第一章 錆びついた記憶屋
雨の匂いがした。
ネオンの光が滲む、路地裏の湿った匂いだ。
俺は指先についたオイルを拭うと、ため息をついて椅子に深く沈み込んだ。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開く音。
言わなくてもわかる。
あの足音だ。
躊躇いがちで、けれど決して引き返さない、あの不器用な足音。
「……カイトさん」
予想通りの声が、薄暗い店内を震わせた。
俺はモニターから目を離さずに応える。
「また来たのか、エレナ」
「ごめんなさい。でも……」
彼女は濡れたコートを抱きしめたまま、カウンターの向こうで立ち尽くしている。
エレナ。
この街で最も美しい瞳を持つ女。
そして、この店――記憶処理専門店『ムネモシュネ』の、一番厄介な常連客。
「また、戻ったの?」
俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「ええ。昨日の夜、夢に出てきたの。あの人の声も、体温も、全部。……消したはずなのに」
俺は舌打ちを噛み殺し、立ち上がる。
「座りな。診断する」
彼女が施術用のリクライニングチェアに体を預ける。
その横顔は、陶器のように白く、脆そうだった。
俺の仕事は単純だ。
客の脳内にある「忘れたい記憶」を特定し、データとして抽出、あるいは破壊する。
失恋、トラウマ、犯罪の目撃情報。
この街では、記憶はただのデータファイルに過ぎない。
だが、彼女のケースは異常だった。
「同じ記憶を、もう五回も消してるんだぞ」
俺は彼女のうなじにプラグを差し込みながら言った。
「わかってる。でも、苦しいの。息ができなくなるくらい」
「……そんなに辛い恋だったのかよ」
「わからない。顔も名前も思い出せないのに、胸のここだけが、焼けつくように痛いの」
彼女は胸元を細い指で握りしめた。
俺はコンソールに向かい、キーボードを叩く。
モニターに彼女の脳内マップが展開される。
青白いニューロンの海。
その深層に、赤黒く明滅するノイズの塊があった。
『コラプト・ファイル(破損記憶)』。
通常、一度消去した記憶が自然修復されることはあり得ない。
だが、彼女のこの記憶だけは、まるで不死鳥のように蘇る。
「始めるぞ。少し眩暈がするかもしれない」
「……お願いします」
エンターキーを叩く。
俺の意識は、彼女の脳内へとダイブした。
第二章 データの海の底で
視界が反転する。
そこは、夕暮れの公園だった。
セピア色の空。
揺れるブランコ。
(ここが、彼女の消したい場所か)
俺は仮想アバターとして、その風景の中に立っていた。
美しい風景だ。
だが、ここには強烈な「悲しみ」のバグが蔓延している。
空間のあちこちにノイズが走り、世界が歪んでいる。
『行かないで』
声が聞こえた。
エレナの声だ。
ベンチに座っている二人の人影が見える。
ひとりはエレナ。
もうひとりは……。
俺は目を凝らす。
男の顔には、モザイクのようなノイズがかかっていた。
記憶の欠損。
あるいは、意図的なプロテクト。
俺はその男のデータに触れようと手を伸ばす。
バチッ!
指先に電流のような衝撃が走った。
(なんだ、この拒絶反応は?)
