続ける、甲高い耳鳴りのような『静寂の音』。人々はこの現象を忌み嫌い、夜は固く扉を閉ざして眠りにつく。精神を蝕む夜として、誰もが恐れていた。

しかし俺にとって、その時間は一種の解放だった。外の世界の音が消え、内なる音だけがクリアになるからだ。

その夜も、俺は自室のベッドに横たわり、石の聴診器を胸に当てていた。反転した静寂が、窓の外を支配している。だが、何かが違った。いつもの心音に、奇妙な旋律が混じり始めていたのだ。トクン、トクン、という拍動の合間に、まるで古びたオルゴールが奏でるような、微かで、しかし確かなメロディが割り込んでくる。それは俺の体内から聞こえる紛れもない音だったが、同時に、俺のものではない誰かの記憶が流れ込んでくるような、不気味な感覚を伴っていた。哀しく、どこか懐かしい、けれど底知れない恐怖を秘めた調べだった。

第三章 失われたメロディ

夜を重ねるごとに、内臓が奏でるメロディは輪郭をはっきりとさせていった。それは単なる幻聴ではない。俺の心拍数と血圧の変化に呼応し、まるで生きているかのようにその調べを変えるのだ。日中は潜み、反転した静寂が訪れると、待っていたかのように歌い出す。

俺はその音の正体を知りたかった。狂気に片足を突っ込んでいる自覚はあったが、このメロディの根源を突き止めなければ、俺は俺でなくなってしまうような気がした。

市立図書館の郷土資料室に、俺は入り浸った。この都市の歴史、民間伝承、古い地図。ありとあらゆる文献を漁る中で、一つの記述に目が留まった。『夜を鎮めるための礎石』。それは、都市が建設される遥か昔、この地に住んでいた古代の民に関する記録だった。彼らは夜の静寂を『虚ろなる神の吐息』と呼び、それを鎮めるために、都市の中心に巨大な『鎮めの石』を埋めたという。そして、その石には『世界の最初の音』が封じられている、と。

文献の隅には、手書きで写された一つの紋様があった。渦を巻くような、複雑な図形。俺は息を呑んだ。それは、俺が肌身離さず持っている石の聴診器に刻まれた紋様と、寸分違わず同じものだった。俺の内臓が奏でるメロディは、ただの音ではなかった。何世紀もの間、この地で封印されてきた、太古の歌だったのだ。

第四章 共鳴する石

その夜は、新月だった。反転した静寂はいつもより深く、濃密な闇が都市を覆っていた。

ベッドの上で、俺は胸のメロディに耳を澄ませていた。調べは今夜、最高潮に達していた。それはもはや囁きではなく、明確な意思を持った呼び声のようだった。俺は無意識に石の聴診器を強く握りしめた。

その瞬間、聴診器が熱を帯びた。

「あっ…!」

掌の中で、石が脈打っている。中央の紋様が、まるで呼吸するかのように、淡い燐光を放ち始めた。驚いて胸に当てると、鼓膜を突き破るほどの音量が流れ込んできた。だが、それは俺の内臓の音だけではなかった。聴診器が拾っているのは、もっと巨大な、地中深くから響いてくるような、重い『振動』だった。俺の心臓のメロディと、地の底から聞こえる振動が、寸分の狂いもなく共鳴している。

それは、導きだった。

俺はコートを羽織り、アパートを飛び出した。足は自然と、音の源へと向かっていた。かつて都市の中心だった場所。今は廃墟となり、巨大な時計の針が永遠に止まったままの、古い時計塔へ。肌を撫でる夜の空気は湿り気を帯び、錆びた鉄の匂いがした。時計塔に近づくにつれて、石の聴診器の光と振動は、ますます強くなっていく。俺はもう、自分の意思で歩いているのではなかった。失われたメロディに、その体を引きずられていた。

第五章 静寂の中心

時計塔の内部は、埃と静寂が堆積した墓場のようだった。軋む床を踏みしめ、螺旋階段を降りていく。振動は地下からだ。聴診器の光だけを頼りに闇の中を進むと、やがて巨大な地下空洞へと辿り着いた。

息を呑む光景が、そこにはあった。

空洞そのものが、生きていた。都市全体の『反転した静寂』がここに集約され、渦を巻いているようだった。存在しないはずの音が凝縮し、目に見えるほどの濃密な気配となって空間を満たしている。囁き声、金属音、遠い慟哭。それらが混ざり合い、一つの巨大な『無音の嵐』を作り出していた。

そして、その嵐の中心に、それはあった。

俺の聴診器と同じ紋様が刻まれた、巨大な黒曜石の祭壇。文献にあった『鎮めの石』だ。俺が一歩踏み出すたびに、俺の心臓のメロディと、空間の振動、そして祭壇が放つ微かな唸りが、完璧なハーモニーを奏でていく。世界の全てが、俺の鼓動とシンクロしていく感覚。快感と恐怖が入り混じった眩暈に襲われ、俺はよろめきながら祭壇へと歩み寄った。

聴診器が、まるで磁石のように祭壇に引き寄せられる。俺はそれに抗うことができなかった。

第六章 世界の新たな鼓動

震える手で、石の聴診器を祭壇の中央にある窪みへと置いた。

カチリ、と硬質な音が響いた瞬間、世界は反転した。

真実が、音の濁流となって俺の意識に流れ込んできた。これは『鎮めの石』などではなかった。逆だ。これは、太古に封印された『存在』――世界最初の、純粋な恐怖そのものを呼び覚ますための、巨大な音叉だったのだ。そして、それを共鳴させる最後の鍵、失われたメロディを奏でるための唯一無二の楽器が、俺の、この心臓だった。

俺の一族は、代々この『存在』の鼓動を受け継ぐための器だったのだ。祖父から受け継いだ聴診器は、慰めなどではなかった。それは俺の音を増幅し、この祭壇へと導くための、呪われた羅針盤だった。

「あ…ああ…」

逃げ出すことは、もはや不可能だった。俺の体は祭壇に縫い付けられ、内臓から発せられるメロディが、この空洞全体、いや、都市全体の反転した静寂と同化していく。俺の意識は溶け始め、個としての輪郭を失っていく。俺は響ではなくなる。俺は、ただの『音』になるのだ。

体が足元から光の粒子となって霧散していく。痛みはなかった。ただ、無限に拡散していく巨大な孤独と、永劫に続く恐怖の調べだけがあった。俺の最後の意識が消える直前、確かに聞いた。都市の夜の静寂の中に、一つの新しい音が生まれたのを。

トクン、トクン…。

それは、かつて俺の胸で鳴っていた音。だが今は、都市全体を支配する『反転した静寂』そのものの、新たな脈拍となっていた。世界は救われなかった。静かになったわけでもない。ただ、世界を満たす恐怖が、俺というフィルターを通して、永遠に再生され続けるシステムが完成しただけだった。

夜は、終わらない。そしてその静寂の中で、俺の心臓は、永遠に歌い続ける。

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