シャドウ・エミッター
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シャドウ・エミッター

第一章 影が生まれる街

街は緩やかに死にかけていた。かつては人々の『愛』を動力源として煌めいていたネオンサインは色褪せ、空を走るエアカーの軌道は錆びた沈黙を垂れ流している。人々は俯き、乾いたアスファルトを擦る靴音だけが虚ろに響く。愛が枯渇した世界。それは、色彩と熱を失ったモノクロームの絵画に等しかった。

僕、カイの周囲だけが、その法則から僅かに逸脱していた。

古びたカフェのカウンター席で、僕は湯気の立つカップを両手で包み込んでいた。視線の先には、新しいアルバイトの少女がいる。彼女が客の注文をとるたびに揺れる亜麻色の髪。微かに聞こえる、ハミングのような鼻歌。その些細な一つひとつが、僕の心の凍てついた湖面に、小さな波紋を広げていく。

やがて、胸の奥がちくりと痛んだ。予兆だ。息を詰めると、僕の背後から、するりと何かが剥がれる感覚があった。振り返らずともわかる。僕の影とは別に、もう一つ、ゆらりとした人影が床に落ちていた。僕が彼女に抱いた、まだ名前もない淡い恋心が生み出した『愛の形(シャドウ)』だ。

シャドウは、僕の願望を映して、僕よりも少しだけ背が高く、自信に満ちた佇まいをしていた。そして、それは静かに熱を放ち始める。僕たちが座るテーブルの真上にあるランプが、他のどの照明よりも強く、温かい光を灯した。周囲の客たちが、怪訝な顔でこちらを見ている。彼らの瞳には、僕のシャドウは見えていない。ただ、局地的に発生した異常なエネルギー放射を肌で感じているだけだ。

少女が僕のカップにコーヒーを注ぎに来た。彼女が「どうぞ」と微笑んだ瞬間、僕のシャドウは歓喜するように揺らめき、その胸元からぽろりと、小さな光の粒がこぼれ落ちた。僕は慌ててそれを拾い上げる。それは硝子のように硬質で、琥珀色の温かい光を宿す『光の欠片』だった。

第二章 欠片の記憶

自室に戻った僕は、机の上に小さなベルベットの布を広げ、集めた光の欠片を並べた。ルビーのように燃える赤、サファイアのような深い青、エメラルドの静かな緑。一つひとつが、僕が過去に抱いた愛の残骸であり、その記憶の結晶だった。

指でそっと赤い欠片に触れる。途端に、脳裏に鮮やかな記憶が蘇る。大学の図書館で出会った女性。彼女の情熱的な瞳、議論を交わした夜の熱気、そして、僕の臆病さが原因で砕け散った恋の痛み。欠片に触れるたび、僕は失ったはずの感情の奔流に飲み込まれる。それは甘美で、同時に耐えがたい苦痛を伴った。

「やはり、ここにいたか」

突然、背後から凛とした声が響いた。振り返ると、白いコートをまとった女性、リナが立っていた。彼女は世界のエネルギー動向を監視する中央研究所の科学者だ。その理知的な瞳が、机の上の欠片と僕を射抜くように見つめている。

「あなたの周囲で観測される異常なエネルギー放射。私たちはそれを『バグ』と呼んでいる」

リナは淡々とした口調で続けた。「世界から愛が消えゆく中で、あなただけがそれを生み出し続けている。あなたは、この世界の秩序を乱すイレギュラーだ」

彼女の言葉は冷たい刃のように突き刺さった。僕が生み出すシャドウは、バグ。この世界にとって、排除されるべき不純物。分かっていたことだが、他人の口から宣告されると、心臓が凍るようだった。

第三章 追われる者

リナの警告は、序曲に過ぎなかった。翌日、街を歩いていると、黒い制服に身を包んだ中央管理局の執行官たちが僕を取り囲んだ。「コードネーム『エミッター』を確保する」という無機質な声が、冷たい空気を震わせた。

僕は反射的に走り出していた。路地裏を駆け、人々の間をすり抜ける。背後から追っ手の足音が迫る。その時、僕の身体から複数のシャドウが迸った。過去の恋の名残である彼らは、僕を守るように壁となり、執行官たちの前に立ちはだかった。あるシャドウは悲しみのオーラで彼らの足を鈍らせ、あるシャドウは喜びの光で目を眩ませる。

「カイ!」

リナの声がした。彼女はエアバイクに乗って僕の隣に並ぶと、手を差し出した。「乗って!」

なぜ彼女が? 疑念よりも、生き延びたいという本能が勝った。彼女のバイクに飛び乗ると、車体は急加速し、追っ手を引き離していく。風を切る音の中で、リナが叫んだ。

「あなたのシャドウは、ただのバグじゃない。彼らは…感情を持っている。まるで生きているみたいに。私はそれを確かめたい」

彼女の横顔に、科学者としての探究心と、僕に向けられた人間的な興味が入り混じっているのが見えた。この追跡劇の中で、僕と彼女の間には、奇妙な共犯関係と、かすかな信頼が芽生え始めていた。

第四章 世界システムの真実

リナの案内で、僕たちは管理局の目をかいくぐり、世界のエネルギーを管理する中枢タワー『コア』の深部へと侵入した。静まり返った制御室の中央には、巨大なクリスタルが浮遊し、都市全体のエネルギー状態を青い光の明滅で示していた。その光は、今にも消え入りそうに弱々しい。