ただのデータじゃない。
これは、もっと根源的な……。
現実世界で、俺の本体が冷や汗をかいているのがわかる。
心拍数が上がっている。
「……くそっ、固いな」
俺はコードを書き換え、強制アクセスを試みる。
『俺のことなんて、忘れたほうがいい』
男の声が響く。
ノイズ混じりの、低い声。
その声を聞いた瞬間、俺の胸の奥で何かが軋んだ。
既視感。
デジャヴ。
俺はこの風景を知っている。
この風の温度を。
この夕焼けの匂いを。
まさか。
俺は震える手で、男の顔にかかったノイズを引き剥がしにかかった。
「見せろ……お前は、誰だ」
ノイズが晴れていく。
輪郭が露わになる。
そこにいたのは、泣きじゃくるエレナを抱きしめる、数年前の「俺」だった。
第三章 特異点
呼吸が止まるかと思った。
現実世界の俺は、モニターの前で硬直していた。
「……嘘だろ」
俺の脳裏に、封印していたはずの「自分の記憶」が逆流してくる。
三年前。
エレナは不治の病に侵されていた。
治療法はあった。
だが、それは莫大な金がかかる、違法な遺伝子治療だった。
貧しい技術者だった俺に、そんな金はなかった。
だから、俺は売ったのだ。
自分の「才能」と「記憶」を。
闇ブローカーへの対価。
俺が持つ、天才的な記憶修復技術。
そして担保として、俺自身の「最も幸福な記憶」を差し出した。
それが、エレナとの日々だった。
『彼女が助かるなら、俺は彼女を忘れてもいい』
そう契約書にサインした。
だが、一つだけ誤算があった。
俺は彼女を忘れた。
だが、彼女は俺を覚えていた。
だから彼女は苦しんだ。
俺が彼女を見ても「初めまして」としか言わない現実に、心が壊れそうになったのだ。
その結果、彼女は皮肉にも、この店に辿り着いた。
自分を忘れてしまった男への未練を断ち切るために、その男自身に「記憶の消去」を依頼しに来たのだ。
なんという残酷な巡り合わせだ。
「……カイトさん? どうしたの、涙が出て……」
現実世界で、エレナが心配そうに俺を見上げている。
俺は慌てて目をこすった。
「いや……ちょっと、目にゴミが入っただけだ」
モニターの中で、過去の俺がエレナに告げている。
『さよならだ、エレナ。幸せになれ』
これが、彼女を苦しめている棘の正体。
俺が今、この記憶を完全に消せば、彼女は楽になるだろう。
俺との日々は完全に消失し、彼女は新しい人生を歩める。
だが、もし俺がここで「思い出した」と言えば?
契約違反。
ブローカーは即座に治療プログラムを停止させるだろう。
エレナの命は尽きる。
俺が彼女を愛していると自覚した瞬間、彼女は死ぬ。
彼女を生かすためには、俺は彼女にとって「赤の他人」であり続け、彼女の中から俺を殺さなければならない。
「……残酷な商売だな、記憶屋ってのは」
俺は自嘲気味に笑い、キーボードに手を置いた。
第四章 最後の編集
「エレナ」
「はい」
「この記憶、消すんじゃない。書き換えるぞ」
「え?」
「消そうとするから、心が抵抗してバグるんだ。だから、綺麗な『夢』に変えてしまう」
俺はコマンドを打ち込む。
悲痛な別れのシーン。
そのパラメーターを調整する。
『行かないで』という絶望を、『ありがとう』という感謝へ。
『忘れたほうがいい』という冷たさを、『ずっと見守っている』という温もりへ。
事実は変えられない。
だが、感情の色相は変えられる。
モニターの中の夕暮れが、黄金色に輝き始めた。
過去の俺が、エレナの頭を優しく撫でる。
それは実際にはなかった光景だ。
俺が作り出した、精一杯の偽物。
けれど、そこには俺の、今の本当の想いを込めた。
「……愛してる」
音にならない声で呟き、俺はエンターキーを叩いた。
《処理完了》
緑色の文字が浮かび上がる。
エレナの呼吸が穏やかになった。
ニューロンの赤黒いノイズが消え、静かな青い海が広がっていく。
俺はプラグを抜き、彼女の肩を揺すった。
「終わったぞ」
彼女がゆっくりと目を開ける。
その瞳は、雨上がりの空のように澄んでいた。
「……不思議」
彼女は胸に手を当てた。
「痛くない。……なんだか、とても温かい気持ち」
「そうか。それはよかった」
「あの人の顔は、もう思い出せないけれど……きっと、素敵な人だったのね」
彼女は微笑んだ。
俺に向けられた笑顔。
けれどそれは、店員に向けられた他人の笑顔だった。
「いくらですか?」
「今日はいい。修正パッチの保証期間内だ」
「ふふ、商売っ気がないのね、カイトさんは」
彼女は立ち上がり、コートを羽織る。
「ありがとう。これで、前に進めそう」
「ああ。……元気でな」
自動ドアが開く。
雨は上がっていた。
彼女は一度も振り返ることなく、光の溢れる大通りへと歩き出した。
その背中が見えなくなるまで、俺はずっと見送っていた。
俺の手元には、削除せずにバックアップしたデータが一つだけ残っている。
『Project_Elena.mem』
これは売らない。
誰にも渡さない。
俺が生きている限り、この痛みだけは、俺が一人で背負っていく。
「……いらっしゃいませ」
次の客が入ってくる。
俺は営業用の無愛想な顔を作り、椅子に座り直した。
ここは記憶処理専門店『ムネモシュネ』。
忘れたい過去があるなら、いつでもお越しを。
俺が、あなたの代わりに覚えていてやるから。
(完)