「これを見て」

リナが古いデータバンクを起動させると、壁一面に膨大なログが投影された。それは、この世界の創生期から続く、極秘の記録だった。

そこには、衝撃的な事実が記されていた。世界の『愛のエネルギー』は、設計者の予測を遥かに超える速度で枯渇し始めていた。人々が愛し合うことをやめ、感情が希薄になった結果だ。システムの崩壊を防ぐため、設計者は最後の安全装置を起動させた。それが『シャドウ・システム』。

特定の遺伝子配列を持つ人間に、無意識下で愛の感情を増幅させ、多様な『愛の形(シャドウ)』として外部に放出させる機能。そのシャドウが放つエネルギーが、枯渇した世界の愛を補う代替エネルギーとして機能する。

そして、その唯一の適合者として、僕の名前――カイ――が記されていた。

僕はバグではなかった。世界を延命させるために生み出された、孤独な発電機だったのだ。僕が恋に落ちるたび、その多様な感情のスペクトラムが世界を支えていた。

第五章 一つの愛か、世界の愛か

真実を知り、呆然とする僕の隣で、リナは静かに僕の手を握った。その温もりが、冷え切った僕の心に流れ込んでくる。僕は彼女を見た。真実を探求する強い瞳。僕を庇ってくれた優しさ。追われる中で見せた、人間らしい脆さ。僕は、初めて心の底から誰かを――リナを愛しているのだと、はっきりと自覚した。

その瞬間、僕の心臓が激しく脈打った。これまで僕の周囲を漂っていた色とりどりのシャドウたちが、一斉に僕の元へと吸い寄せられていく。悲しみのシャドウも、喜びのシャドウも、後悔のシャドウも、すべてが溶け合い、一つの形になろうとしていた。リナを愛するという、ただ一つの純粋な感情へと収束していく。

ビー! ビー! ビー!

突然、制御室にけたたましい警告音が鳴り響いた。中枢タワーのクリスタルが、急速に光を失い、赤黒く染まっていく。世界のエネルギー供給量が、危険水域まで低下していた。

「やめろ、少年!」

冷徹な声と共に、管理局の局長が姿を現した。「それが何を意味するか分かっているのか。君の多様なシャドウこそが、この世界を支えるエネルギーの源泉なのだ。一つの愛に統合することは、エネルギーの多様性を失わせ、世界のシステムを崩壊させる行為だ!」

彼の言葉は、残酷な真実を突きつけていた。僕がリナを愛し、一人の人間としての幸福を手に入れることは、世界の死を意味する。

第六章 最後の選択

僕はリナと、赤黒く明滅するクリスタルを交互に見た。僕の一つの恋が、世界を終わらせる。なんという皮肉だろうか。

「カイ…」リナが涙を浮かべた瞳で僕を見つめる。「あなたのままでいて。世界なんて、どうなってもいい。私は、あなたを失いたくない」

彼女の言葉が、僕の心を締め付ける。一人の人間として、愛する人と共に生きる未来。それは、僕がずっと心のどこかで渇望していたものだった。

だが、僕はこれまで生み出してきたシャドウたちの顔を思い浮かべた。彼らは僕の愛の断片であり、同時に、このか細い世界を必死に支えてきた光でもあった。彼らの存在を、僕のエゴで無に帰してしまっていいのだろうか。

僕はリナに向かって、精一杯微笑んだ。そして、これまで集めてきたすべての光の欠片を、ポケットから取り出して握りしめる。

「僕は、愛することをやめないよ、リナ」

その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「ただ、その形を変えるだけだ。一人の君を愛する代わりに、君を含んだ、この世界すべてを愛することにする」

第七章 普遍なる光

僕は目を閉じ、意識を心臓の奥深くへと集中させた。そこには、すべてのシャドウを生み出す源泉――燃えるような光の核があった。僕は、その核を抑えていた最後の枷を、自らの意志で外した。

「さよなら、リナ」

次の瞬間、僕の身体は内側から眩い光を放ち、人間としての輪郭を失っていった。握りしめていた光の欠片は粒子となり、僕から生まれた無数のシャドウたちもまた、純粋な愛のエネルギーへと還元され、光の奔流となって世界中へと拡散していく。

僕はもはや、カイという個ではなかった。特定の誰かを愛する感情も、喜びも悲しみも失った。ただ、すべてを等しく慈しむ、温かい『愛そのもの』へと変質したのだ。

地上で空を見上げていたリナの頬に、最後の光の欠片がそっと触れた。それは、カイが彼女にだけ遺した、言葉にならない「愛している」という最後のメッセージだった。

世界は、再び柔らかな光に満たされた。停止していた機械は静かに動き出し、街には温かい色が戻る。人々は理由もわからず、胸の内に灯った温かい感情に戸惑いながらも、隣の人と微笑みを交わし始めた。

リナは空を見上げ、光が満ちていく世界を静かに見つめていた。一粒の涙が彼女の頬を伝う。世界は救われた。しかし、彼女が愛したただ一人の人間は、もうどこにもいない。だが彼の愛は、この世界の空気や光、そして人々の心の中に、永遠に生き続けるだろう。

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